信仰の鍵

(ロマ書4章19-24)


パウロはこの箇所で、モーセをとおしてイスラエルの民に律法が与えられる以前にアブラハムが律法を守ることによってではなく、信仰によって神の前で義とされたことについて述べています。 

アブラハムは、七十五歳のとき紀元前20世紀以前のメソポタミア文明のなかでも繁栄を誇った古代都市カルデヤのウルの地から子孫と土地と民族の祝福の約束を与えられて引き出され、神の約束されたカナンの地へ移りました。

しかし、アブラハムには妻サラとの間には子供がありませんでした。

ある夜、神はカナンの地に着いたアブラハムを天幕の外に連れ出して、「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみなさい」と言われ、また、「あなたの子孫はあのようになるでしょう」と、言われました。

古代文明メソポタミアの地でもすでに青銅や金の鋳造技術を持ち繁栄していた文明都市ウルから、当時未だ文明といえるもののなかった一面の荒れ地と点在する牧草地帯だったカナンの地に辿り着いたアブラハムが、天幕の外に出て星空を眺めたとき、無数の星が澄んだ満天の夜空に輝いていました。
神は、子供のいなかったアブラハムに、アブラハムとサラから生まれる子孫は、無数の星のようになると約束されました。

七十五歳を過ぎても妻サラとのあいだに子供のなかったアブラハムにとって、神の約束は信じ難いことであったでしょう。
しかし、アブラハムは、神の約束を疑うことなく、また神が約束を成就することが出来ると信じました。そして、主はこれを彼の義と認められました。

わたしたちは、神が約束を与えられるとき、その約束を達成するための難易度を判断し、わたしたちが判断する難易度にしたがって、神が約束を達成される難易度を勝手に判断します。          

わたしたちにとって問題を解決するのが易しそうに思えるとき、神もわたしたちの問題を容易に解決される、わたしたちにとって解決をするのが不可能に思える問題については、神も問題を解決することは難しいのではないか、と思います。

わたしたちは、神に祈るときでさえ、わたしたちの思う難易度や方法で神が問題を解決されることを期待して、自分たちの問題を神が解決し、祝福されるように祈るのです。

人は、必要に迫られるとき、神がご自身の栄光の富の中から、わたしたちのいっさいの必要を、キリスト・イエスにあって満たして下さるという神の約束(ピリピ人への手紙4章19参照)に信頼するより、自分の肉の思いや自分の方法で当たりくじに当たるようにおみくじや宝くじを買ったりして、神が自分たちの考える方法で問題を解決し、願いをかなえられるように祈ります。

人は、神が約束されても、全く自分の思惑とは異なって状況が進展しないとき、しばしば神の約束を疑い、神が約束を成就されるための方法を勝手に自分たちで考え、自分たちの肉の思いで神の約束を成し遂げようとし、より問題をこじらせ長引かせます。                      

アブラハムも、神が妻サラとのあいだに子を授ける約束を与えられ、カナンの地に10年住んでも子が授けられなかったので、「主はわたしに子をお授けになりません。どうぞ、わたしのつかえめの所におはいりください。彼女によってわたしは子をもつことになるでしょう」という妻サラの言葉を聞き入れ、エジプトの女ハガルの所にはいり、ハガルによって男の子を設け、イシュマエルと名付けました。
この時点ではアブラハムの信仰は完全なものではなかったことがわかります。

しかし、アブラムの九十九歳の時、主はアブラムに再び現れて「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ。わたしはあなたと契約を結び、大いにあなたの子孫を増すであろう」と、再び約束の確認をされ、アブラハムとその子孫が肉の思いを引き裂いて霊の思いによって歩み、再び神に信頼するように告げられました。

アブラハムは、自分のからだが百歳になって不能となり、サラの胎が不妊であっても神に信頼し、不信仰によって百歳の自分と九十歳の不妊の妻サラとの間に跡継ぎとなる子供が授けられるという約束を疑いませんでした。

神が約束を確認されたことを喜び、アブラハムの信仰は強められ、自分の状況と人の能力によっては完全に不可能に思える約束であっても、神の約束が確かなことを信じ、不可能を可能にされる神を信じました。


