新しいいのちに生きる

(ロマ書6章1-5)


わたしたちは、神の一方的な恵みによって、キリストによる義の業を完成してくださったことを信じる信仰によって、神に対して平和を得ています。

自分の決心や努力だけでは純粋で聖なる義の基準に達することができないにも拘わらず、神はキリストによってわたしたちの義を完成してくださり、わたしたちが栄光の神の御座の前に立つものとしてくださいました。
           
そればかりか、神の栄光の勢いにしたがつて賜わるすべての力によってわたしたちが強くされ、何事も喜んで耐えかつ忍び、人生の試練をとおして練られ、神の栄光の約束が確実な希望であるという体験をすることができます。

神はこのような素晴らしい恵みと愛を、わたしたちが神に背き敵対していたときに示してくださいました。

使徒パウロは、このような素晴らしい恵みが与えられているのは、罪の増し加わったところには、神の恵みもますます満ちあふれることを、わたしたちが知るためだと述べています。

罪の増し加わったところには、神の恵みもますます満ちあふれるのなら、恵みが増し加わるために、罪にとどまるべきであろうか、という疑問が湧いてくることに対して、非常に強い口調で、恵みが増し加えられるために罪にとどまることなど断じてない、罪に対して死んだわたしたちが罪にとどまることはあり得ないと断定しています。

神は、御子をこの世に送られ、罪のないかたをわたしたちのために罪とされ、わたしたちの罪の責めを代わりに十字架の上で負ってくださいました。

最初に人が神に似せて創られ、自らの意志で神の意志に従うか、神に敵対するものに従うかという選択を迫られたとき、人は神の警告に反抗し神に敵対する者のことばに従ったときから、わたしたちは罪に束縛されるものとなりました。

しかし神はキリストの十字架と復活による義の業によって、わたしたちを罪から解放し、永遠の栄光に満ちた神の国のものとしてくださいました。

すべての人が最初の人アダムאָדָם 'adamが犯した罪のもとにあって、解き放ち難い罪の欺き、束縛、破滅に至るものとなりましたが、最後のアダム、イエスを信じる信仰によって神から与えられている救い、神との平和、神の栄光にあずかる希望の約束、わたしたちに与えられる永遠のいのちの素晴らしい恵みをすべての人が受けることができます。

この恵みは、恵みを受けてわたしたちが栄光のイエスに似たものへと変えられて、この世での人生を歩み、神の国で永遠の栄光を御子イエスと共に相続するためのものであって、わたしたちが意図的に罪に妥協し、神の恵みを試すために罪のなかにとどまり続けるためではありません。


パウロは、わたしたちが神からの一方的な贈り物、恵みであるイエスを受け取り、イエスをキリストと信じることは、キリストが罪を背負われて十字架の上で死なれたように、わたしたちの古い罪の性質もキリストとともに死に、復活されたキリストとともに、わたしたちも新しい栄光のイエスに似たものへと変えられて、この世の人生を歩むものへと変えられることを信じることだ、と宣言しています。

そして、「 それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。」(ロマ書6章3,4) と述べて、イエス・キリストを信じる信仰とはキリストのバプテスマを受けることだと述べています。

バプテスマという言語の語源βαπτίζω baptizo は、浸される、染められるという意味になります。 

イエスを信じ、キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けるということは、キリスト・イエスの死にあずかって古い罪の内在する肉の自分が死に、イエスと共に葬られ、さらに、キリスト・イエスが死人のなかからよみがえられたように、彼の復活の様にひとしくなって、わたしたちも新しいいのちに生きる選び取りをし、イエス・キリストに浸され、キリストに似たものへと染められるということを意味しています。

わたしたちがイエスを信じ、洗礼を受けるのは、まさにこのことに他なりません。

わたしたちは、キリストの霊に浸されて、肉の欲望に欺かれ束縛される古い自分が、十字架のキリストに結びついて、彼の死と共に葬られ、キリストの死の様とひとしくなり、復活のキリストとともに栄光の新しいいのちに染められ、キリストに似たものへと変えられて生きるのです。


人は,神の福音による力以外には罪の束縛から逃れ、キリストにある勝利の人生を歩むことはできません。

どんなに性質の善い人でも、神に背く罪の性質を持っています。

わたしたちは、肉体をもってこの世で生きる限り誰ひとりとして誘惑から逃れることはできません。
目に見える美しいものに惹かれ、肉体に快感を与えると思われるものを求め、他と比べて自分自身を誇りたいと思う思いに捉われます。  

すべての人が神に背く罪の性質をもってこの世に生まれ、誘惑に出会うとき、程度の差は人によって異なっていてもその誘惑に惹かれ、欺かれ、束縛され、そのために様々な問題を引き起こします。

すべての人が最初の人アダムが犯した罪のもとにあって、様々な問題に束縛され、そこから自分を改めようと努力するだけでは、神がわたしたちに求められる義の基準に達することはできません。

例えば、アルコール依存の問題を例にとって見ると、もともと、人の心を喜ばすものとして与えられたワインを飲んで楽しんでいたはずなのに、ワインを楽しむことがワインを飲まずにはいられない、という状態に陥ります。

