信仰の選択

(使徒書28章17-24)


使徒書は、イエスが「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」と、言われたように、初期のキリストの教会とその宣教の歴史、イエスがキリストでありメシアであることがエルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで証しされていったことが記録されています。

わたしたちは、使徒書を通してエルサレムの教会の福音の証し、ピリポが聖霊に導かれユダヤ、サマリヤへとキリストを証しし福音が伝えられ、教会を迫害するサウロが復活のイエスに出会い劇的な回心をし、回心したパウロによって当時の世界の地の果てまで福音が伝えられてゆく様子をみてゆくことができます。

この箇所には、当時の世界の政治の中心、首都ローマにおいて使徒パウロがイエスが救い主であることを証しするに至ったこと、ローマに在住するユダヤ人たちに福音の証しを宣べる詳細が述べられています。

パウロは、各地からの福音の伝道旅行からエルサレムに戻った後、同胞であるユダヤ人を前に自分自身が教会を迫害する者だったこと、復活のイエスに出会い、イエスがイスラエルの民に約束されたメシアであることを証しし、栄光のイエスから『行きなさい。わたしが、あなたを遠く異邦の民へつかわすのだ』」という召命を受けて異邦人への伝道を行ってきたことを述べようとしました。

エルサレムで同胞のユダヤ人に福音を証しする機会を与えられたにも拘わらず、「異邦人」という言葉を聞いたユダヤ人は暴動を起こし、このためにパウロは暴動を起こした張本人としてローマの千卒長によって牢につながれ、むち打ちの拷問にかけて取り調べを受けるよう命じられ、縛られてしまいました。

このとき、パウロは、そばに立っている百卒長に、「ローマの市民たる者を、裁判にかけもしないで、むち打ってよいのか」と言い、これを聞いた百卒長は、千卒長のところに、「あの人はローマの市民なのです」と報告したので、千卒長はパウロのところにきて「あなたはローマの市民なのか」と詰問し、パウロが、「わたしは生れながらの市民です」と言うのを聞いて、パウロを取り調べようとしていた人たちは、ただちに彼から身を引き、千卒長も、パウロがローマの市民であること、また、そういう人を縛っていたことがわかって恐れ、翌日、ユダヤ人がなぜパウロを訴え出たのか、その真相を知ろうと思って彼を解き、同時に祭司長たちと全議会とを召集させ、そこに彼を引き出して、彼らの前に立たせ、こうして、パウロは議会の前でもイエスの復活を証しする機会を与えられました。

しかし、このときもパウロが死人の復活の望みについて述べると、パリサイ人とサドカイ人との間に争論が生じ、結局再びローマの兵営に身柄を拘束されてしまいました。

同胞であるユダヤ人たちの前で長年の願いであった福音を二度も証しする機会を与えられたにも拘わらず、パウロは思いに反して暴動と身柄を拘束されるという惨憺たる状況に陥ってしまいました。

思惑に反し、福音を伝えるたびに暴動を招き、エルサレムでも投獄されるという結果に気落ちするパウロに、夜イエスが現れ、パウロを励まし、念願としていた世界帝国の首都ローマで福音を証しする機会が与えられるという約束をされました。

パウロはローマ兵によって身柄を拘束されてから二年後に、自分の無実を証明するために皇帝に上訴し、首都ローマにおいて、在住するユダヤ人たちにもイエスの福音を証し述べる機会を与えられました。

