神の知恵と知識との富

(ロマ書11章33-36)


使徒パウロは、イエス・キリストの十字架と復活が神の慈しみと愛の証しであり、そのことを信じる信仰によって人は義とされ神の御前に立つことができることを宣言しています。           

神は、御旨によって慈しもうと思うものを慈しみ、恵もうと思うものを恵まれ、わたしたちに自由意志を与え、選択をすることのできる能力を与えられています。

神はご自身の主権と選びによって、歴史をとおしてイスラエルの民を子として選び、神の栄光をあらわされ、祝福の契約、救いの計画を与えられ、イスラエルの民に律法を授け、栄光の神を礼拝することをも教えられました。

パウロは同胞であるユダヤ人たちが、イエスの十字架の贖いと復活によってもたらされた福音を一人でも多く受け取ることを切望しました。

約束されたメシアとしてイエスがイスラエルの民のあいだに来られたとき、イスラエルの指導者たちは イエスが神の御子であり、救いをもたらされるメシアであることを拒否しイエスを十字架に掛けてしまいました。                                         

そればかりでなくイエスが復活され昇天され、約束された聖霊が降った後も、多くのイスラエルの伝統に従うユダヤ人たちは、イエスの贖いによって神が彼らの心に律法をしるされ、イスラエルの民が神の民となるという、エレミアをとおして預言された新しい契約を受け取るよりも、割礼や安息日を守るという自分たちの伝統や規則を重んじキリストに従おうとしませんでした。

一部の残されたユダヤ人を除いて多くのユダヤ人たちは、イエスが神の御子として栄光の御座におられ、すべての被造物の贖いを完成されこの世に神の国をもたらされるメシアとして来られたという素晴らしい福音を受け入れないで、つまずきの石、イエスにつまずき、神の義を知らないで自分の義を立てようと努め、神の義に従いませんでした。

多くのユダヤ人が福音を受け取らないでイエスに躓くという現実は、パウロにとって大きな悲しみであり、心の絶えざる痛みとなりました。

パウロは、神がイザヤをとおして預言された「わたしは、わたしを求めない者たちに見いだされ、わたしを尋ねない者に、自分を現した」。ということが現実のものとなり、イスラエルについては、「わたしは服従せずに反抗する民に、終日わたしの手をさし伸べていた」ということが成就し、イスラエルはその追い求めているものを得ないで、ただ選ばれた者が、それを得、そして、他の者たちはかたくなになり、神は、彼らに鈍い心と、見えない目と、聞えない耳とを与え多くのユダヤ人が与えられた救いを受け取らないという状況にあると述べています。

しかしパウロは、彼らがつまずいたのは、イスラエルの民が倒れるためでは決してないと断言しています。
イスラエルの民が捨てられたようになったのは、彼らが奮起させられるためであり、それによって異邦人にも救いの門戸が開かれ、全世界に神の祝福と約束が及ぶことになるためであり、神が計画されている異邦人の救いが完成する終わりの時に、死人が生き返るとおなじように素晴らしい神の救いによってもう一度神はイスラエルの民を呼び戻し彼らの目を開かれ、イスラエルの民に与えられた契約、すなわち、神の国をメシアによって成就され、メシアはイスラエルの民の神となり、イスラエルの民がメシアの民となるという約束が変わることなく必ず完成される、とパウロは宣言しています。

「兄弟たちよ。あなたがたが知者だと自負することのないために、この奥義を知らないでいてもらいたくない。一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人が全部救われるに至る時までのことであって、こうして、イスラエル人は、すべて救われるであろう。すなわち、次のように書いてある、『救う者がシオンからきて、ヤコブから不信心を追い払うであろう。そして、これが、彼らの罪を除き去る時に、彼らに対して立てるわたしの契約である』。 福音について言えば、彼らは、あなたがたのゆえに、神の敵とされているが、選びについて言えば、父祖たちのゆえに、神に愛せられる者である。神の賜物と召しとは、変えられることがない。」(ローマ人への手紙 11章25-29)


慈しみと恵みに満ち、全知、全能の神は、人をご自身に似せて創造され、神と人とが完全な愛の信頼関係のなかで、すべての人々が想像を超えた栄光ある豊かさに満ちて平安を得ることのできるための選びと祝福の契約をイエス・キリストをとおしてすべての人に与え、そのご計画を完成されます。

この素晴らしい神の選びと祝福の契約は、旧約聖書全体をとおしてもわたしたちに示されています。

神は人をご自身に似せて創造され、人が自分の意志によって神のことばに信頼して従うのか、神に背く ものの誘惑とことばに従うのかという選択の自由を与えられました。
全知の神は人が誤った選びによって滅びの道を選び取ってしまうこともご存じでした。

神は人が滅びに至る誤った選択をした直後に贖いの約束をされ、人類が滅びへの道を歩み後戻り出来ない状態になったときに人類の完全な滅びからノアとその家族を選び救い出されました。

