真夜中の賛美

(使徒書16章25-31)


イエスの御霊の導きにしたがって、パウロとシラスは福音を宣べ伝えるためにフルギア・ガラテヤ地方からムシアを通ってトロアスに下り、マケドニアへ渡りピリピの地へ行きました。
これは、現在のトルコからギリシャへ渡り、マケドニア地方の都市で世界制覇を成し遂げたギリシャ帝国のアレクサンダー大王の父フィリップの名にちなんでピリピと名づけられた当時ローマ帝国第一の殖民都市でした。

パウロとシラスは、ピリピで福音を宣べ伝えていましたが、この地には十人以上の成人男子が住んでいる場所には必ず存在したユダヤ人の会堂がなかったので、町の門を出て、祈り場があると思われた川岸で集まって来た女たちに福音を伝えました。
テアテラ市の紫布の商人で、神を敬う、ルデヤという女がパウロの語る事を聞いていましたが、主が彼女の心を開いて福音に心を留めるようにされたので、彼女もまたその家族もバプテスマを受け 多くの人々もパウロの語ることばに耳を傾け集まるようになりました。

そんなある日、パウロたちが祈り場に行こうとすると、占いの霊に憑かれた女奴隷に出会いました。
この女は、占いをして、主人たちに多くの利益を得させていましたが、彼女はパウロたちのあとについて来て、「この人たちは、いと高き神のしもべたちで、救いの道をあなたがたに宣べ伝えている人たちです。」と叫び続けました。
この女がパウロとシラスについて述べた内容そのものに偽りはありませんでしたが、彼女は、嘲笑的で皮肉たっぷりな言い方でパウロとシラスに付きまとったのでしょう。

同じ内容の情報を全く異なった意味にすり替えて人々の心を神の真実から背かせるのは常にサタンの常套手段です。

これに困り果てたパウロは、振り返ってその霊に、「イエス・キリストの御名によって命じる。この女から出て行け。」と言い、女から悪霊を追い出しました。
しかし、この女から悪霊が追い出され、女が悪霊によって占いをする能力を失ってしまったのを知った彼女の主人たちは、自分たちの利益を得る望みが絶えたのを見て、パウロとシラスを捕えて役人たちに訴えるため広場へ連れて行き、マケドニアの長官に引き渡し、「この者たちはユダヤ人でありまして、私たちの町をかき乱し、ローマ人である私たちが、採用も実行もしてはならない風習を宣伝しております。」と、訴え群衆も二人を責め立てました。


パウロとシラスがピリピの人々に福音を宣べたことは間違いありませんが、彼らがパウロとシラスを訴え責め立てた本当の理由は、パウロたちが霊感を持つ女から悪霊を追い出し、人々の運勢を女によって占い利益を得ていた主人たちの儲けがなくなったからでした。

ローマ帝国第一の殖民都市であったピリピの地ではローマ帝国皇帝が神格化され、ローマ皇帝以外のものを主とよぶことに対して強い圧力と迫害の手が伸ばされ、皇帝以外のものを王とすることは反逆とみなされました。

当時ローマ帝国の殖民都市にはユダヤ人の風習に反発する空気が強くあって、ユダヤ人の成年男子が十人以上住む地域では世界中のどこにでもユダヤ人の会堂が建てられていたのにこのピリピの地には会堂が存在しなかったのも、こうした街の空気を反映していたのだと思われます。

したがって、このようななかで群衆は、長官の前でパウロとシラスがユダヤ人であることを強調し、イエスというローマ皇帝以外の王を崇拝するようにピリピの人々を煽動していると言って、二人を責め立てたので二人はむちで打たれ獄に入れられました。

多くの場合、人々が福音に反対するとき、福音の本質的な問題よりも福音を受け入れることによって受ける当面の不利益に見える事柄のほうを問題にし、つねに目に見える表面的な事柄に捉われ、福音を伝える人や、福音そのものに屁理屈をつけて反対をするのです。

こうして、パウロとシラスは、神からの召命を受け、聖霊に導かれて福音を宣べるためにマケドニア地方に渡った筈なのに、理不尽な群衆によって人々から訴えられローマ帝国の軍人であるピリピの役人によって不当にむちで打たれ足かせを掛けられ、奥の牢に入れられてしまいました。

