この御名以外には

(使徒書4章12)


イエスが「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」と弟子たちに宣言された言葉のとおり、五旬節の日になって、みながエルサレムに一つ所に集まっていたとき聖霊が彼らに臨みました。

エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国から来て住んでいましたが、聖霊に満たされてそれぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、驚きあきれ、互いに「いったいこれはどうしたことか。」と言い、群衆のなかには「彼らは甘いぶどう酒に酔っているのだ。」と言ってあざける者もでてきました。

このとき弟子のペテロは、他の十一人の弟子たちと共に立って、聖霊が臨み弟子たちが聖霊に満たされて語りだしたことの意味について、「それは『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。 その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。
また、わたしは、上は天に不思議なわざを示し、下は地にしるしを示す。それは、血と火と立ち上る煙である。主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。 しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる。』 という
旧約のヨエルの預言の成就であるり、イスラエルの人たちは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺してしまったが、神は、この方を死の苦しみから解き放ってよみがえらせ、この方が死につながれていることなど、ありえないことを宣言しました。

イエスの復活は、ダビデが旧約の詩篇(詩篇16編)のなかで「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。
それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。
まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。」と詠んだメシアの預言の成就 であり、イエスの十字架と復活が神の最初から定めた計画と予知によるものであり、(使徒書2章23,32) 神はこのイエスをよみがえらせ、弟子たちがそのことの証人であることを証言しました。

ペテロはさらに、「ダビデは天に上ったわけではありません。彼は自分でこう言っています。『主は私の主に言われた。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまではわたしの右の座に着いていなさい。』 ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」(使徒書2章34-36)と、イエスの復活と天に上げられた御座のイエスが、父なる神の約束された聖霊を弟子たちに注がれ、それによって彼らが異言を語っていることを人々に力強く証ししました。

そして、「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。
なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。」(使徒書2章39)とペテロの宣言を聞いていた人々に勧めました。

このペテロのことばを受け入れた者は、バプテスマを受け、その日、三千人ほどが弟子に加えられました。(使徒書2章41参照)

そして、エルサレムで多くの人々が悔い改め、福音を信じ、バプテスマを受け、彼らは毎日、心を一つにしてエルサレムの宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、 神を賛美し、毎日人々が仲間に加えられてゆきました。(使徒書2章41)  

イエスの名によって起こった奇跡

この数日後、弟子のペテロとヨハネは、午後三時の祈りの時間に宮に上って行くと、宮の門の前に生まれつき足のきかない男が運ばれて来ました。
この男は、宮にはいる人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」という名の宮の門に置いてもらっていましたが、ペテロとヨハネが宮にはいろうとするのを見て、施しを求めました。

ペテロが、ヨハネとともに、その男を見つめて、「私たちを見なさい。」と言うと、男は何かもらえると思って、ふたりに目を注ぎ、ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」と言って、彼の右手を取って立たせました。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだし、飛んだり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮にはいって行くという奇跡が起こりました。

この男がペテロとヨハネにつきまとっている間に、この奇跡を見て非常に驚いた人々がみないっせいに、ソロモンの廊という回廊にいる彼らのところにやって来ました。
ペテロは、このとき人々に「イエスの御名が、その御名を信じる信仰のゆえに、あなたがたがいま見ており知っているこの人を強くしたのです。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの目の前で完全なからだにしたのです。」と言って彼らを取り囲んだ人々に イエスの御名を証しし、イエスの十字架と復活について述べ、イエスによる罪の赦しを得、悔い改めて、神に立ち返ることを人々に宣べました。

彼らが民に話していると、祭司たち、宮の守衛長、またサドカイ人たちがやって来て、ペテロとヨハネが民を教え、イエスのことを例にあげて死者の復活を宣べ伝えているのに困惑し、ペテロとヨハネを捕らえ二人を翌日まで牢に留置しました。

翌日、民の指導者、長老、大祭司たちはペテロとヨハネが民を教え、イエスのことを例にあげて死者の復活を宣べ伝えていたことを追求するために使徒たちを真中に立たせて、この奇跡について取り調べ、「あなたがたは何の権威によって、また、だれの名によってこんなことをしたのか。」と尋問しました。(使徒書3章参照)

このとき、ペテロは、聖霊に満たされて「民の指導者たち、ならびに長老の方々。私たちがきょう取り調べられているのが、病人に行なった良いわざについてであり、その人が何によっていやされたか、ということのためであるなら、皆さんも、またイスラエルのすべての人々も、よく知ってください。この人が直って、あなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのです。『あなたがた家を建てる者たちに捨てられた石が、礎の石となった。』というのはこの方のことです。この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」(使徒書4章8-12)と、大胆に答えています。


ペテロが証しした、人が救われるためにはイエスの御名以外にはだれにも救いがない、という宣言は、イエス御自身の証しでした。

わたしたちが救われて神の御前に立つことができるのは、イエスの御名以外にはありません。

イエスははっきり、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」と、 宣言しておられます。

多くの人々が、いろいろな道を辿って神の御前に行くことが出来、肉体の滅んだ後でも救われて天国に行く道は広く開かれていると主張します。
しかし、これはイエスが「わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」と、宣言されていることとは矛盾しています。

