満ち溢れる神の恵み

(ロマ書5章1-5)


パウロは、人が神の前で義とされるのは、キリスト・イエスを信じる信仰によるものだと宣言しています。 

神は、人の中から出てくる汚れ、心に思い図る悪い思い、あらゆる偽善、自分自身の心を欺き、他と自分を比較して自分の正しさに固執しようとするあらゆる思いと行い、創造の神でない偶像を自分の神とし、真理を阻もうとするあらゆる人間の思いと行いに対して当然の帰結として、過去も現在も未来も変わることなく有罪の判決を下されています。
すべての人が神の完全な規準からは堕落した存在です。どんなに頑張っても自分の決心や努力だけでは、神の前に義とされて立つことができないために、わたしたちは神の要求する純粋で聖なる義の基準に反抗し、敵対している状態で、神との平和を自分の力や努力によって得ることができません。

しかし、神は愛する独り子のイエスをこの世に送られ、わたしたちすべての罪、人の汚れ、あらゆる偽善、心の欺き、自分の正しさに固執しようとする高慢さ、創造の神でないものを神として拝む偶像礼拝などのあらゆる思いと行いに対するわたしたちに向けられるべき裁き、神の怒りをイエスは十字架の上で一身に受けて下さいました。

人の思いや方法を遥かに超えて罪のない方をわたしたちの罪の身代わりとして死なせ、人の罪を贖い、イエスを死人の中からよみがえらせた神を信じ、神の恵みの約束を疑わず、栄光を神に帰すとき、わたしたちも、アブラハムが信仰によって義とされたように神の前で義と認められます。
パウロがこの箇所で宣言しているように、このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ているのです。  
信仰によって義とされる素晴らしさは、わたしたちの感情や思いや行いではなく、イエスが完成された贖いを信じる信仰によって神との平和を得ていることです。

神との平和を得ることほど、わたしたちの人生にとって重要なことはありません。
わたしたちは、イエスが「 わたしをつかわされたかたは、わたしと一緒におられる。わたしは、いつも神のみこころにかなうことをしているから」(ヨハネ福音書8章28参照)と言われたように、いつも神のみこころにかなうことを行っているわけではありません。
しかし、わたしたちが神の喜ばれる行いをすることができず、たとえ誤った行いや不純な思いに捉われたとしても神との平和は変わることなく、行いの不完全さにも拘わらず、キリストによって神がわたしたちの罪を贖われ、復活によって永遠のいのちが与えられているという変わらない事実を信じることによって、神はわたしたちを義と認め、神との平和が得られているのです。 
それは、一方的に神がわたしたちのために、キリストによる義の業を完成してくださったからであり、神の一方的な恵みです。 
神との平和が得られているということは、必ずしも平安な感情や静寂が得られているということではなく、もはやわたしたちが神と敵対関係にはない、神が人に提示されている平和の条件に同意し、神に敵対する側ではなく神の側に立っていることを意味します。                    
神との平和が得られることと、神の平安が得られることは同じではありません。
神は、わたしたちの心と思いを人知ではとうてい測り知ることのできない状況を超えた神の平安によって守られます。この神の平安をわたしたちが自分のものとするためには、神との平和がキリスト・イエスによってはじめて得ることができます。
人が神との平和を得るのではなく、神がイエスによって神との平和を得させてくださったのです。
神はイエスの十字架の血によって平和をつくり、万物、すなわち、地にあるもの、天にあるものを、ことごとく、彼によってご自分と和解させて下さいました。


パウロは、人が神との平和を得、神の栄光の御座の前に立つことができることは神の一方的な恵みだと宣べています。
神はわたしたち人間に対して、わたしたちを祝福しなければならない何の負い目を持っておられません。 
神がわたしたちを愛し、祝福の約束、栄光の希望を与えられているのは、わたしたちが神に対して愛すべき存在だったからでも、祝福に値する何かを行ったからでもなく、わたしたちが神に敵対し、神に背を向けていたときにも神がわたしたちを愛し、祝福したいと願われていたからです。