サタンは、わたしたちが理不尽な試練に出会うとき、わたしたちの心に黒雲のように沸き上がる、神の愛にたいする疑念を起こさせます。

もし、神が愛の神であるなら、何故このような不条理な状況の起こることを許されるのだろうか?主の霊の導きによって異国の地に渡り、救いの道を人々に伝えようとしているのに、不当な訴えによって裁判も受けず一方的にむちで打たれ、足かせを掛けられ、奥の牢に入れられたパウロとシラスは、状況を見るかぎり、神を賛美するような状況ではなかったに違いありません。

しかし、詩篇の作者が「『なぜ、あなたは私をお忘れになったのですか。なぜ私は敵のしいたげに、嘆いて歩くのですか。』私に敵対する者どもは、私の骨々が打ち砕かれるほど、私をそしり、一日中、『おまえの神はどこにいるか。』と私に言っています。」(詩篇42篇9,10)と、詠んだときのように、どのような状況にあっても主に叫び、完全に自分を主に明け渡して生ける神に賛美の声をあげるとき、「わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。なぜ、御前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い、私の神を。」(詩篇49編11)という心の変化がもたらされ、霊が引き上げられる体験をすることが可能です。  


パウロとシラスがこのような肉体的にも精神的にも苦痛な状況のなかにあって、牢で真夜中を過ごしたとき行ったことは、主に心を注いで祈り、主への賛美の歌を歌うということでした。

真夜中に歌う彼らの歌声を聞いて、きっと最初は他の囚人たちから、「黙れ。うるさい。さっさと寝ろ。」というような怒声を浴びせられたかも知れません。
現代もその当時も牢獄のなかは決して友好的な雰囲気ではなく、囚人たちは気をいらだたせて真夜中の牢獄で時を過ごしていたに違いありません。
しかし、パウロとシラスは真夜中の牢獄のなかで主に心を注ぎ、賛美の歌声をあげました。

肉体は牢につながれていてもパウロとシラスの霊は完全に自由な状態でした。
もしどのような状況におかれても、聖霊に満たされて未来に光と希望を見出すことができる人は、肉体に束縛を受けていても霊の自由を得ることができます。
しかしどんなに肉体的な自由を得ていても、心に永遠の光と希望を持ち得ないとき、人は霊的に束縛された状態にあります。

主に従おうとしながら、ちょうどパウロとシラスが人々に訴えられ、むち打たれ、足かせを掛けられ、牢獄の奥で真夜中を迎えるというような理不尽な状態に陥れられ、肉体的にも束縛された状況になるとき、わたしたちは、問題に捉われ、サタンの攻撃に心を奪われます。

サタンは、わたしたちが試練にあうとき、わたしたちの心に愛の神にたいする疑念を起こさせ、わたしたちの心を真夜中の闇のなかに陥れ、「何故神は、」という神への疑念に心を向けようとします。 
しかし、心が神にたいする疑念で占められそうな状況のなかでも聖霊に満たされてキリストに完全に自分を明け渡し、心の焦点を合わせ、イエス・キリストの変わることのない愛に信頼するとき、わたしたちにも状況を超えた喜びと平安、主への賛美へと心は変えらます。

状況を超えて主への賛美の歌を歌うとき、賛美の歌はわたしたちの感情にも驚くべき変化をもたらしてくれます。

賛美の歌を歌うとき、神への愛、主にある喜びと平安、主への感謝は単にことばであらわす以上の深い感情を表現することができます。

愛するものへ、その愛を歌によって表現するとき、わたしたちの霊も歌によって引き上げられます。
真夜中の牢獄のなかでパウロとシラスが祈りながら、神への賛美の歌を歌っていると、他の囚人たちもその賛美に聞き入り、暗闇の牢獄は賛美の家へと変えられ、人々は全能の神の愛に心の焦点を変えられました。

旧約聖書のなかにも、しばしば試練のなかで主への賛美の歌によって、霊が引き上げられ、状況が変えられていったことが記録されています。

詩篇を読んだダビデはサウロ王に命を狙われ、息子のアブサロムによって王位を簒奪されるというような度々の試練のなかで主なる神への賛美を歌い、霊が引き上げられたことを詠んでいます。