パウロが首都ローマにおいて福音を述べ、証しすることが出来るというイエスの言葉は現実のものとなり、実現しました。

イエスの約束は、パウロの思っていたような方法とは異なった方法で実現し、パウロはエルサレムでもローマでもユダヤ人たちに福音を証しする機会を与えられました。

神の約束は、時にわたしたちの思いをはるかに超えた方法で実現し、現実のものとなります。
                   


パウロは、イエスの名に逆らい、イエスを信じるエルサレムの信者たちを迫害し、大祭司からの委任状を受けてダマスコへ向かう途上に復活のイエスに出会ったときから回心し、そこで栄光のイエスから福音をすべての人々に伝えるように任命されましたが、神はパウロの心に働きかけて、同胞のユダヤ人と地の果ての異邦人に福音を伝えたいという願いを起こさせ、福音の伝道旅行を始めた早い時期から当時の世界の首都ローマへ行って、人々に福音を伝えたいという強い思いを抱いていました。

     
「 あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。」(ピリピ人への手紙2章13) 

こうして、パウロはローマに在住するユダヤ人たちに、ベツレヘムで生まれ、ナザレ村で育ち、数々の奇跡を起こし、大祭司、イスラエルの議会から恨みを買い、ローマの極刑である十字架刑に掛かり、復活されたイエスこそが、旧約聖書に様々に述べられている預言の成就であり、イスラエルの民にアブラハム、イサク、ヤコブ、イスラエル統一王国に繁栄をもたらしたダビデ王をとおして約束された油注がれたメシア、神の御子キリストだということを旧約の預言を引用しながら説明し、人々に神の国の栄光に満ちた福音のメッセージを宣べました。

神は人類を滅亡から救われる神の御子メシアの到来とその誕生について、人類の歴史のなかで誕生以前から預言者や賢者たちによってその到来を告げてこられました。

旧約聖書のはじめからメシアの到来は至るところに告げられ、メシアが人々を滅びからどのように救われるのかということは、あらゆるタイプ、歴史的物語のなかに示されています。      例えば、

メシアが来られるとき、人類を欺き罪の縄目に陥れたサタンの頭が砕かれ、サタンは女から生まれる約束された神の御子のかかとを砕くこと、(創世記3章15)

アブラハムが百歳を過ぎて授かった神からの約束の独り子イサクをモリヤの山で生贄として捧げるという試練を受けたこと。(創世記22章)

神の御子メシアは、処女から聖霊によって女に宿り、ベツレヘムで誕生すること。(イザヤ書7章、9章。ミカ書5章)。

モーセの律法からも、イエスが世の罪を取り除く神の犠牲の子羊として罪の贖いとなられ、裁きからわたしたちが逃れる道となってくださったことが示されていること。

さらに、イエスが弟子の一人に裏切られ十字架の死に至り葬られるまでの短い時間の詳しい歴史的事実、それらの出来事がすべて預言されたことの歴史的な成就であることを旧約聖書のあらゆる預言を引用しながら(ゼカリヤ書、イザヤ書、詩篇、アモス書、ダニエル書)証明したに違いありません。(メッセージ“確かな預言のみことば"参照)


イエスほど人類の歴史の始まるその当初から預言され、古代からの歴史的な事実について詳しく預言された事柄がその人物をとおして成就したという例は、他の世界中の歴史上どのような宗教指導者にも見ることが出来ません。
イエスご自身ベテスダの池のほとりで三十八年もの間、病に苦しんでいた人を安息日に癒され、その時に、ユダヤ人たちがイエスが安息日を破られたばかりではなく、神を自分の父と呼んで、自分を神と等しいものとされたことに憤り、イエスに詰め寄るのに、「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。」(ヨハネの福音書5章39)と、答えられています。

イエスが神の油注がれた神の国の王であり、旧約聖書に預言されている300以上もの詳細な事柄について、その事柄が成就されたことを見ても旧約聖書全体がイエスを証ししていることがわかります。

仏陀、モハメッド、孔子など、信仰の対象となってきた人たちの誰一人として、その聖典とされる書物に、彼らがこの世に出現する何世紀以前に誕生や生涯について預言され、その預言が歴史的事実として成就したという例はありません。

イエスがキリストであるという信仰のように、神が選ばれ、神の霊によって千五百年以上の期間に様々な人々によって記され、預言された歴史的な記録が一人の人のこの世の出現に焦点を当てているという信仰は他の宗教に類を見ない特異性を持っています。