神の愛と慈しみは人の思いを遥かに超えています。

神は御旨によって慈しもうと思うものを慈しみ、恵もうと思うものを恵まれます。まさに、イエスキリストの十字架と復活は、神のわたしたちへの慈しみと愛の証しにほかなりません。それは、信じるものすべてに開かれている神との平和であり、神の栄光にあずかる希望です。
神の恵みが一方的であり、わたしたちがその恵みを受け取るに値する何ものかを持っていると考えるのならそれはもはや恵みではなく、自分の値に対する報酬ということにになります。
わたしたちは、神からの祝福を求めるとき、それが恵みによるものであることを忘れ、あたかも自分の値に対する報酬のように思うことがあります。

わたしたちの肉の思いには、自分の努力や能力によって認められ、自分には価値があることを誇りたいという拭い難い願望があります。しかし、もし神が、人の努力や能力によって得た価値のゆえに、その人を認め祝福をされるというのなら、それはその人への報酬であって恵みではありません。

神は律法によってわたしたちを義とされるのではなく、恵みによってわたしたちの信仰によって義とされるのです。それはわたしたち自身から出たことではなく神の犠牲的な贈り物です。
わたしたちが肉の思いによって自分の努力や能力を誇ろうとするなら神の恵みが与えられる場を失ってしまいます。神はわたしたちの高慢な肉の思いを嫌われます。高ぶりや自分自身を誇る心は神の一方的な恵みを受け取ることができないからです。

エリシャが、北イスラエル王国に対する預言者であったときのことです。ヨラム(紀元前820-804年の治世)が当時の王であったとき、ナアマンは数々の戦功をたてた勇猛なシリアの将軍でした。 しかし、彼には公けにし難い苦悩がありました。それは、彼が不治の病、らい病を患っていたからでした。彼の妻には、イスラエルに侵略したときに捕虜として捕えた女が仕えていましたが、主人の夫である将軍が不治の病をわずらっていることを聞いてイスラエルには不治の病を癒すことのできるエリシャという預言者がいるということを知らせました。

そこで、ナアマンは王からの委任状を携え、おびただしい褒美の品を揃え、自分のたくさんの将校を引き連れてイスラエルに下って行きました。そして、イスラエルの王に自分の病を癒すことを要請しました。将軍ナアマンの要請を受けたイスラエルの王は、これを聞いて、シリア軍が侵略の口実に解決不可能な難題をふっかけて戦争を起こそうとしているのだと思い、衣を引き裂いて嘆きました。

このことを聞いたエリシャは王に人をつかわして、「どうしてあなたは衣を裂いたのですか。彼をわたしのもとにこさせなさい。そうすれば彼はイスラエルに預言者のあることを知るようになるでしょう」と言いました。

そこでナアマンは馬と車とを従えてエリシャの家の入口に立 ちました。すると、エリシャの使いのゲハジが入り口まで応対に出て、ナアマンに「主人はこのように言っております。ヨルダン川へ行って七度身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだは元のように治ります。」と伝えました。これを聞いたナアマンは、怒りました。怒りで、煮えくり返っていました。ナアマンは言いました。「何ということだ。わたしはエリシャ自らわたしを戸口に迎えて立ち、その神、主の名を呼んで、その箇所の上に手を動かして、らい病をいやすのだろうと思った。ところが自分で戸口まで出て迎えることもせず使いの者の伝言だけで応対した」と、エリシャの無礼に激しく怒り、怒りに震えながら「あんな汚い泥だらけのヨルダン川に腰をかがめて入れと言うのか。我々には、ダマスコに美しい、きれいな川があるではないか。」と、言ってシリアへ帰ろうとしました。