「わが力なる主よ、わたしはあなたを愛します。主はわが岩、わが城、わたしを救う者、わが神、わが寄り頼む岩、わが盾、わが救の角、わが高きやぐらです。わたしはほめまつるべき主に呼ばわって、わたしの敵から救われるのです。」聖歌隊の指揮者によってうたわせた主のしもべダビデの歌、すなわち主がもろもろのあだの手とサウルの手から救い出された日にダビデはこの歌の言葉を主にむかって述べて言った(口語訳 詩篇18篇1-3)

モアブとアンモン人の大軍がユダ王国を攻め囲んだとき、このおびただしい大軍を前にしてユダ王国の王ヨシャパテは、生ける神の約束の確かさに拠り頼んで祈り、主を礼拝し、大声を張り上げてイスラエルの神、主を賛美し、彼らが賛美の声をあげ始めたとき、主は伏兵を設けて、ユダに攻めて来たアモン人、モアブ人、セイル山の人々を襲わせたので、彼らは打ち負かされました。(歴代誌下20章21-22参照)


牢獄のなかで真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌い、ほかの囚人たちも聞き入っていると、突然、大地震が起こって、獄舎の土台が揺れ動き、たちまちとびらが全部あいて、みなの鎖が解けてしまうという奇跡が起こりました。

使徒書の別な箇所では、ヘロデ王が迫害の手をのばし、弟子ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺し、それがユダヤ人に喜ばれるのを見て、ペテロを捕えて牢に入れ、四人一組の兵士四組に引き渡して監視させ、過越の祭りの後に、民の前に引き出して処刑しようとペテロを牢に閉じ込め、教会が彼のために祈っていたときに起こった奇跡が記録されています。

同じような状況のなかで神が働かれ奇跡を起こされるとき、わたしたちは、ともすると神が起こされる方法を一つのパターンのなかに押し込め、自分たちの理解できる状況や体験によって理解しようとします。 

神はご計画されていることを実現されるとき、同じような状況のなかでも一つの方法に制限されることなく、わたしたちの思いを超えた様々な方法で幾つもの奇跡を起こされます。

神が何故そのようにされるのかは、わたしたちには御座の前に立つときまで分かりませんが、神の永遠のご計画が違うことはありません。

突然、大地震が起こって、真夜中の眠りから起こされた牢獄の看守たちは、獄舎の土台が揺れ動き、牢のとびらが全部あいて、みなの鎖が解けてしまったことを知って、囚人たちが脱走してしまったものと思い、剣を抜いて自殺しようとしました。
それは、もし囚人が脱走した場合、その囚人を見張る役目を負っている看守は、囚人が受けるべき刑が死罪であるばあいには看守がその罪を負わなければならないというのが当時のローマ法だったからでした。

そこでパウロは大声で、「自害してはいけない。私たちはみなここにいる。」と叫び、看守はあかりを取り、駆け込んで来て、パウロとシラスとの前に震えながらひれ伏し、ふたりを外に連れ出して「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか。」と言いました。
パウロとシラスは「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と言い、看守とその家の者全部に主のことばを語りました。

看守は、その夜、時を移さず、ふたりを引き取り、その打ち傷を洗い、そのあとすぐ、彼とその家の者全部がバプテスマを受け、それから、ふたりをその家に案内して、食事のもてなしをし、全家族そろって神を信じたことを心から喜びました。

すべての人々を愛され、これらすべてのことを初めからご存知であった神は、ローマ帝国に忠誠を誓い、表面的には屈強な、決してイエス・キリストを主として受け入れることなど思いもよらないピリピの看守の心の底を知られ、パウロとシラスには理不尽と思われる試練を受けることを許されて、看守とその家族にキリストの証しをし、福音を伝え、永遠のご計画と目的のなかで看守とその家族を救いの道に招かれました。

後にパウロは、「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。」(ロマ書8章18参照)と、述べています。

主なる神は、ときにわたしたちの人生に理不尽と思われるような状況に会う試練を許されますが、そのような真夜中の暗闇のなかでわたしたちが神に祈り、完全にイエスに信頼し賛美の歌を歌うとき、神の永遠のご計画のなかで人々が栄光の光を見ることのできる奇跡を起こされます。
イエスの愛は決して絶えることはありません。



 
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