あなたがたのなすべき霊的な礼拝

(ロマ書12章1-2)


パウロは、この手紙で、神のイエス・キリストによる恵みの福音について、1章から11章にかけて体系的な信仰の論拠を述べてきました。そして、12章のこの箇所から信仰者がこの世にあってどのように歩むべきか、現実的な適応について手紙の最後まで具体的に述べています。   

この節で、最初にパウロは、そういうわけで、と述べています。

天地とそのなかにあるすべてを創造された神の前で、自分の努力や決心だけで人は神の求められる義を得ることは不可能です。
自然のままのわたしたちは、自己中心の欲求に従い、罪の虜になっている存在だからです。(メッセージ「完全な堕落」参照)             

しかし、人の思いや方法を遥かに超えた神は、わたしたちが神に敵対し、神に背くものであったときにイエス・キリストが、ご自身のからだを神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげられ、わたしたちの罪の贖いを完成されました。そして、神は、イエスを死人の中からよみがえらせ、イエスを主と信じる信仰によって、すべての人が義とされる復活の永遠のいのちを得ることのできる道を与えられました。(メッセージ「新しいいのちに生きる」参照)   

イスラエルの民は、犠牲の動物の頭に手を置き、その動物が自分の代わりに殺され、大祭司がその犠牲の動物の血を至聖所の贖いのふたに振りかけられることによって、罪にたいする良心をそそぎ、神の前に自分たちを代表する大祭司が近づくことによって、自分たちの罪の贖いを期待しました。  
モーセの律法では、大祭司は、年に一度の贖罪日に、白装束に着替え、30頭以上の牛や羊を犠牲のためのなだめの供え物としてほふり、血を携え、自分と民が知らずに犯した罪のために、聖所から至聖所の贖いのふたに近づき、その血を振りかけ聖なる神に近づきました。しかし、雄牛とやぎの血は、罪を除くことができません。
キリスト・イエスが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは、それが自分の罪のためであったことを受け入れ、罪を悔い改め、信仰によって、聖なるものとされるのです。(メッセージ、「いのちは血にある」参照)
神は、一方的な恵みによって、わたしたちにキリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則を与えられ、人を支配する罪と死との法則からわたしたちを解放 し、霊である神との交わりを持ち、肉の思いの支配から魂が解放され、罪に定められることが決してないばかりか、わたしたちの死ぬべきからだをも生かしてくださり、キリストと共に子たる身分を授けるという約束をされています。(メッセージ「わたしたちの知るべきこと」参照)
神はご自身の主権と選びによって、御子イエス・キリストによって神の栄光をあらわされ、祝福の契約、救いの計画を与えられ、イエスによって律法と預言を成就され、栄光の神を礼拝することをも教えられました。

そういうわけで、イエスを主と信じる信仰にあって歩む人々、兄弟たちにパウロは呼びかけをしています。

神は憐れみ深く、わたしたちの弱さを知られ、その弱さを知りつつも、どこまでも変わらぬキリストの愛をもってかかわってくださいます。そして、わたしたちがこの世にあって信頼するものから裏切られ、棄て去られるようなときでも、イエスにある慰めをもってわたしたちの祈りに答え、助けの御手を伸べられます。

パウロは、呼びかけをするときに、このような神の憐れみによってあなたがたに勧める、と述べています。

ギリシャ語の原語では、日本語の「勧める」という言葉は、παρακαλέω parakaleoということばが使われています。このパラクレオというギリシャ語は「呼び起こす」という言葉と「共に寄り添う」という二つのことばを語源とし、名詞形はπαράκλητος parakletos、「聖霊」という意味になります。
従って、ここでパウロが述べている「勧める」ということばのニュアンスは、パウロがピレモンに宛てて書いた手紙のなかで「わたしは、キリストにあってあなたのなすべき事を、きわめて率直に指示してもよいと思うが、むしろ、愛のゆえにお願いする。」(ピレモンへの手紙8-9)と述べたように、この箇所の「勧める」ということばには「懇願する」「愛のゆえにお願いする」というような意味が込められています。
神は、わたしたちが神のイエス・キリストにある恵みと憐れみを体験し、自分自身のすべてを生きた聖なる供え物としてささげることを愛のゆえに懇願されています。