不信仰のゆえに神の約束を疑うときにどのような悲劇が起こるのかを示す出来事が克明に描かれている箇所が旧約聖書には述べられています。

エリシャが、北イスラエル王国に対する預言者であったときのことです。ヨラム(紀元前820-804年の治世)が当時の王でした。 シリヤの王ベン・ハダデはイスラエルを侵略し、サマリヤの町を包囲しました。
シリア軍の長期の包囲網のなかで、サマリヤの町の中にいる人々は餓えに苦しみ、ろばのあごの骨が銀80枚で売られているほどでした。王が城壁の上を歩いていると、ひとりの女が彼に叫んで言いました。「王さま。お救いください。王さま。お救いください。」王は振り返って、言いました。「私に何をしてほしいと言うのか。私にも食べる物がないのだ。あなたと同じ状況なのだ。女よ、なぜ叫んでいるのか。」女は言いました。「きのう、私はこの女と、自分たちの子どもを食べることに決めました。私は私の赤ん坊を与えて、私たちはその子を煮て、食べました。きょう彼女は、自分の子どもを隠してしまったのです。私たちが食べられるように、その子を出させて下さい。」これを聞いた王は、着ていた荒布の服を引き裂いて嘆き、「私が預言者エリシャの首をはねないなら、神が幾重にもこの私を罰せられますように。」と言いました。王は、災いを神のせいにし、神の預言者のせいにしました。

王は家来たちにエリシャの首をはねることを命じましたが、神はエリシャにこれから起こることを知らせたので、王の家来たちが向かって来ることを予見して常に先手を打ったので王たちはエリシアを捕えることができませんでした。最後にヨラム王自身が首相とともにエリシゃのところへやってきたとき、エリシャは、そのことを予見して弟子たちによって王と王につき従って来た供の者を戸口で押さえ込み、神から告げられた「あすの今ごろ、サマリヤの門で、上等の小麦粉1セアが、65セントで売られるようになる。大麦2セアが、65セントで売られるようになる。」という言葉を伝えました。これを聞いた王に供してきた副官は、預言者を嘲り、「たとい、神が天に窓を作られるにしても、そんなことがあるだろうか。」と言い、エリシャをとおして伝えられた神の言葉を疑い、否定しました。

このとき、「神がそんなことをなさるだろうか。ろばのあごの骨が銀80枚で売られているのに、何で上等の小麦粉1セアが60セントで売られることがあろうか。馬鹿げた預言だ。たとい、神が天に窓を作られるにしても、このサマリアの状況下でそんなことが起こる筈はあり得ない」と言って、告げられた神の約束を否定する王の副官に、エリシャは「おまえはそれを見るが、それを食べることはない。」ことを宣告しました。

ちょうどその頃、サマリヤの町を囲む城壁の外にあったごみ捨て場に町の内側に住むことができなかった4人のらい病人たちが門のことろに捨てられるごみによって食いつなぐために住み着いていましたが町の中に住む人々が餓えのためごみさえも捨てなくなったために、餓死寸前の状態で座っていました。エリシャが王とその副官にサマリヤの町に起こる預言を告げたその夕、薄明かりのなかで4人の一人が「俺たちは、ここに座っていても死を待つばかりだ。城壁の中に入っても人々は皆餓死寸前のようだし、人々に殺されるだけだ。いっそ死ぬのなら町を包囲しているシリア軍の陣まで行って食べ物を物乞いしてみよう。いずれ殺されるのなら食べ物のあるところへ行ってみよう。」と提案し、4人のらい病人たちは幽霊のような足取りで薄暮の暗やみの中をシリア軍の陣営に向かって歩きはじめました。彼らがどのような物音をたてたのかはわかりませんが、陣営に近付いた彼らのたてた奇妙な物音を聞いたシリア軍の守衛は、主がスリヤびとの軍勢に戦車の音、馬の音、大軍の音を聞かせられたのでイスラエルの王が秘かにエジプトの軍隊を雇って攻めてきたのだと勘違いし、エジプトの軍隊が戦車を駆ってせめてきたと報告し、そのため全軍がサマリアの包囲網を解いて雪崩のように天幕やその他すべてのものをそのまま置き去りにして、退却してしまいました。

