肉につける者

(ロマ書7章14)


パウロはこの箇所で、主イエス・キリストの知識に至ったとき、律法が霊的であることを悟り、わたしたちが肉体にあって生きるかぎり肉の思いと霊の思いの葛藤が生じるということを述べ、「わたしは肉につける者であって、罪の下に売られている。」と言っています。

これは、わたしたちが福音を信じる信仰によって、罪から解放されて義の僕となり新しい永遠のいのちを得るものとなった、という(6章の)宣言と一見矛盾するような信仰の体験です。

神は、わたしたちがキリストの十字架の贖いと復活を信じた瞬間から、わたしたちを古い自分からキリストの支配に人生を委ねる新しい人へと変えられます。
しかし、その瞬間に罪によって滅びに至るわたしたちの肉体が贖われて新しいからだに変えられるわけではありません。

キリストにあって、新しいいのちに生きるわたしたちは、古き人をその行いと一緒に脱ぎ捨て、造り主のかたちに従って新しくされ、真の知識に至る新しき人を着るものとされています。
使徒パウロは、福音を信じるエペソの人々へ宛てた手紙のなかでも、「あなたがたは、心の深みにまで新たにされて真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである。」と述べています。

パウロは、わたしたちがキリストを信じた瞬間から、すでに造り主のかたちに従って新しい人とされていると宣言している一方で、何度も新しい人生の歩みがキリストに支配されているという思いによって歩む選択の大切さを強調しています。

もしわたしたちが福音を信じ古い自分から、キリストの支配に人生の支配を委ねた瞬間から新しい人とされているのなら、幾度もイエスを救い主として心の深みまで新たにされることを強調する必要はないということになります。

神は、わたしたちが福音を信じた瞬間からわたしたちをキリストにあって新しくされた義なるものと見做し、福音を信じる人々が置かれている恵みの場所が変わることのないと宣言されています。
                 
しかし、わたしたちは現実に肉体をもって信仰の人生を歩むとき、瞬間的に新しい完成された義を行う思いに支配されて、新しい思いに完全に変えられて歩む訳ではありません。 

わたしたちは、信仰によって義とされ、新しいいのちに生きてていますが、肉のからだにあって生きるかぎり、わたしたちの内に住む肉の思いと、キリストの霊とのせめぎあいを続けながら人生を歩みます。

福音を信じても滅びるべきわたしたちの肉体が新しい栄光のからだに変貌するときまで、古い肉の思い、肉のうちに住む罪の性質に惹かれる性癖を完全に拭い去ることはできません。 


この箇所でパウロが「わたしは肉につける者であって、罪の下に売られている」と述べるとき、多くの神学者たちのあいだで「わたし」と一人称で言っているのがパウロ自身のことなのか、もしそうであれば、パウロが「肉につける者」と述べているのはパウロが復活のイエスに出会う以前の自分のことを述べているのか、あるいは、復活のイエスに出会った直後のキリストにある幼子の状態の自分のことを述べているのか、又は成熟した霊の人として歩む自分のことを述べているのか、どのような信仰の段階にあるのかについて様々な見解に分かれてきました。

パウロが復活のイエスに出会い回心する以前のことを述べていると言う人々は、恵みの下にあって、罪から解放された福音を信じる人々が罪に支配されることはないと主張します。

福音を信じキリストの霊が内に住まわれる新しいいのちに生きる人々がどうして「わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。」という叫びをあげることがあるのか、すでにキリストにあって贖われた人々が惨めで死の滅びからの救いを求める叫びをあげることは矛盾しているではないか、と主張するのです。

この手紙をローマ人に宛てて書いている時点のパウロ自身だと言う神学者たちは、パウロが「わたしは肉につける者であって、罪の下に売られている」と、現在形で「肉につける」問題について述べていること、ロマ書6章で述べている「わたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きる」ということについての言及は、福音を受け入れた人々に向けられた宣言であって、キリストの贖いと復活を受け入れていない人々に対して向けられたものではない、もしロマ書7章14から25までのパウロの宣言が復活のイエスに出会い、福音を信じる以前の体験だというのなら、パウロ自身が「同国人の中でわたしと同年輩の多くの者にまさってユダヤ教に精進し、先祖たちの言伝えに対して、だれよりもはるかに熱心であった。」(ガラテヤ人への手紙1章14参照)、「律法の義については落ち度のない者である。」(ピリピ人への手紙3章6参照)と告白していることと矛盾している、「わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしている。」という心の葛藤はキリストの福音を信じる人々の心のなかで肉体が滅びるまで起こる葛藤であって福音を信じる以前の、律法によって義とされようとする人々の心に起こる葛藤の叫びではではない、と主張します。