パウロは、わたしたちのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。と述べています。
同じようにパウロは、コリントの人々に宛てた手紙のなかでも、「あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい。」(第一コリント人への手紙6章19,20)と、神によって贖われた神のものだと述べています。

わたしたちの思いや感情だけではなく、からだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげ、わたしたちが、完全に自分自身を神に明け渡して人生を歩むことはキリストにある神の恵みを感謝し、賛美する意味のある人生だという勧めです。

多くの人がわたしたちのからだをあまり価値のない目的のために使っています。

人々は、この世の一時的な目的達成のために、わたしたちのからだを極限まで酷使 し、そのために、しばしば酒や薬までを乱用します。
人は、からだの快楽だけを求めようとするとき、自分のからだを不品行や姦淫によって汚し、求めない妊娠や、さらには同性愛や獣姦などの性行為によって、人々を蝕む性病やエイズなどの伝染病さえ蔓延させることになります。                       
人は自分の思いによって自分のからだを使うことが可能です。しかし、肉の欲望や自分自身の快楽のためにからだを使い、自分自身を滅ぼすことは愚かなことです。
神はわたしたちが、自分自身のからだを最も意味のある神の永遠の目的のために使うことを望んでおられます。
もし、わたしたちのからだを自分自身を滅ぼすことのために使うとすれば、それは人が神から与えられたわたしたちの人生を無意味に使っているということになります。

わたしたちが完全に自分自身の欲望を主である神に明け渡し、わたしたちのからだを神に喜ばれる、生きた聖なる供え物として捧げ続けることこそ、わたしたち自身が神の恵みを感謝し、賛美する意味のある人生です。

天と地とそのなかにあるすべてを創造された生きた神が、わたしたちの滅びを望まれず、神の恵み、イエスの贖いを受け取り、永遠のいのちを得るものとなることを望まれ、それゆえに、パウロは「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。」と、わたしたちに勧めています。


パウロは、あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。と、続けています。

この世と妥協してはならない、と述べていますが、この世の思い、この世を支配するものは、一時的であって、永遠の価値を持つことはありません。

この世の一時的な思いは、常に自己中心の欲望の虜となる誘惑と欺きをわたしたちに向けています。

この世は、わたしたちの肉の思い、自己中心の欲望をどのように満足させるのか、ということだけを人生の目的に向けさせています。しかし福音の知らせは、人がそれらの肉の思い、自己中心の欲望から解放されて、新しい永遠の霊のいのちに生きることです。
               
パウロは、他の箇所でも「この世の神が不信の者たちの思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光の福音の輝きを、見えなくしているのである。」(第二コリント人への手紙4章4 参照)と、述べています。
キリストはわたしたちを、自身を滅ぼすそのようなこの世の思い、自己中心の肉の欲望から解放し、わたしたちの心に神の御旨を行う願いを起こさせ、かつ実現させる力を与えられました。

わたしたちが、心を新たにして無知であった時代の欲情に従わず、福音を信じる人々の内に住まわれるキリストの霊に従い、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るとき、神は、わたしたちを新しく造り変えてくださいます。

イエス・キリストの愛に触れ、キリストの愛に応えて行ったこと以外のことは、木や草、わらのように火に焼かれて試されるとき燃え尽きてしまうでしょう。
聖書は、わたしたちの行いは、いつか火によって試されるときがくる、と宣言しています。(第一コリント人への手紙3章12,13参照) 
わたしたちの人生は、それぞれがただ一度だけ与えられています。そして、この世でのわたしたちの人生は一瞬のうちに過ぎ去ってゆきます。わたしたちの人生でキリストの愛に応えて行ったことだけが永遠に残るのです。



 
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