十字架のことば

(第一コリント人への手紙1章18)


パリサイ派の一人としてイスラエルの民の律法学者でもあった若き日のサウロ(パウロ)は、イスラエルの民に伝えられた律法を守ることが神の前で義とされることだと信じ、自分の力、努力によって律法の義については落ち度のないものであることを自負していました。
  
サウロは、議会でイエスがメシアであることを証言したステパノを殺すことに賛成し、十字架に架かったイエスを信じる人々を男女を問わず縛りあげて獄に投じ、彼らに対してひどく荒れ狂い、外国の町々にまで迫害の手を伸ばしました。
さらに大祭司からの添書をもってダマスコの地にいる信者たちを縛りあげ、エルサレムにひっぱってきて処罰するために出かけ、ダマスコの近くまできたとき、彼は復活の栄光のイエス・キリストに出会い、自分が迫害していたイエスから神の恵みの福音を伝える召命を受けました。

このとき、サウロ(パウロ)は、神の前で義とされるのは自分の力で律法を守ることではなく、 キリスト・イエスにあってわたしたちに賜わった神の恵みであることを悟り、百八十度の回心をし、イエスを信じる人々を迫害するものからイエス・キリストの福音を伝えるものへと変えられました。

劇的な回心によって変えられたパウロ(サウロ)は、それからしばらくして、聖霊の導きによって当時の世界の果てにまで福音を伝えるために各地へ旅をしました。

パウロは、聖書に預言されたとおり、イエスが十字架に掛かり、墓に葬られ、よみがえり、モーセの律法では義とされることができなかったすべての事についても、罪のゆるしの福音を信じる者はもれなく、イエスによって義とされることを宣べ伝えるものへと変えられました。

宣教の旅のなかで、パウロは、自分自身がかつて信奉していた律法によって義とされようとするイスラエルの伝統を守ろうとする多くのユダヤ人たちからの反対に会い、ユダヤ人以外の異邦人たちにも福音を伝え、特に第二次宣教旅行といわれる福音の伝道の旅においては、ギリシァのアケヤ地区、コリントの街で多くの人々がキリストの恵みの福音を受け入れ、福音を伝えるためにこの地に十八か月滞在しました。

しかし、パウロがこの地を去った後に、福音を受け入れた信徒たちに、パウロの使徒としての権威にたいする疑問が投げかけられ、さらに、信徒たちの間に派閥的な対立や、道徳的な問題、聖霊の働きについての誤った理解を抱えるなどの問題が起こり、それらの問題に答えるためにパウロはコリントの信者たちに宛てて手紙を送りました。

この手紙でパウロは、自分自身が福音を伝える使徒とされたのは、神によるイエス・キリストからの召しであり、福音を信じる人々を堅く支え、御子イエスとの交わりによつて、わたしたちを主イエス・キリストの日に、責められるところのないものとしてくださるのは神であると宣言しています。

わたしたちが救いの恵みを与えられたイエスを主として信じる同じ心、同じ思いを持つことで、たとえ意見や見解の違いがあったとしても心を一つにし互いに堅く結び合うことができると述べています。

そして、最初にコリントの街に福音を伝えに来たとき、キリストを受け入れ、救いにあずかるものとされるために最も重要なこととして伝えたことを思い起こして欲しい、と述べています。  

パウロは、コリントの地に来た時、当時のコリントの人々が影響を受けていたギリシャ哲学や修辞的な弁論を用い人の優れたことばや知恵や知識を用いることをせず、人々の目をひくようなしるしを見せて神のあかしを宣べ伝えることもせず、十字架につけられたキリスト以外、十字架のことば(メッセージ十字架のキリスト参照)以外は宣べなかった、と述べています。

それは、「十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。」からなのだと宣言しています。


「十字架のことば」とパウロが言っているのは、キリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、(第一コリント人の手紙15章3)を意味しています。
この世に来られるメシア、救い主キリストは、旧約聖書に神が約束されたとおり、人の神に対する背き、罪のために十字架の上で死なれ、葬られ、三日目によみがえられました。