一行がヨルダン川の近くに来たとき、僕たちがナアマンに近よって、「ご主人様。もし、あやつが、何かあなたに勇気のいる偉大なことをするように命じたとしたら、ご主人様はそれを喜んでなさったことでしょう。しかし、あまりに簡単なことを命じられたので、あなたは憤慨しておられます。エリシャの言うとおりやってみて、損することはないではありませんか。どうかここで彼の言うことを試されては如何でしょう。」と言ってナアマンがヨルダン川で七度からだを浸かることを説得しました。
ナアマンがヨルダン川の水でからだを七度洗って水から出てくると、らい病で腐って白くなっていた皮膚の部分がなくなり、皮膚は幼子のからだのように元どおりきれいな肌色になっていました。(列王記下5章参照)

ナアマンの誇り、預言者エリシャにたいする憤りは、わたしたちが神の恵みを受け入れる信仰によって義とされるという宣言を聞くときに、わたしたちが持っている肉の思い、自分の努力や能力によって認められ、自分には価値があることを誇りたいという拭い難い思いを代表しています。

わたしたちも、褒められるべき善い行い、自分の努力、決心によって神に認められたいという思いを抱きます。                                  

しかし、わたしたちが救われ、義とされるのはわたしたちの褒められるべき努力や能力によるのではなく一方的な神の恵み、御子イエスキリストの福音を信じる信仰のみなのです。
恵みに対しわたしたちがとる適切な態度は、ただ感謝し、イエス・キリストによって満ち溢れる神の恵みに導き入れられていることを喜ぶことです。


パウロは、神はわたしたちが福音を信じる信仰によって義と認めてくださり、わたしたちが神の側に立ち、神との平和を得ていると宣言しています。
そして、さらにわたしたちはキリストにより、いま立っているこの恵みにより信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいると宣言しています。 
わたしたちが信仰によって義と認められる素晴らしさは、神との平和が得られているだけでなく、わたしたちが天国に入り、栄光の神の御座の前に立つことが出来るということです。
それは、わたしたちが神のために何かを行ったからではなく、神がわたしたちを愛され、わたしたちの罪のなだめとなり贖いの業を御子キリストによって完成してくださったからです。
神の栄光にあずかることの出来る素晴らしさを考えたことがあるでしょうか。
神の栄光をことばであらわし尽くすことはできませんが、永遠で不変の神の栄光について述べている箇所は聖書のなかに随所に垣間見ることができます。
神の永遠の栄光について、使徒パウロは、 「万物は、神からいで、神によって成り、神に帰するのである。栄光がとこしえに神にあるように、アァメン。」(ロマ書11章36)という祈りをしています。
使徒ペテロも「人はみな草のごとく、その栄華はみな草の花に似ている。草は枯れ、花は散る。
しかし、主の言葉は、とこしえに残る」(第一ペテロの手紙1章24,25)と、神の栄光が永遠で不変であることを述べています。
神はイスラエルの民がモーセに率いられ約束の地に向かうとき、シナイ山に民を集められ、モーセを呼び寄せて民のために戒めと民が神を礼拝するために、神の栄光と御座を模した幕屋の建設の指示をモーセに与えられました。

山の麓から民が神を仰ぎ見たとき、その足の下には澄み渡る大空のようなサファイアの敷石のごとき物がありました。主の栄光は山の頂で、燃える火のようにイスラエルの人々の目に見えたが、モーセは雲の中にはいって神から戒めと幕屋建設のための細かい指示を受けました。
この直後、モーセが神に「どうぞ、あなたの栄光をわたしにお示しください」と懇願したときも、神は、「あなたはわたしの顔を見ることはできない。わたしを見て、なお生きている人はないからである」そして、「見よ、わたしのかたわらに一つの所がある。あなたは岩の上に立ちなさい。わたしの栄光がそこを通り過ぎるとき、わたしはあなたを岩の裂け目に入れて、わたしが通り過ぎるまで、手であなたをおおうであろう。そしてわたしが手をのけるとき、あなたはわたしのうしろを見るが、わたしの顔は見ないであろう」と言われました。(出エジプト記33章20-23)