これは、ワインそのものが問題であるよりも、その人がアルコールの誘惑に捉われ、自分の欲望を自分自身で欺き、束縛されてゆくわたしたちの肢体に宿っている罪が根本の問題なのです。 

ポルノ中毒となってゆく人の場合にも問題そのものの現象は異なっていても、性欲そのものが問題なのではなく誘惑に捉われ、自分の欲望を自分自身で欺き正当化し、束縛されてゆくわたしたちの肢体に宿っている罪が根本の問題です。

さらに、イエスが何度も指摘されたように、自分の力で道徳や戒めを守っていると思っている人の場合にも、その人の心に潜む自分が他と比べてより道徳的であることを誇り、自分が義であることを誇る偽善的な思いが潜み、それは純粋で聖なる神の義の基準からはほど程遠く、より根深い罪なのだということにに気付かずに、神の真理を欺くという問題を引き起こしています。

人によってあらわれる罪の問題は様々ですが、わたしたちは内に住んでいる罪の性質によって誘惑に出会い、自分の欲望に惹かれ、束縛から逃れることができなくなり破滅へと至ります。

しかし、それらのわたしたちの持っている罪の問題を、キリストが十字架の上で帳消しにされ、わたしたちの罪のために死なれ、復活されて栄光の御座に生きておられ、わたしたちが新しい栄光の永遠のいのちを約束されていると信じるのなら、罪の性質を持った古い自分から、キリストの支配に人生を委ねる新しい自分に変えられることを知らなければならないのです。
イエスを信じるということは、わたしたちの肉の思い欲望を掻き立て、わたしたち自身に内在する罪の束縛と支配から、イエスを救い主として自分を明け渡し、キリストの支配に自分の人生を委ねてゆくことを意味しています。

イエス・キリストを受け入れるということは、かつてアルコ-ル中毒、ポルノ中毒、麻薬中毒、偽善者、高慢な者、偶像礼拝者であった罪の内在する古い自分は、死んだものと見做されなければならないのです。

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(第二コリント人への手紙5章17) 」

神は、罪がわたしたちを支配することをご存知です。罪は人を欺き、束縛し、破滅に至らせます。    

神は、わたしたちが罪に支配され滅びに至るかわりに、御子イエス・キリストの十字架の死と復活によって、この恵みを信じるすべての人が罪から解放され新しいいのちに生き、永遠の栄光の神の国を継ぐものとなることを望まれています。

神は、キリストの死と復活によって、かつてわたしたちを支配していた肉の欲望の虜ではなく、キリストの死と復活とともにわたしたちを新しい人とされたのです。


神は、恵みにより、信仰によってわたしたちを罪の支配から義の支配へと移されたばかりでなく、わたしたちを新しい人へと変え、栄光の永遠のいのちの生きた希望を与えてくださいました。
わたしたちが神の恵み、キリストの完成された義のわざを信じるとき、その瞬間から、わたしたちを完成された栄光の神の御前で義とされた状態にあるものと神は見てくださいます。
しかし、神の恵みを受け入れキリストを信じる信仰を持った瞬間から、わたしたちが完成された完全なものとなった訳ではありません。

パウロでさえ、この世の人生を歩み続けるかぎり、栄光の復活のキリストに出会い数十年を経過した後も「 わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。
兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。」(ピリピ人への手紙3章12-14) と述べて、自分が完全にキリストに似たものとして完成したのではなく、キリストにおいて神からの賞与を受けようと、後のものを忘れ、前のものにむかってからだを伸ばし、目標にむかって走っていると宣言しています。
使徒パウロはこの箇所で、わたしたちが神のキリストにある恵みを受け取り、勝利の歩みを歩むうえで、知っている、認める、捧げるという三つの鍵となる言葉によってキリストに似せらたものへと変えられる秘訣を強調しています。

第一に「わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。」(ローマ人への手紙6章6)と述べているように、わたしたちの罪によって誘惑に欺かれ、束縛され、そのために様々な問題を引き起こす古い人はキリストの十字架とともに死んで葬られ、わたしたちはもはや罪の支配ではなく、キリストの義の支配のもとにあることを知らなければならないということです。

第二に「罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである。」(ローマ人への手紙6章11)と述べられているように、わたしたちは、古い自分が死にキリスト・イエスに似せて永遠に生きるものとされたことを認めなければならないのです。

第三に「 また、あなたがたの肢体を不義の武器として罪にささげてはならない。むしろ、死人の中から生かされた者として、自分自身を神にささげ、自分の肢体を義の武器として神にささげるがよい。」(ローマ人への手紙6章13 )と述べられているように、わたしたち自身を不義の道具として罪に捧げるのではなく、自分自身を義の道具として神に捧げなければならないのです。

わたしたちは、誘惑によって欲望に捉われ罪の束縛や律法によって生きるのではなく、誘惑から解放される自由を選び取り、恵みにあって神に生かされ、聖霊に導かれ、聖霊を注がれて生きるものとされているのです。

様々な問題を引き起こす古い人は、キリストの十字架とともに死んで葬られ、もはや罪の支配ではなく、キリストの義の支配のもとにあることを知り、罪の支配ではなく義の支配にあることを認め、自分を義の武器として捧げるとき、わたしたちは必ずキリストにある勝利の歩みを歩むものへと変えられてゆきます。



 
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