パウロが復活のイエスに出会った直後のキリストにある幼子の状態の自分のことを述べていると主張する人々は、この箇所が現在形でかかれているのは、復活のイエスに出会った直後の自分の状態が過去のものであっても、その体験が現在起こっている出来事のようにパウロにとって鮮明であり、復活のキリストに出会った直後に、律法が外見の目に見える行動を規制しているだけでなく、人の心の動機についても完全を要求する霊的なものであることを悟り、キリストの霊の完全な支配に自分を委ね、律法から完全に解放される自由な自分を発見するまでの、新しい霊のいのちに歩もうとしながら未だ贖われていない肉のからだにあって歩む、自分の葛藤を述べているのだと主張します。


パウロは復活のイエスに出会い、律法が霊的なものであることを悟ったとき、神の律法を行おうとしても自分の肉の思い、肉のからだには、律法の霊的な面を守ることのできない自分に気付き、「わたしたちは、律法は霊的なものであると知っている。しかし、わたしは肉につける者であって、罪の下に売られているのである。わたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである。もし、自分の欲しない事をしているとすれば、わたしは律法が良いものであることを承認していることになる。そこで、この事をしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。 わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。 すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。そこで、善をしようと欲しているわたしに、悪がはいり込んでいるという法則があるのを見る。 すなわち、わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、 わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。」(ローマ人への手紙7章14-24)と、心の葛藤を述べています。

パウロは、肉と霊が対立し合っていて、肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反し、私たちは自分のしたいと思っていることができない、と述べています。

そして、「律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです。(7:12)」と言い、「わたしは、内なる人としては、神の律法を喜んでいる」とも述べています。

律法が霊的なものであることを悟ったとき、律法の本当の意図がわたしたちの心の状態について述べていることを悟ることができます。                             
「殺してはならない」と律法が言うとき、人を殺したことなどないから自分は潔白だということはできません。もし、心のなかで兄弟を憎んだのなら、殺人を犯していることと同じだというのです。
「姦淫をしてはならない」と、律法が言うとき、婚姻外の異性と性交渉を持ったことがないから自分は潔白だということはできません。情欲を抱いて女を見るものはすでに姦淫を犯しているのです。

パウロはパリサイ派の律法学者として外側に表れる行いの上では律法を守っていましたが、神が意図される律法本来の心の状態に自分がないことを悟りました。
わたしたちは、自分の行いの動機、心の状態が神には喜ばれないことに気付くとき、自分の心のなかで、自分の行いの動機を神に喜ばれるものに改めようと誓い、その努力をします。

しかし、どのように決心し、努力をしようとしても、何度でも自分の思いのなかに、神の喜ばれない思い、自分の行いが神の律法に縛られていることに気付き、罪の意識に苛まれます。
パウロは、「わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がない」「善をしようと欲しているわたしに、悪がはいり込んでいるという法則があるのを見る。 わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。」と述べています。

パウロは、14節から25節の箇所で“わたし”という語を24回、わたしに、わたしの、自分自身に、という語を14回も使っています。

わたしたちは、自分自身に焦点を合わせるかぎり肢体に存在する罪の法則のとりことなります。
福音を信じる人生を歩む人々も、肉のからだにあって歩むかぎり、わたしたち自身に焦点を合わせるとき、肉のうちに住む罪の性質に惹かれる性癖を完全に拭い去ることはできません。

パウロは、“わたし”という堂々巡りをするかぎり、「わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。」という心の叫びをあげ「だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。」と自分自身には解決のないことを認め、その直後に自分以外に助けを求め、そこにすべての問題の解決の光があることを述べています。
わたしたちは、自分で出来ると思っている限り、躓きと挫折を繰り返し続けます。

自分にはできないということを認め、「わたしは、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」と言って、自分以外に助けを叫び求め始めるとき、はじめてわたしを超えて自分ではできないことを可能にして下さる神の力を体験するのです。

自分の思いのなかで自分がキリストとともに十字架に掛けられ死んだものだということを本当に体験するとき、復活のキリストにある新しいいのちを持つことができ、聖霊の力を体験し、キリストにある新しいいのちを体験するのです。

聖霊は、私たち自身の強さを越えた強さを与えてくださいます。それは、誰も十字架に自分自身を掛けることができないのと同様に、自分の思いや肉の努力を超えた神ご自身の力を体験するとき聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれていることを知り、“わたし”ではなく神ご自身の素晴らしいご計画にあずかる人生の歩みを歩むものへと変えられます。



 
ロマ書のメッセージに戻る


a:864 t:1 y:0

powered by HAIK 7.0.5
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. HAIK