人を救われるための贖いを完成されるために神は、人類の歴史のなかで古代メソポタミア文明において繁栄を誇っていたカルデヤのウルから一人の人アブラハムを選び、彼に約束を与えられました。
神はアブラハムに割礼の契約を与えられ、サラから産まれた子イサクが産まれて八日目に割礼を施し、イサクが成人した後、神はアブラハムを試みられ、「あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭としてささげなさい」。と言われ、イサクが「火とたきぎとはありますが、燔祭の小羊はどこにありますか」。と問いかけたとき、「子よ、神みずから燔祭の小羊を備えてくださるであろう」。と答えたアブラハムのことばどおり、燔祭の子羊が備えられました。

この後アブラハムはイサクのためにリベカを嫁として迎え、こうしてイサクとリベカからまだ双子の子供らが生れもせず、善も悪もしない先に、神の選びの計画が わざによらず召したかたによって行われるために、「兄は弟に仕えるであろう」と、彼女に仰せられ、アブラハムの孫ヤコブが約束の子孫として選ばれ、ヤコブは十二人の族長たちの父となりました。後にヤコブはイスラエルと名を変えられました。

族長たちは、ヨセフをねたんで、エジプトに売りとばしましたが、神は彼と共にいまして、あらゆる苦難から彼を救い出し、エジプト王パロの前で恵みを与え、知恵をあらわさせました。そこで、パロは彼を宰相の任につかせ、エジプトならびに王家全体の支配に当らせました。
時に、エジプトとカナンとの全土にわたって、ききんが起り、大きな苦難が襲ってきて、イスラエルの先祖たちは、食物が得られなくなり、ヨセフによって、父ヤコブと七十五人にのぼる親族一同とが招かれ、ヤコブと十二人の息子の家族はエジプトに移り、そこでイスラエルの子孫は増え一つの民族となりました。                                        

しかし、ヨセフがこの世を去った後、ヨセフを知らないパロがあらわれ、エジプトの王パロの圧政によってイスラエルの民は奴隷となり、苦役に喘ぎました。
このときにも神は彼らのなかからモーセを選ばれ、神はモーセによって数々の奇跡を起こされ、パロは全能の神に心をかたくなにし、そのためにこのときのパロは滅び、イスラエルの民はエジプトから解放され、モーセに率いられて荒野を旅し、そこで律法を与えられ、アブラハムに約束されたカナンの地に入り、国家としての歩みを始めました。

カナンの地でヨシュアに率いられたイスラエルの民は他民族との戦いを経た後、直接神の治められる国となりましたが、人々はめいめいが自分の目に正しいと見えることを行い創造の生きた神から離れ、人々を生ける神に立ち返らせようとする士師たちによって暫くの間治められました。
イスラエルの最後の士師サムエルのときに人々は国を治める王を求め、サムエルによって油を注がれたベニアミン族のサウロのときに統一王国となり、神によって選ばれたユダ族の子孫エッサイの子ダビデによってイスラエル統一王国は揺るぎないものとなりました。
神はダビデがエルサレムを奪取し、神の契約の箱を運び入れ、エルサレムをイスラエルの国全体が神を礼拝する中心の地として神殿を建てようとしたとき、預言者ナタンをとおして「ダビデの身から出る世継ぎの子を起こし、彼の王国を確立させる。彼は、神のために、ひとつの家を建て、神ご自身が油そそがれるメシア、王が家を建て、とこしえまでもその王国の王座を堅く立てる」という、ダビデの末に絶えることのない王国を治める王が出現することを約束されました。
ダビデの子ソロモンの時代にエルサレムに神殿が完成し、イスラエルの民は古代国家に比類のない繁栄を誇りましたが、ソロモンは晩年に神の警告に従わず、偶像への妥協によって、彼の死後イスラエルの国家は北王国と南王国に分裂してしまいました。

夫々の王国が彼らを選ばれた創造の神から離れようとするとき、神のことばを取り次ぐ預言者たちが現れ、王国への警告と神の御計画、これから起ころうとするイスラエルの民と国々に関わる事柄についての預言を告げました。

彼ら預言者たちの重なる警告にも拘わらず北イスラエル王国は紀元前722年にアッシリア帝国によって滅亡させられ、南ユダ王国は紀元前606年、597年、586年のバビロニア帝国の三度にわたる侵攻によって民は捕囚となり、神殿は焼き滅ぼされてしまいました。その後、預言されたとおりイスラエルの民は捕囚から70年後の紀元前537年にエルサレムへの帰還を許され、紀元前458年と445年にわたって世界に散らされたイスラエル、ユダヤの民はエルサレムへの帰還を果たし、エルサレムの神殿は再建され、城壁の修復が行われました。