イエスがこの世に降誕される約7百年前、イザヤはメシアについて「彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲しめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。彼は暴虐なさばきによって取り去られた。その代の人のうち、だれが思ったであろうか、彼はわが民のとがのために打たれて、生けるものの地から断たれたのだと。しかも彼を砕くことは主のみ旨であり、主は彼を悩まされた。彼が自分を、とがの供え物となすとき、その子孫を見ることができ、その命をながくすることができる。かつ主のみ旨が彼の手によって栄える。(イザヤ書53章3、5、8、 10参照)」と、預言しています。

ダニエルは、イエスが降誕される五百年以上前に、「 あなたの民と、あなたの聖なる町については、七十週が定められています。これはとがを終らせ、罪に終りを告げ、不義をあがない、永遠の義をもたらし、幻と預言者を封じ、いと聖なる者に油を注ぐためです。それゆえ、エルサレムを建て直せという命令が出てから、メシヤなるひとりの君が来るまで、七週と六十二週あることを知り、かつ悟りなさい。その間に、しかも不安な時代に、エルサレムは広場と街路とをもって、建て直されるでしょう。その六十二週の後にメシヤは断たれる(ヘブル語の原語でכּרת Karathは刺され殺されるの意)でしょう。ただし自分のためにではありません。またきたるべき君の民は、町と聖所とを滅ぼすでしょう。その終りは洪水のように臨むでしょう。そしてその終りまで戦争が続き、荒廃は定められています。(ダニエル書9章24-26参照)」と、エルサレムの都と神殿と城壁、未来のメシアに関わる預言のなかでメシアが断たれる、ことを預言しています。                                      

さらに、イエスが十字架に架かられる約千年前に、「 わたしは水のように注ぎ出され、わたしの骨はことごとくはずれ、わたしの心臓は、ろうのように、胸のうちで溶けた。わたしの力は陶器の破片のようにかわき、わたしの舌はあごにつく。あなたはわたしを死のちりに伏させられる。まことに、犬はわたしをめぐり、悪を行う者の群れがわたしを囲んで、わたしの手と足を刺し貫いた。わたしは自分の骨をことごとく数えることができる。彼らは目をとめて、わたしを見る。彼らは互にわたしの衣服を分け、わたしの着物をくじ引にする。(詩篇22篇14-18参照)」と、メシアが苦しみに会い、「 家造りらの捨てた石は隅のかしら石となった。(詩篇118篇22)」と、詠われたように、メシアが捨てられることが預言されています。                                

ゼカリヤもイエスが降誕される約五百年以上前に、「彼らはその刺した者を見る。(ゼカリヤ書12章10参照)」「牧者を撃て、その羊は散る。わたしは手をかえして、小さい者どもを攻める。(ゼカリヤ書13章7参照)」と、メシアが刺され、メシアが撃たれ、メシアに従おうとする人々が散らされることを預言しています。

これらの預言から浮かび上がってくるメシア(救い主、キリスト)の姿は、人に侮られ、捨てられ、自分を、とがのための供え物とし、手と足を刺し貫かれ、断たれて殺されるという姿であり、聖書が宣言しているメシアも、人を滅びに至らせる罪のなだめの供え物として神に捧げられる犠牲の子羊としての姿でした。

洗礼者ヨハネは弟子たちにイエスを紹介したときに、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」と、宣言しています。


しかし、このようなメシア(救い主、キリスト)の姿は、多くのユダヤ人にとって躓きの石となるものでした。

何故なら、聖書に約束されている多くのメシアの姿は、「主はまことをもってダビデに誓われたので、それにそむくことはない。すなわち言われた、『わたしはあなたの身から出た子のひとりを、あなたの位につかせる。もしあなたの子らがわたしの教える契約と、あかしとを守るならば、その子らもまた、とこしえにあなたの位に座するであろう』(詩篇132篇11,12参照)」。と述べられているように、ダビデの末としてこの世にあらわれ、栄光の王座に必ず座す方だったからです。

