かたより見ることのない神

(ロマ書2章11-16)


わたしたちは、神の御前で福音を信じる信仰によって救われ義とされます。 
それは、イエスの流された血が人の罪を贖い、帳消しにし、人の不義、罪に対する神の怒りがなだめられているからです。

神は不義と悪と貪欲と悪意にあふれた行いをする人々だけでなく、それらの事を行う者が死に値するという神の定めを知りながら、それを行う人々を是認している者の偽善、それらの心の動機にたいして報われることをパウロは述べています。

「主よ、いつくしみもまたあなたに属することを。あなたは人おのおののわざにしたがって報いられるからである。」(詩篇62篇12)
「あなたが、われわれはこれを知らなかったといっても、心をはかる者はそれを悟らないであろうか。あなたの魂を守る者はそれを知らないであろうか。彼はおのおのの行いにより、人に報いないであろうか。」 (箴言24章12)

唯一の栄光の神からの誉を求め、朽ちず汚れず、しぼむことのない資産を天に貯え、新たに生れる生ける望みによって生きる人には永遠のいのちが与えられ、党派心をいだき、真理に従わないで不義に従う人には、たとえ神の約束されたアブラハムの子孫としてモーセの律法を与えられたユダヤ人であっても 神からの怒りと激しい憤りとが加えられます。

パウロ自身、厳格なユダヤ人のパリサイ派の一人として育ち、神の律法を守ることによって、神の前に義とされることを望み、キリストを信じる教会を迫害しました。
彼は、律法の教えが正しいものであり、神の戒めが聖いものであることを知っていましたが、それを自分の力で完全に行うことは不可能であることを体験しました。

パウロは、アブラハムの子孫としてモーセから神の律法を与えられ、それを知っていても、それだけでは神の前で義とされるには不充分であり、かえって他人の目からは正しいように見えても心の動機が不純であり、偽善に満ちている場合に、神は真理を欺く不義に対して怒りをもって臨まれると宣言しています。

イエスは、天国に入ることのできる義について、その義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければならないと言われ、神が完全な方であるように、わたしたちも完全でなければならない、と言われました。

イエスは、モーセの律法を引用して、人が義とされる基準は、人の目から見て正しい行いであるだけではなく、心の動機が神の目から見て正しく、それによってあらわれる行いが完全でなければならないことを教えられています。  

イエスは、「昔の人々に『殺すな。殺す者は裁判を受けねばならない』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
しかし、わたしはあなたがたに言う。兄弟に対して怒る者は、だれでも裁判を受けねばならない。兄弟にむかって愚か者と言う者は、議会に引きわたされるであろう。また、ばか者と言う者は、地獄の火に投げ込まれるであろう。
『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。  
昔の人々に『いつわり誓うな、誓ったことは、すべて主に対して果せ』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
しかし、わたしはあなたがたに言う。いっさい誓ってはならない。天をさして誓うな。そこは神の御座であるから。」(マタイ福音書5章21、22、28、29、33,34参照)と、律法の神髄についてその意味を述べられ、わたしたちが自分の義によって神の律法を全うすることが不可能なことを示されています。

神は人の思いを見抜かれ、心の動機を見られ、不朽の神の栄光と誉を求め、真理を行う者に永遠のいのちを与えられ、自分自身の栄光と誉を求め、不義によって真理を阻もうとするすべての人の行いには怒りと憤りが下されます。


神の裁きは公平で正しく、えこひいきがありません。
パウロは、神が一人一人の心の動機と行いに応じて報われることを述べて、人が神の律法を与えられ、道徳の規準を知っている場合も、神の律法を知らない場合も律法なしに罪を犯した者は、律法なしに滅び、律法のもとで罪を犯した者は、律法によって裁かれると述べ、神の裁きが公平なことについて述べています。

道徳的な規準、神の律法を知っているだけでは十分ではありません。
人は道徳的な規準をより知っていれば、その度合いに応じてより完全な行いが求められているのです。

イエスは、神の律法の知識を持っている人々に「 偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは、やもめたちの家を食い倒し、見えのために長い祈をする。だから、もっときびしいさばきを受けるに違いない。」(マタイ福音書23章14) 「 主人のこころを知っていながら、それに従って用意もせず勤めもしなかった僕は、多くむち打たれるであろう。
しかし、知らずに打たれるようなことをした者は、打たれ方が少ないだろう。多く与えられた者からは多く求められ、多く任せられた者からは更に多く要求されるのである。 」(ルカ福音書12章47,48)と言われて律法学者やパリサイ人たちの偽善を厳しく戒められました。   

神の律法を持っていない異邦人であっても、すべての人に何が正しいか、正しくない行いなのかを知る思いが心に刻まれています。わたしたちは、それを良心と呼んでいます。
その人の良心が神の律法の基準と合致し、人が良心に従って行動しているのであれば、たとえ神の律法を持っていなくとも、その人の良心が彼にとって律法となる、とパウロは述べています。      

人は必ずしも良心にしたがって行動をしません。
もし、人が良心の思いよりも自己中心的な欲求の思いを優先させる場合には良心は歪められ、良心に焼印を押され、良心は麻痺してゆきます。
人は、他人の目には正しい行いに見えても自分の良心を偽って行動し、その行いについて心のなかで葛藤を覚えながら行動し、誰一人として神が求められている規準には自分の力で到底達することが出来ません。