4人のらい病人たちがシリア軍の陣営に着いて天幕の入り口を引き上げると、兵たちの夕食がそのまま残されていたので彼らは満腹になるまで食べ物にありつきました。二番目の天幕も同じように、夕食がそのままに残されていましたが、彼らは互に、「われわれのしている事はよくない。きょうは良いおとずれのある日であるのに、黙っていて、夜明けまで待つならば、われわれは罰をこうむるであろう。さあ、われわれは行って王の家来に告げよう」と言ってサマリヤの門に戻り、壁のことろを歩いている門衛を呼び、「私たちは、シリヤの陣営から戻ってきたのです。からっぽでした。相手は逃げ去りました。彼らの天幕には食べ物が十分にあります。全員に行き渡るほどの量です。」と、報告をしました。それで門衛は王のもとに走っていき、「私はたった今、報告を受けました。シリヤ人が陣営を去り、食べ物がサマリアの人々全員に行き渡るほど十分にあります。」と言いました。
この報告を受けたイスラエルの王は、「シリヤびとがわれわれに対して図っている事をあなたがたに告げよう。彼らは、われわれの飢えているのを知って、陣営を出て野に隠れ、『イスラエルびとが町を出たら、いけどりにして、町に押し入ろう』と考えているのだ」と言ってこの報告を信用せず、城壁の門に鍵をかけてサマリアの人々が町の外に出ることを禁じました。しかし、家来のひとりの「人々に、ここに残っている馬のうち五頭を連れてこさせてください。ここに残っているこれらの人々は、すでに滅びうせたイスラエルの全群衆と同じ運命にあうのですから。わたしたちは人をやってうかがわせましょう」という進言を受け入れ、その家来がシリア軍の陣営まで偵察に行くことを許し、家来は戻って「あの報告は本当です。私は、はるばるヨルダン川まで行ってきましたが、ヨルダン側のこちら側には、シリヤ人がだれひとりいません。私が見たのは、彼らが逃げる時に捨てていった衣服と武器が散らばっていてだれもいませんでした。」と報告しました。

この報告を聞いて、王は前日エリシャが宣べた「あすの今ごろ、サマリヤの門で、上等の小麦粉1セアが、65セントで売られるようになる。大麦2セアが、65セントで売られるようになる。」という神からのことばを聞いた副官に城壁の門を開かせ、群衆の整理にあたらせました。

飢餓のため死に直面し、食べ物があるということを聞いたサマリアの群衆は、この副官の制止を聞かず、雪崩のように門の外に出ようとしたために群衆に踏みつぶされ、エリシャが「おまえはそれを見るが、それを食べることはない。」と預言したとおり、上等の小麦が安く売られるようになる事態を見てもそれを食べることなく死んでしいました。(列王記下6章24-7章20参照)

彼は神のことばを嘲笑い、人の判断では考えられない神の約束を不信仰のゆえに疑い、自分の身に死を招くという悲劇を招きました。

人の思いや状況を超えた神の素晴らしい約束を疑うとき、その神のことばが文字通り成就されるのを見ることがあっても約束の成就の恩恵を受け取ることはできません。不信仰による悲劇は、「あなたは見るが、それを食べることはできない。」ということです。
わたしたちもしばしば、神の約束を疑い、その素晴らしい約束が成就するときの恩恵に浴する機会を失います。


アブラハムは、神の約束が人の力、能力によっては成就することが不可能であることを認めながら、人の思いや方法を遥かに超えて約束を成就される神を不信仰のゆえに疑うことなく、その約束が成就する兆候さえ見えないときに、神の約束を喜び、信仰によって強められ、栄光を神に帰しました。   .

神は、その約束されたことをわたしたちがどのように不可能と思えるときにも、不信仰のゆえに疑うことなく信仰が強められるとき、必ず約束された事柄を人の思いを超えた方法で成就されます。 

「 わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると主は言われる。天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。」(イザヤ書55章8,9)  

神は、神のことばを信じ、信仰によって強められ、栄光を神に帰したアブラハムをその信仰のゆえに義とされました。

アブラハムだけでなく、人の思いや方法を遥かに超えた神を信じ、神の約束を不信仰のゆえに疑うことはせず、信仰によって強められ、栄光を神に帰すとき、わたしたちの主イエスを死人の中からよみがえらせたかたを信じるわたしたちも、神は義と認めてくださるのです。 

「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することです。」 (ヘブル人への手紙11章1参照)

イエス・キリストはわたしたちの罪のために十字架の上で死なれ、復活され、彼を信じるすべての人に復活の永遠のいのちを与えられました。信仰によって義とされる人々に、神は永遠の朽ちない栄光のからだをも与えてくださいます。

  



 
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