イザヤが預言したように、「ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、『不思議な助言者、力ある神、とこしえの父、平和の君』と、となえられる。そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りなく、ダビデの位に座して、その国を治め、今より後、とこしえに公平と正義とをもってこれを立て、これを保たれる。万軍の主の熱心がこれをなされるのである。(イザヤ書9章6,7参照)」という、ダビデの位に座して「不思議な助言者、力ある神、とこしえの父、平和の君」ととなえられ、完全な公平と正義をもって、永久に治められる王が、ユダヤ人たちにとってメシアとして来られる方の姿でした。        

栄光のダビデの位に座し、とこしえに治められる王の姿と侮られて人に捨てられ、自分をとがの供え物として十字架に架かる姿は、多くのユダヤ人にとって思い描くことのできない矛盾するメシアの姿であり、人々に侮られ捨てられるメシアの姿は彼らのイメージすることのできないものでした。

「 主は仰せられる、見よ、わたしがダビデのために一つの正しい枝を起す日がくる。彼は王となって世を治め、栄えて、公平と正義を世に行う。
その日ユダは救を得、イスラエルは安らかにおる。その名は『主はわれわれの正義』ととなえられる。」(エレミア書23章5,6)

「わたしは彼らの上にひとりの牧者を立てる。すなわちわがしもべダビデである。彼は彼らを養う。彼は彼らを養い、彼らの牧者となる。
主なるわたしは彼らの神となり、わがしもべダビデは彼らのうちにあって君となる。主なるわたしはこれを言う。」(エゼキエル書34章23,24)

「わがしもべダビデは彼らの王となる。彼らすべての者のために、ひとりの牧者が立つ。彼らはわがおきてに歩み、わが定めを守って行う。
彼らはわがしもべヤコブに、わたしが与えた地に住む。これはあなたがたの先祖の住んだ所である。そこに彼らと、その子らと、その子孫とが永遠に住み、わがしもべダビデが、永遠に彼らの君となる。」(エゼキエル書37章24,25)

「 『その日には、わたしはダビデの倒れた幕屋を興し、その破損を繕い、そのくずれた所を興し、これを昔の時のように建てる。
これは彼らがエドムの残った者、およびわが名をもって呼ばれるすべての国民を所有するためである』とこの事をなされる主は言われる。」(アモス書9章11,12)

これらの預言からもユダヤ人たちは、メシアが、イスラエル統一王国を繁栄に導き、近隣の諸国を平定して王座に就いたダビデ王の末としてイスラエルを異邦の国の支配から解放し、再興し、永久に王国を正義と平和によって治める王としてあらわれることを期待しました。

従って、十字架のことばは、ユダヤ人にとって期待したメシアの姿とは矛盾する、彼らのつまずきとなるものでした。


十字架の言は、ギリシア人や滅び行く者には愚かなこととしか思えませんでした。        
ギリシァ人たちにとって、すべての人の罪のために一人の人が死に、その死によっていのちががもたらされるという考えは、馬鹿げていたのです。

ギリシャ人たちにとって、神という存在は人々が夫々目標とする対象、人の要求や感情の対象であり、唯一の存在としては考えられず、彼らの神概念のなかで、神が愛のゆえに御自身を人々のために犠牲にするということはあり得ないことでした。
ギリシァ神話にでてくる神々は、すべて自己中心的で超自然的な能力や力をもって人を支配する神々です。
ギリシャ神話の神々同士が人間のように、恋愛しあったり、恋のさや当てをしあったり、恋の駆け引きをする話は考えられても、それらの神々は人間の世界を投影する天上の超自然的な神々であって、人を愛し、人を天に引き上げるために自分自身を犠牲にするというような神ではありません。   