イエスは、「わたしがいのちのパンです。」「わたしは、世の光です。」「わたしは羊の門です。」「わたしは、良い牧者です。」「わたしは、よみがえりです。いのちです。」「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」と繰り返しイエスの御名以外に創造の神のもとへ来る道がないことを宣言されています。 

その数日前に心が燃えても肉の弱さの故に、大祭司の庭で女中にさえイエスを証言することのできなかったペテロは聖霊に満たされて、イエスを十字架に架けた大祭司、議会の人々の前でイエスご自身がすでに宣言されたことを大胆に宣言しました。

「世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」

ペテロがここで宣言している、人が救われるためにはイエスの御名以外にはあり得ない、というごく限られた宣言は多くの人々を苛立たせ、イエスのみが救いに至る唯一の道であるという宣言に心をかき乱され、イエスが救われるための唯一の道だと信じる人が狂ったような態度をとります。彼らにとって、救いに至る道が唯一だということなど論外で、救われるために人にはいろいろな選択が与えられている筈だと主張するのです。

人々は心を決めて創造の神の秩序に従うことよりも、自分たちの思う理屈に神がどのように合わせてくれるのかということのほうが大事だと錯覚しています。 

しかし、すべての秩序と法則を決めておられるのは人ではなく創造主である神であり、神の御ことば、聖書は、人が救われるための道は唯一であることをはっきりと宣言しています。

人は善い行いをすることや、善意によって天国にゆくことはできないのです。さらに、律法を守ることによっても神の御前に立つことはできません。

聖書は、もし律法によって神の御前で人が義とされることができるのならイエスの十字架は必要なかったのだ、と宣言しています。

聖書は、律法の行いによっては誰も義とされることがないことを明白に宣言しています。
さらに、人は宗教的になることによっても、単に誠実であっても、ましてや人の富によって天国に行くことはできません。
わたしたちの希望はイエスの流された血、イエスの義、イエスの御名以外にはありません。

イエスの十字架は、イエスの御名による以外に人が天国に行くための方法がないということを明白に証明しています。
イエスの十字架が多くの人々の感情を害し、反発を招くのは、このために外なりません。
イエスは十字架に架かられる直前、弟子たちとともにゲッセマネの園に向かわれ、弟子たちから石を投げて届くほどの所に離れて、ひざまずき、「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」と汗が血のしずくのように落ちるほどに切に祈られました。

人の罪の赦し、人が滅びから救われるために、イエスが十字架の苦難の血を流されること以外の方法がもしあり得るのなら、この杯を取りのけてください、というのがイエスの祈りでした。

イエスが最後に弟子たちと過ぎ越しの祭りを記念する晩餐をともにされたとき、杯を取って「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい。」(第一コリント人への手紙11章25)と言われています。

イエス・キリストの十字架の苦難、流された血以外には人の罪の赦し、人が滅びから免れる方法はあり得ません。

神が人の罪を赦すために、罪のないイエスが、子羊の血による犠牲ではなくすべての人の罪の身代わりとなって十字架の上で犠牲の血を流されたことを信じ、イエスの御名を信じること以外に救われる道はありません。

血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。(ヘブル人への手紙9章22)

「肉のいのちは血の中にあるからである。わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは血である。」(メッセージ“命は血にある”レビ記17章11 参照)
血液は酸素と栄養分を、全身の細胞に送り届け、細胞は、酸素と栄養分を取り込んで、一種の燃焼を起してエネルギーを発生させ、みずからを更新したり、増殖したりして生命を維持しています。肉のいのちは血の中にあるのです。

天と地とそのなかにあるすべてを創造された神を父と呼び、人の罪が赦されて義とされ神の御前に立つことができるのは、御子の名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていません。

どんなに仏様の名を唱えても、モハメッドやアラーの名によってもイエスの御名以外に人が救われる道はあり得ません。

「この人が直って、あなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのです。」(使徒書4章10)

イエス・キリストの十字架、流された血による贖いを受け入れることなくして天国には受け入れられないというのなら、それは、あまりにも狭すぎる道ではないか、天国への道はもっと広いのではないか、と言うのならば、「 狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は 狭く、それを見いだす者はまれです。」(マタイ福音書7章13-14)というイエスの言葉をもう一度吟味する必要があるでしょう。

人の努力、誠実さによって創造の神に受け入れられることを望むなら、それは、神の聖、神の義の基準を不完全な人の基準に引き下げ、神が不完全であることを求めているということになります。 

わたしたちのために、イエスが天国への道を用意され、扉を開いてくださったのです。それを受け入れて信じるか、頑なにイエスの御名を拒むかは一人一人の選択です。

この世に来られたイエスは、度々「あなたの罪は赦された。」と言われて人々を救われています。

イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍ばれましたが、イエスがご自分の前に置かれた喜びとは、人が「あなたの罪は赦された。」と言われて救われる喜びです。(ルカ福音書5章20 参照)

十字架のような刑によって死ぬことほど恐ろしく残酷なことはありません。しかし、イエスは、わたしたちが悔い改め、心を砕いて自分のうちにある神への背き、罪への憐れみを求めるとき、喜んで「あなたの罪は赦された。」と、宣言してくださいます。

「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」(ヘブル人への手紙12章2)



 
使徒書のメッセージ

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