わたしたちの知るべきこと

(ロマ書8章28)


使徒パウロは、すべての人にとって如何に福音が素晴らしい知らせかを述べ、もたらされた福音によってわたしたちが知るべきことをこの8章全体にわたってまとめとして宣べています。
わたしたちは、信仰によって義とされ、新しいいのちに生きていても肉のからだにあって生きるかぎり、わたしたちの内に住む肉の思いと、キリストの霊とのせめぎあいを続け、心は熱していても、肉体が弱いために肉のうちに住む罪の性質に惹かれる性癖を完全に拭い去ることができません。
そして、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪をおこなっているという惨めな敗北の思いに捉われます。 
しかし、そのような思いに捉われるときでも、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からわたしたちを解放 し、わたしたちが罪に定められることは決してないという宣言がされています。

イエスキリストの十字架の贖いと復活を信じ、イエスを主とし、内に住まわれる聖霊の支配に魂の思いを委ねる人々は、魂が霊の思いによって霊である神との交わりを持ち、魂が肉の思いに支配されることから解放されています。                         
これが、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則です。

使徒パウロがこの章で述べている福音を信じる人々が知るべきことについての最初の宣言は、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがないという宣言です。

福音を信じる人々は、肉体にあって人生を歩むときにも肉の思いに勝利しているキリストの霊が内に住まわれ、この霊の導きに従うものはすでに肉の思いに打ち勝っているのです。
イエス・キリストの生きた霊は、罪と死の法則からわたしたちを完全に解放してくださいます。  

わたしたちが肉の思いではなく内に住まわれるキリストの霊に従う選び取りをするとき、わたしたちの心も内側から変えられてゆきます。
    
使徒ヨハネは、このことを、「 子たちよ。あなたがたは神から出た者であって、彼らにうち勝ったのである。あなたがたのうちにいますのは、世にある者よりも大いなる者なのである。」(第一ヨハネの手紙4章4)と、述べています。


福音の素晴らしさは、いのちの御霊の法則によって、わたしたちが勝利の歩みを保証されているばかりではなく、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださる。という約束が与えられていることです。
                  
使徒パウロは、「もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださるであろう。」と述べています。 

イエスが弟子たちから去って十字架の贖いをされる直前、弟子たちが不安に駆られ心を騒がせ、どのようにイエスのところへ行くことが出来るのか尋ねたとき、イエスは、「わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。彼は真理の御霊である。この世は聖霊を見ようともせず、知ろうともしないので、聖霊を受けることができない。あなたがたは聖霊を知っている。なぜなら、彼はあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである。 わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。あなたがたのところに帰って来る。もうしばらくしたら、世はもはやわたしを見なくなるだろう。しかし、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからである。その日には、わたしはわたしの父におり、あなたがたはわたしにおり、また、わたしがあなたがたにおることが、わかるであろう。」(ヨハネ福音書14章16-20)と言われ、弟子たちと共に、弟子たちの内にキリストの霊、聖霊が宿ることを述べられました。
                 
イエスは、イエスに従う弟子たちに宿る聖霊について、さらに「真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。彼は自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。 御霊はわたしに栄光を得させるであろう。わたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるからである。」(ヨハネ福音書16章13-14)と、述べられました。

イエスは復活された後で、復活の事実を疑い大祭司やローマ総督や兵士たちからの迫害を恐れて、おじ惑っていた弟子たちに現れ、彼らに息を吹きかけて「聖霊を受けよ。」 と 仰せになりました。    
その後、イエスは天の御坐に昇られ、五旬節の日に聖霊が弟子たちに降り、聖霊のバプテスマを受けて力を受けた弟子たちによってエルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで復活のイエスは証しされ、約二千年の時を経過してわたしたちにも福音は伝えられ、わたしたちもまたキリストにあって、真理の言葉、すなわち、救いの福音を聞き、また、イエスを信じた結果、約束された聖霊の証印をおされました。
この聖霊は、わたしたちが神の国をつぐことの保証であって、やがて神につける者が全くあがなわれ、神の栄光をほめたたえるに至るためです。(エペソ人への手紙1章1章13-14)

救いの福音を聞いて、イエスを主として歩むわたしたちには、神の国を継ぐ保証として約束された聖霊を押されています。そして終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちの朽ちるべきからだは朽ちない栄光のからだに変えられます。

使徒パウロは、このことを「ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである。
この朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬものが死なないものを着るとき、聖書に書いてある言葉が成就するのである。
『死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか』。死のとげは罪である。罪の力は律法である。しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである。」(第一コリント人への手紙15章51-57)と、述べています。


福音を信じる人々は、イエスキリストの生きた霊によって罪と死の法則からわたしたちが完全に解放されるだけではなく、神との特別な関係にあるということを知るべきです。
 
福音を信じる人々は、御子イエスによって神の子とされているのです。

使徒パウロは、福音を信じる人々が神との特別な関係にあり、神の子とされていることを、「すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。
その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる。
もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである。
わたしは思う。今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない。
被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる。なぜなら、被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させたかたによるのであり、かつ、被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである。
実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、わたしたちは知っている。それだけではなく、御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる。
わたしたちは、この望みによって救われているのである。しかし、目に見える望みは望みではない。なぜなら、現に見ている事を、どうして、なお望む人があろうか。
もし、わたしたちが見ないことを望むなら、わたしたちは忍耐して、それを待ち望むのである。 御霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けて下さる。
なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。
そして、人の心を探り知るかたは、御霊の思うところがなんであるかを知っておられる。なぜなら、御霊は、聖徒のために、神の御旨にかなうとりなしをして下さるからである。」(ロマ書8章14-27)と、述べています。
すべて、神の御霊に導かれている者は、神と律法の関係にあるのではなく神を「アバ」と呼ぶ愛の関係にあります。
                            