この箇所からも神の栄光が如何に素晴らしく勢いと力に満ちたものであるかを伺い知ることができます。

使徒パウロは、神が恵みにより信仰によって導き入れられたわたしたちに、神の栄光の勢いにしたがつて賜わるすべての力によって強くされ、何事も喜んで耐えかつ忍び、光のうちにある聖徒たちの特権にあずかるに足る者とならせてくださった、と宣言しています。(コロサイ人への手紙1章11,12参照)

使徒ペテロも「神は、その豊かなあわれみにより、イエス・キリストを死人の中からよみがえらせ、それにより、わたしたちを新たに生れさせて生ける望みをいだかせ、あなたがたのために天にたくわえてある、朽ちず汚れず、しぼむことのない資産を受け継ぐ者として下さったのである。」(第一ペテロの手紙1章3,4)と、わたしたちの受け継ぐ栄光の素晴らしさについて述べています。


パウロは、わたしたちが福音を信じる信仰によって義と認められるときに患難をも喜んでいる、なぜなら、患難は忍耐を生み出し、忍耐は品性を生み出し、品性は希望を生み出すことを、知っているからである。 そして、希望は失望に終ることはない。と述べています。

イエスは、この地上で父なる神の御旨を十字架の上で完成される直前に「父よ、時がきました。あなたの子があなたの栄光をあらわすように、子の栄光をあらわして下さい。 子に賜わったすべての者に、永遠の命を授けさせるため、万民を支配する権威を子にお与えになったのですから。永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります。わたしは、わたしにさせるためにお授けになったわざをなし遂げて、地上であなたの栄光をあらわしました。父よ、世が造られる前に、わたしがみそばで持っていた栄光で、今み前にわたしを輝かせて下さい。」(ヨハネの福音書17章1-5)と祈られ、さらに、福音を信じるすべての人々がイエスの持っておられる栄光を共に完全に体験するものとなるように祈られています。
イエスは、神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿であって、その力ある言葉をもって万物を保っておられます。そして罪のきよめのわざをなし終えてから、いと高き所にいます大能者の右に、座につかれています。(ヘブル人への手紙1章3参照)

わたしたちは、イエスが言われたように、この世では悩みがあります。しかし、信仰によって義とされた人々にとってイエスがすでにこの世に勝利され、どのように悲惨に思える状況のなかにでもイエスにあって平安を得ることが出来ることが約束されています。(ヨハネ福音書16章33参照)  

ヤコブも、「わたしの兄弟たちよ。あなたがたが、いろいろな試錬に会った場合、それをむしろ非常に喜ばしいことと思いなさい。あなたがたの知っているとおり、信仰がためされることによって、忍耐が生み出されるからである。」(ヤコブの手紙1章2,3)と述べています。

わたしたちの信仰は、この世での患難や悩みのなかで忍耐が練られ、試練のなかでより精錬され、自分たちのコントロ-ルできる範囲を超えた状況のなかでも、神の栄光に満ちた約束が変わらず、神の愛の深さを知るとき、患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを体験します。

パウロは、「 わたしは思う。今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない。」(ロマ書8章18)
「なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにこのしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。」(第二コリント人への手紙4章17)と述べて、福音を信じる人々に与えられている栄光の希望が現実のものであり、この永遠の栄光に比べればどのような患難も一時のものなのだ、と宣言しています。

わたしたちは、神の御計画の全貌を見ることはできません。しかし、福音を信じる人々に約束されている栄光にわたしたちがあずかるという神の御計画は変わることがありません。

パウロは、わたしたちが患難や悩みに会うとき信仰によつて、忍耐が生み出され、栄光の神のデザインにわたしたちが練られ、神の栄光の約束が確実な希望であるという体験をすることができると宣言しています。

ヤコブも、「試錬を耐え忍ぶ人は、さいわいである。それを忍びとおしたなら、神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるであろう。」(ヤコブ書1章12)と、試練によって神がよしとされるものへとわたしたちが錬られ形造られるることを述べています。

わたしたちは、人生の試練をとおして神に信頼するとき、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれていることを体験し、神の栄光の約束の希望が決して失望に終わるものではないことを知ることができます。
  



 
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