人が死の滅びから救われるために自らを十字架の上で犠牲にし、復活するという神は、ギリシャ人にとって愚かな話に思われました。                                   
パウロがコリントの街へ来る前に、ローマ帝国の時代になってもギリシャ文明の影響を色濃く残すアテネのアレオパゴスの広場でエピクロス派やストア派の哲学者数人がパウロと議論を戦わせ、「このおしゃべりは、いったい、何を言おうとしているのか」と言って、珍しい新しい哲学のように人々はパウロの言うことに聞き入りましたが、イエスの十字架と死からのよみがえりのことを聞くと、集まっていた多くの人々がパウロのことをあざ笑いました。

ギリシャの人々にとってイエスの十字架とよみがえりは、愚かな話に思えたのでした。     

人が他の人のためにいのちを投げ出すということは、彼らにとって愚かな考えであり、聖書に述べられているように、人の罪のゆえに救い主が十字架の上で死なれたという十字架の言は、ユダヤ人にとっては躓きとなり、ギリシャ人や異邦人にとっては愚かなことに思えたのでした。  

ローマの信徒たちに宛てた手紙のなかでも、パウロは「わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である。(ローマ人への手紙1章16)」と、宣言しています。

「十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力。」なのです。

ヨハネも、「しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。(ヨハネ福音書1章12)」と、十字架のことばが人を救いに至らせる神の力であることを宣言しています。


聖書には、神によって創造された最初の人が、置かれた素晴らしい環境のなかで、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。 と言われた神の警告に背き、誘惑する者のことばに従って、禁じられたたった一本の木から実をとって食べ、そのため人には死がもたらされた、と述べられています。

「このようなわけで、ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだのである。(ローマ人への手紙5章12)」

「見よ、すべての魂はわたしのものである。父の魂も子の魂もわたしのものである。罪を犯した魂は必ず死ぬ。(エゼキエル書18章4)」

「罪の支払う報酬は死である。(ローマ人への手紙6章23)」

神は人が罪によって死に至るものとなったことを宣言しています。すべての人が罪のために神の栄光を受けられなくなったのです。

イエスが人の罪の贖いの代価、神への背きにたいする犠牲のなだめの供え物として、わたしたちのために血を流され、十字架の上で死なれたという十字架のことばを受け入れる人々にとっては、十字架のことばはわたしたちの罪のすべてを神が赦し、神の栄光を受け取ることのできる、救いに至らせる神の力を意味します。

しかし、イエスが血を流され、十字架の上で死なれたという十字架のことばは、多くの人々にとって気に障るメッセージであり、人の罪の贖いの代価、神への背きにたいする犠牲のなだめの供え物としてわたしたちのために血を流され、十字架の上で死なれ、よみがえられたイエスを信じることによってのみわたしたちが神の前で義とされる、というメッセージに多くの人々が苛立ち、気持ちを害されます。

十字架のことばは、あなたにとって気に障る、愚かなことのように思えるでしょうか。     

十字架のことばは、人の知識や知恵によって理解しようとするとき、愚かで馬鹿げたことのように思えるかもしれません。

十字架のことばが多くの人にとってつまずきとなることもあります。             

しかし、十字架のことばは、救われるものにとっては、わたしたちを罪の滅びから救う神の力なのです。
もし、十字架のことばが愚かであり、つまずきとなるのなら、その人は罪によって必ず滅びに至ります。


神は人が滅びに至ることを望んでおられません。全能で聖なる神はすべての人の裁きの日を定められていますが、人々が悔い改め十字架のことばを受け入れ、永遠のいのちを得るものとなることを望んでおられます。

「キリストに代ってあなたがたに願います。神の和解を受けなさい。神は罪を知らないかたを、わたしたちの罪の代わりに罪とされました。それは、わたしたちが、この方、御子イエスにあって神の義となるためなのです。(第二コリント人への手紙5章20,21参照)」

「ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。(第二ペテロの手紙3章9)」

イエスが人の罪の贖いの代価、神への背きにたいする犠牲のなだめの供え物としてわたしたちのために血を流され、十字架の上で死なれたという、十字架のことばを信じるか、信じないかは知識による選択ではなく、わたしたち一人一人の心の選択です。

「十字架の言」は滅び行く者には愚かですが、救にあずかるわたしたちには、人の知恵や知識を超えた神の力です。



 
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