パウロはユダヤ人に福音を宣べるとき、常にイエスがイスラエルの民の希望だということを宣言しています。

福音の弁証のために、パウロはユダヤ人たちに「わたしは、神がわたしたちの先祖に約束なさった希望をいだいているために、裁判を受けているのであります。」と述べています。

このように、パウロは集まったユダヤ人たちに神の国のことをあかしし、またモーセの律法や預言者の書を引いて、イエスについて彼らの説得につとめましたが、ある者はパウロの言うことを受けいれ、ある者は信じようともしませんでした。


天地を創造された神が人を救うために御子イエスをこの世に送られ、人を滅びに至らせる罪の贖いの代価として十字架に掛かられ、預言されたとおり復活され、イエスを信じるすべての人々に復活をとおして永遠の命の保証となられ、やがて成就する神の国の王、メシアとしてすべての被造物を治められるという素晴らしい福音を聞いても、ある人々は福音を受け入れ、ある人々は信じようともしません。

イエスのように、どんな科学的予測よりも正確に預言を成就し、歴史上現実にこの世に来られた人物は出現していません。
しかし、いつの時代でも、ある人々は、イエスを人生における救い主として受け入れ信じ、同じ福音の真理を聞きながら、ある人々は神のことばの真理に耳を傾けようともしないのです。 

ある人々は、イエスが神の御子メシアであることを自分の救いとして受け入れ、信仰によって永遠のいのちを得るものへと変えられます。しかし、一方である人々は福音を聞いても神のことばの真理を信じないで罪のうちにとどまります。

使徒パウロは、このことについて、「福音は、すべて信じる者に、救を得させる神の力である。 神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは、「信仰による義人は生きる」と書いてあるとおりである。」(ローマ人への手紙1章16、17参照)と、述べています。

福音が自分に与えられた神からの恵みであるということを受け入れるか、拒否するかは正にすべての人、一人一人の信仰の選択に他なりません。
イエスが語られた種まきの譬えには、神のことばがあらゆる人々の上に落ち、同じ神のことばを聞いても、異なった人の心の状態によって異なった受け止められかたをすることが描かれています。(メッセージ「人生の優先順位」参照

神のことば、福音のメッセージを聞いても、ある人々たちがそれを自分の救いとして受け入れないのは、福音のメッセージが信じることのできないものだからではなく、結局は創造の神が語られていることを聞きたくないからであり、人々はあらゆる言い訳によって信じろことを否定しようとするからです。

パウロはこのことについて、イエスがキリストでありユダヤ人の先祖に約束されたメシアであることを受け入れようとしないユダヤ人たちに、旧約聖書のイザヤが述べたことば、
『この民に行って言え、あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らない。
見るには見るが、決して認めない。
この民の心は鈍くなり、その耳は聞えにくく、その目は閉じている。
それは、彼らが目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、悔い改めていやされることがないためである』
ということばを引用して、福音のことばがユダヤ人ではない異邦人にも伝えられ、彼らが福音を受け入れ、それに聞き従うであろうと宣言しました。

わたしたちが福音を聞いて、それを受け入れることができないのは、信じがたいからではなく信じたくないからです。
信仰は真理を見極め、それを自分の人生に受け入れるか、信じたくないという思いに心を閉ざし、信じないということを前提に自分の論理を組み立て、神のことばと真理を拒否するか、という一人一人の選択にかかっています。

人生において、最も大切な選択は、食べることや着ることではなく、神の国を求め、朽ちることのない宝を天に積み上げるという選択をすることです。
わたしたちにとって、福音を受け入れ、一時的なものではなく永遠に残るものを目標とすることほど大切なことは人生にありません。
      


使徒書のメッセージに戻る


a:878 t:1 y:0

powered by HAIK 7.0.5
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. HAIK