ダニエルによって預言されたように、世界帝国はバビロニア帝国からミード・ペルシア帝国、ギリシア帝国、ローマ帝国へと覇権が移り、ローマ帝国初代皇帝アウグストが世界中からの徴税を行うために人口調査を命じた時に聖霊によって処女アリアから産まれダビデの王家の家系を継ぐヨセフを父としてイエス・キリストが降誕されました。

神のことばを取り次ぐ預言者たちは、イスラエルの王国が彼らを守り導かれる生きた神から離れ、偶像に心を寄せることにたいする警告を王国の王や指導者たちに述べただけでなく、王国に完全な平和をもたらし、人々を救い、義によって王国を治めるメシア、神がダビデに約束されたとこしえに王座を堅く立て、その王座に座るメシアの到来を預言しました。

イエスキリストの降誕はイザヤによってその700年程前に預言された、「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」(イザヤ書9章6-7)という預言の実現であり、「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。」(ミカ書5章2)というミカの預言の実現でもありました。


イエスは罪人を招き、御子を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つため、そして、律法と預言を成就し、イエスを信じる者が、だれもやみの中にとどまることのないためにこの世に来られました。

イエスは数々の奇跡によって病める人々を癒し、盲人の目を開き、耳の聞こえない者を癒し、餓え渇く人々を満ち足らせ、死人を生き返らせ、貧しい人々に状況を超えた平安と喜び、愛に満ちた人生、永遠のいのちが与えられることを伝えました。
しかし、ユダヤ人の指導者たちは、イエスがご自身を天地を創造された神と等しく、その権威によって恵みの業をされている、と言われている宣言を冒涜とみなし、人々の人気がイエスに集まることに恐れと妬みをもってイエスを抹殺するためにローマ総督に訴え出て十字架に掛けてしまいました。 

イエスが群衆の歓呼に答え、子ロバに乗ってエルサレムに入城し、弟子の一人ユダの裏切りから十字架に架かり、死んで葬られるまでの出来事は、歴史的な事実として実際に現実のものとなりましたが、これら一連の出来事の詳細は、そのことが起こる数百年以前に預言者たちによって正確に預言されていました。(ゼカリヤ書、イザヤ書、詩篇、アモス書、ダニエル書)

イエスは、十字架に掛かり、死んで葬られましたが、旧約聖書の預言に記され、ご自身が宣言されたように、十字架の上で人の罪の贖いを完成され、数々の動くことのない証拠によぅて三日目に墓から復活され、四〇日の間弟子たちに神の国のことを話された後、天に昇られ御座に着かれました。

その後、約束されたようにイエスを信じる人々が集まっているとき、御子の代わりの助け主である聖霊が人々に降り、人々にイエスとともにおられ、豊かに溢れるように注がれている主の霊によって、貧しい人々に状況を超えた平安と喜び、愛に満ちた人生、永遠の命が与えられることが伝えられ、ユダヤ人も異邦人もキリストの肢体として共に恵みにあずかるものとされました。


当初、他のパリサイ派のユダヤ人たちと同じようにパウロと名を変えられるサウロもイエスをメシアと信じる人々を迫害し、ステパノがユダヤ人たちから糾弾されたときにも、ステパノがアブラハム、ヨセフやモーセなどのイスラエルの先祖が最初は迫害や苦難に会いながら二回目には、王や治める者として人々から尊崇されるにいたったことを引用してメシアであるイエスが、最初は迫害と苦難に会われ、それが人々の贖いのためであったこと、二回目に来られるときには王として、治めるために来られることを論証するのを聞いて、ユダヤ人たちがステパノを殺すことに賛成し、ステパノの殉教にも立ち会いました。

その後、大祭司から添書をもらいイエスをメシアと信じる人々を迫害するためダマスコに向かう途上で復活の栄光のイエスに出会い、そこでパウロは完全な回心をし、キリストを信じる人々を迫害するものから、迫害や困難のなかでもキリストを信じる人々がすべて救われるという福音を伝えるものへと変えられました。
イエス・キリストの福音は、キリストの十字架がわたしたちの罪を贖い、イエスをキリスト、メシアと信じ神の恵みを受け取り、選び取るすべての人が救われ、永遠のいのちを得るものとされているという素晴らしい知らせです。

イスラエルの民だけではなく、異邦人たち全世界の民に福音が伝えられ、あらかじめ神がご計画されている福音を受け入れる異邦人の救いのときが完了する終わりのときには、イエスが預言されたように、世の初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような、ひどい苦難の時がイスラエルの民に臨み、そのときに残されたイスラエルのすべての民の目が開かれ、彼らはイエスが王として治められる神の国の民となります。