神はご自身の愛のゆえに、愛する御子を信じる人々を御子と同じように直接に父なる神との関係を持つことのできるものとし、キリストとともに世界を受け継ぐ共同相続人として子たる身分を授ける霊を与えてくださいました。
神は神ご自身に似せて創造されたすべての人を愛されておられますが、福音を信じる人々は特別な神との愛の関係に置かれています。  

パウロは「もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難をも共にする」と述べ、「今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない」と述べています。        

わたしたちは、現実に目に見るこの世ではあらゆる悲惨な状況や問題が生み出され、キリストの支配に委ねて人生を歩もうとするとき、必ずイエスがこの世で味会われた苦難をも共にするということが起こります。
この世の現実は、あらゆる被造物が神が創造され意図された完全な状態ではありません。
そして、わたしたちも、からだが贖われ、神の意図されている被造物が完全に贖われる世の出現を望んでいます。
                            
人の能力や努力を超えた問題、困難、悲惨な状況に遭遇するとき、わたしたちは、被造物の完全な贖いを待ち望み、そのような状況のなかで、どのように言葉に出して祈ったらよいのかわからないときにも御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのために御霊がとりなして下さいます。

使徒ヨハネは、「わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜わったことか、よく考えてみなさい。わたしたちは、すでに神の子なのである。世がわたしたちを知らないのは、父を知らなかったからである。愛する者たちよ。わたしたちは今や神の子である。しかし、わたしたちがどうなるのか、まだ明らかではない。彼が現れる時、わたしたちは、自分たちが彼に似るものとなることを知っている。そのまことの御姿を見るからである。彼についてこの望みをいだいている者は皆、彼がきよくあられるように、自らをきよくする。」(第一ヨハネの手紙3章1-3)と、福音を信じる人々が、からだの贖われるときまで人生をどのように歩むのかについて述べています。

神は神の恵みと救いを信じる人々をキリストによって神の子としての特権を与えられ、決して失望に終わることのない希望の計画を与えられています。

エレミアも選びの民が試練に出会うときに「主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。」(エレミア書29章11)と述べて神の恵みの御計画がどのような試練のなかでも希望に満ちたものであることを述べています。

神は、キリストによって神の子とされる人々を、子としてこの世にあってわたしたちのからだが栄光のからだに変えられるときまで訓練されます。

「また子たちに対するように、あなたがたに語られたこの勧めの言葉を忘れている、わたしの子よ、主の訓練を軽んじてはいけない。主に責められるとき、弱り果ててはならない。主は愛する者を訓練し、受けいれるすべての子を、むち打たれるのである」。(ヘブル人への手紙12章5-6)

福音を信じ、キリストにあずかって子としての身分を授けられる霊を受けた人々は、この世にあってキリストの苦難をも共にし、この世では主の訓練を受けることになります。 

子とされる人々は、どのような苦難や困難の状況のなかでも、神の備えと守り、神を父と呼ぶ直接的な関係、神の家族とされている特権にあずかっていることを知らねばなりません。

聖書には福音を信じ、この世の歩みのなかで困難や苦難のなかにある人々に向けた様々な励ましが述べられています。
「主は、『わたしは、決してあなたを離れず、あなたを捨てない』と言われた。だから、わたしたちは、はばからずに言おう、『主はわたしの助け主である。わたしには恐れはない。人は、わたしに何ができようか』」。 (ヘブル人への手紙13章6)

「心はすすがれて良心のとがめを去り、からだは清い水で洗われ、まごころをもって信仰の確信に満たされつつ、みまえに近づこうではないか。」(ヘブル人への手紙10章22)
「そこであなたがたは、もはや異国人でも宿り人でもなく、聖徒たちと同じ国籍の者であり、神の家族なのである。」(エペソ人への手紙2章19)


神の一方的で変わることのない愛と選びは、神の御計画に従って召された者たちと共に働いて万事を益となるようにしてくださいます。

キリストの十字架の贖いと復活によって、わたしたちがどのような状況や困難、試練のなかでもそれらのことに勝ち得て余りある神の愛から引き離されることが決してないからです。

「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。        

それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった。そして、あらかじめ定めた者たちを更に召し、召した者たちを更に義とし、義とした者たちには、更に栄光を与えて下さったのである。」(ローマ人への手紙8章28-30)

使徒パウロは同じことを、エペソの人々に宛てた手紙のなかで、「神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福し、みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。あなたがたもまた、キリストにあって、真理の言葉、すなわち、あなたがたの救の福音を聞き、また、彼を信じた結果、約束された聖霊の証印をおされたのである。この聖霊は、わたしたちが神の国をつぐことの保証であって、やがて神につける者が全くあがなわれ、神の栄光をほめたたえるに至るためです。」(エペソ人への手紙1章4,5、13,14、)と、述べています。

使徒パウロは、このような言葉に言い尽くすことのできないほどの神の救いの素晴らしさを31節からこの章の最後までに「それでは、これらの事について、なんと言おうか。もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。
ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか。
だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。
『わたしたちはあなたのために終日、死に定められており、ほふられる羊のように見られている』と書いてあるとおりである。
しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。
わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。」(ローマ人への手紙8章31-39)と述べて 、単なる知識としてではなく体験的な確信として、わたしたちが神の愛から引き離されることはないという勝利の宣言をしています。

福音を信じ、イエスキリストを主とする人々はすべての恐れから解放され、どんな患難も苦悩も迫害、餓え、裸、危難、剣によっても、あらゆることによっても神の愛から引き離されることは決してないのです



 
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