人の心の思いに刻まれる良心は、正しいこと、正しくないことの基準が人の心の思いであるために、正しいことと正しくないことを判断する心の思いよりも、自分がしたいという自己中心な欲求の思いが心のなかで生じ互いにせめぎ合い、あるいは自分の行いが良心に恥じるものではないことを心のなかで弁明し合うのです。


パウロは、神が求められる規準を知っていながらそれを行わない人々に向かって、特に心の動機が神の目から見て正しく、それによってあらわれる行いが完全でなければならないこと、そして神が人の心の思いを偽る偽善を嫌われることをを厳しく戒めています。

「御旨を知り、律法に教えられて、なすべきことをわきまえており、さらに、知識と真理とが律法の中に形をとっているとして、自ら盲人の手引き、やみにおる者の光、愚かな者の導き手、幼な子の教師をもって任じているのなら、なぜ、人を教えて自分を教えないのか。盗むなと人に説いて、自らは盗むのか。 姦淫するなと言って、自らは姦淫するのか。偶像を忌みきらいながら、自らは宮の物をかすめるのか。律法を誇としながら、自らは律法に違反して、神を侮っているのか。」(ロマ書2章18-23)

人は他人の行いを見て心の動機を知ることはできません。しかし、神は人の心の思い、その心の動機をすべて知られ、人がその心に思い図る以前にその思いを知っておられます。
神は人をそのおのおのの行いによって報われますが、そのとき、その人がどのような心の動機で行ったかを見て知っておられます。

主の目はどこにでもあって、悪人と善人とを見張っています。(箴言15章33)  

そして、神のみまえには、あらわでない被造物はひとつもなく、すべてのものは、神の目には裸であり、あらわにされています。この神に対して、わたしたちは言い開きをしなくてはなりません。(ヘブル人への手紙4章13)

パウロは、「まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる。」(ガラテヤ人への手紙6章7)とも述べています。

わたしたちは、この肉のからだにあって生きる限り、肉の内には、善なるものが宿っていないことを知らなければなりません。
なぜなら、わたしたちの肢体には、肢体に存在する罪の法則が、わたしたちをとりこにしているからです。わたしたちは、肉体を宿としている間は主から離れているのです。(ローマ人への手紙7章25、第二コリント人への手紙5章6参照)

しかし、イエス・キリストを信じる信仰によって生きる人々には肉体が滅びた後で、人の手によらない天から賜わる永遠の家が備えられています。
神は、わたしたちを、この事にかなう者にして下さり、その保証として御霊をわたしたちに賜っています。(第二コリント人への手紙5章5参照)

だから、わたしたちは主が来られるまでは、何事についても先走りしてさばくことはできません。
主は暗い中に隠れていることを明るみに出し、心の中で企てられていることをあらわにされ、その時には、それぞれが神から誉を受けるのです。(第一コリント人への手紙4章5参照)


神は、わたしたちが悔い改めて福音を受け取り、裁きの日にキリストの栄冠を報いとして受け取る人生を歩むことを一人一人に望まれています。

神は、義をもってこの世界を裁くためにその日を定め、キリストによってそれを成し遂げようとされています。
すなわち、すべての人々にイエス・キリストの復活によって、その確証を示されています。

エレミアは、人の心と主の裁きがどのようなものであるのかについて次のように述べています。

「主はこう言われる、『おおよそ人を頼みとし肉なる者を自分の腕とし、その心が主を離れている人は、のろわれる。彼は荒野に育つ小さい木のように、何も良いことの来るのを見ない。荒野の、干上がった所に住み、人の住まない塩地にいる。
おおよそ主にたより、主を頼みとする人はさいわいである。
彼は水のほとりに植えた木のようで、その根を川にのばし、暑さにあっても恐れることはない。その葉は常に青く、ひでりの年にも憂えることなく、絶えず実を結ぶ』
心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。だれがこれを、よく知ることができようか。
『主であるわたしは心を探り、思いを試みる。おのおのに、その道にしたがい、その行いの実によって報いをするためである』」(エレミア書17章5-10)

「 だからあなたがたは主を恐れ、慎んで行いなさい。われわれの神、主には不義がなく、人をかたより見ることなく、まいないを取ることもないからです」(歴代誌下19章7)  

公平な裁きをされる神は、すでに御子イエス・キリストによってわたしたちの罪の責めを帳消しにしてくださいました。そのことを信じる人々には人生においてキリストに信頼して行った行いに応じて、神の御座におられるキリストから栄光の報いを受け、神の恵みを受け取らない人々には永遠の滅びがもたらされます。

それは、復活の栄光のキリストが世界を裁くために定められた日に来られ、罪を負うためではなく福音を信じる人々に必ず栄光の報いを与えられる(ヘブル書9章28参照)ときにすべての人により明らかにされます。

神は、わたしたちと共に人生の行程を伴走してくださる聖霊と共に、一人一人が栄冠を得るために目標に向かって走ることの出来るすべてを与えられています。  



 
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