このときの様子についてゼカリヤは「 わたしはダビデの家およびエルサレムの住民に、恵みと祈の霊とを注ぐ。彼らはその刺した者を見る時、ひとり子のために嘆くように彼のために嘆き、ういごのために悲しむように、彼のためにいたく悲しむ。」(ゼカリヤ書12章10)と、、自分たちの救いの君を自分たちで刺し殺したことを知って嘆き、「 主は全地の王となられる。その日には、主ひとり、その名一つのみとなる。」(ゼカリヤ書14章9)と預言しています。 

この世の悲惨さ、死、滅びのなかでイエス・キリストを信じ永遠の希望を抱き、神の国が現実のものとなることを待ち望む人々にとっては、そのような罪のもたらすあらゆる矛盾、悲惨、死、滅びの中でも神の正しい裁きは行われ、神がすべてを知っていてくださり、神のご計画のなかで必ず希望に満ちた御ことばの約束が成就することを知って、この上ない慰めを得、祝福を受けることができます。 

キリストが再臨され、イスラエルが回復し、御国がきたり、御心が天でおこなわれるように、この地上でも御心がおこなわれるということが現実のものとなるときには、嫉み、妬み、奢り高ぶり、争いなどの存在しない全くの平和のなかで、心の傷や悲しみを持つ者のない、すべての人々が想像を超えた栄光ある豊かさのなかに、解放と喜びと完全な義の宿る光の世界が訪れ、キリストが平和の君として御国を完全に支配されます。


使徒パウロは、預言されたようにイエスが平和の君としてこの世に神の国をもたらされ、イスラエルの民が救われ、神の慈しみと恵みの御計画の全体はキリストの贖いによって必ず実現し、希望は決して失望に終わることがないと宣言しています。

キリストの贖いが人の思いや方法を遥かに超えた壮大な神の恵みの御計画、神の慈しみと恵みの深さ、神の知識と知恵との富、神の主権と人に与えられた選び取りの自由、神の判断の公平さ、人を救われる測りがたく奥深い神の方法を知って「だれが、主の心を知っていたか。だれが、主の計画にあずかったか。また、だれが、まず主に与えて、その報いを受けるであろうか」。万物は、神からいで、神によって成り、神に帰するのである。栄光がとこしえに神にあるように、アァメン。
と、感嘆の声をあげています。

神は、ご自身の主権と選びによって、歴史をとおして御子によって神の栄光をあらわされ、祝福の契約を完成され、救いの計画を与えられ、律法と預言を成就し、栄光の神を礼拝することを教えられています。

人は、自分の意志によって神のことばに信頼し、イエス・キリストの十字架と復活が神の慈しみと愛の証しであることを受け取り、神の選び、神の栄光、神の祝福、神の御計画、神の救い、律法と預言、神への賛美のすべてを受け取ることができるのです。

神は、イエスを主と仰ぐすべての人に永遠のいのちを与え、やがて、肉体のからだを復活の栄光のからだに似せて変えられ想像を超えた栄光ある豊かな神の国に生きるものとしてくださいます。
このような素晴らしい神の選び、計画、知恵、知識に一体誰がその相談役となることができたでしょう。わたしたちは、愚かにも神がされる方法について助言しようとします。しかし、神は人の助言や相談を必要とはされておられません。

「だれが、主の霊を導き、その相談役となって主を教えたか。主はだれと相談して悟りを得たか。だれが主に公義の道を教え、知識を教え、悟りの道を示したか」。(イザヤ書40章13,14)

神は一体誰に報いを与えなければならないような負い目を持たれたでしょう。神は人から何らの援助をも必要とされていません。

「 だれが先にわたしに与えたので、わたしはこれに報いるのか。天が下にあるものは、ことごとくわたしのものだ。」(ヨブ記41章11)

キリストのうちには、知恵と知識との宝が、いっさい隠されています。(コロサイ人への手紙2章3)
わたしたちは、神がイエスキリストによって人々を救われ贖われることを知るとき、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いという神の恵み、知恵と知識の深さに心をうたれます。(第一コリント人への手紙1章25)

万物は、神からいで、神によって成り、神に帰するのです。

神は愛であるがゆえに人を神に似せて創られ、自由意志による選びの能力を与えられ、人があやまった選択によって神に背き滅びに向かっていたときに、神ご自身の救いメシアを送られ、わたしたちと同じように誘惑や試練に会われ、わたしたちのために十字架の上で人の神への背きの責めを負われ、贖いを完成し、復活によってメシアであるキリストに信頼するすべての人に神の国で栄光のいのちに生きるものとしてくださいました。

イエスキリストの十字架の贖いを、自分に与えられた神の恵みとして受け取り、聖霊のはたらきによって神の永遠の御計画の素晴らしさを知るときに、わたしたちも人の思いと理解を超えた神の方法とその恵み、神の知恵と知識の測りがたい富と奥深さに感嘆の声をあげ、万物の上にいます神は、永遠にほむべきかな、アァメン。と、心から唱えるのです。



 
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