彼らには弁解の余地がない

(ロマ書1章17-20)


パウロは、神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせ、これは、「信仰による義人は生きる」と書いてあるとこの箇所で最初に述べています。

わたしたちは義、あるいは正しさということについて、常に人の義、相対的な義、正しさを思います。
しかし、神が求められている正しさ、神の義とは神の基準に達する絶対的な義、絶対の正しさ、神の意志に完全に従う罪のない状態を意味しています。  

他の人と比べてより正しい人は存在するでしょうが、そのような相対的な義によってわたしたちが栄光の神の御前に立とうとするとき、人の義はぼろきれのようなものだと言われています。

このことについて、イザヤは、「われわれはみな汚れた人のようになり、われわれの正しい行いは、ことごとく汚れた衣のようである。われわれはみな木の葉のように枯れ、われわれの不義は風のようにわれわれを吹き去る。」(イザヤ書 64:6)と、述べています。

人は、如何に自分の力や努力によって神の律法を守ろうとしても、それを完全に守ることはできず、神の義を得ることは出来ません。

パウロは福音の中に神の義、神の基準に達する絶対的な正しさ、神の意志に完全に従う罪のない状態が啓示されている、と宣言しています。

歴史のなかで創造の神と一体の方イエスは、完全な人としてこの世に来られ、わたしたちが当然自分の罪に対して負うべき裁きを十字架の上で身代わりとして負われ、墓に葬られ、聖書に従って3日目によみがえり、そして多くの人にあらわれました。

キリストを信じる教会を迫害するために、祭司長たちから権限と委任とを受けてダマスコに行こうとしていたパウロに復活の栄光のイエスは現れました。

パウロはこのとき、イエスの十字架が人を罪の束縛から解放し、神と人を隔てる溝を埋め、人が神との和解をすることが可能となる唯一の道であることを悟りました。

イエスの流された血が人の神への背きの罪を贖い、イエスの流された血によって人の罪に対する神の怒りがなだめられ、この事実を信じる人々に罪の誘惑に勝利し、栄光のイエスに似たものへと変えられる約束が与えられているという素晴らしい救いの知らせは、信仰によって始まり、信仰に至らされるものだということを宣言しています。

「 すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたがそれは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。」(ローマ 人への手紙3章23-26) 


この世の出来事、ニュースは多くの悲惨な事柄、目を背けるような事件に満ちています。
わたしたちの見聞する出来事が、悲惨で酷い事柄に満ちているため、暴虐なテロ事件、殺人、不正、理不尽な裁判、汚職、政治の腐敗、災害、などのニュースにに接しても人々はこの世に起こる不正や不義に半ば麻痺し、何が正しいのか、何が義なのかの識別さえできない状況となっています。

パウロがローマ人への手紙を記したときから約650年前、紀元前620年から605年頃にかけて神の選びの民、イスラエルの社会でも暴虐が行われ、悪人が繁栄し不義によって利益を得ることが当たり前のようになり、災いが頻繁に起こり、律法は無視され、正しい裁きが行われなくなる状況になりました。

ハバククはこのような社会にたいして、神がこのような状態を見過し、悪人を裁かれないのだろうか、神は何故沈黙されているのだろうか、という疑問を投げかけました。

このハバククの疑問に神は答えられ、「どんなに(神が)はたらいていない、沈黙し、見過ごしにしていると思っていても、すべてを見て知っておられ、何一つ見過ごしにはされない、しかし、(神が)不正や不義をどのように裁かれ、はたらかれるのかを知らされても、それは信じ難いことなのだ、それは、より強暴で激しい異邦の民を起こし、彼らによって自分の力を自分の神とするイスラエルの民を罰し、裁くからだ」と言われました。

この神の答えにハバククは、神の目はあまりにきよく、悪や罪と共存されることはない方、神は正しい者の労苦に目を留められる方、その神が暴虐をもって暴虐を裁かれるのはどうしてなのだろう。正しく人生を歩もうとするとき、この世の不公平と不義によって人生における試練に直面し、神に祈り、叫んでもより大きな悪と不正によって自分の能力や力を超えた状況を神が何故許されるのか、という疑問を一層深めました。

神はハバククに幻をもって、高慢な者、心の正しくない者が必ず衰え、彼らは必ず滅ぶことを示されました。
そして、やがて正しい人にも降りかかる困難な時を乗り越えるために必要なことは「正しい人は信仰によって生きる」ということを告げられました。


パウロは、神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせることを述べた後で不義をもって真理をはばもうとする人間のあらゆる不信心と不義とに対して、神の怒りが天から啓示されることについて述べています。

神の怒りについて、わたしたちは怒りが抑制のない暴力的なものであるイメージを抱きます。しかし、神の怒りが本質的には抑制されたものであり、残酷でも暴力的でもなく、神が決められた完全で素晴らしい秩序を回復するためのものだということをわたしたちは知る必要があります。

神の怒りは、むしろ裁判官が犯罪者を裁き、判決を下すような意味あいを持っています。

パウロは、完全な基準から堕落している人の状態、人の中から出てくる汚れ、人が心に思い図る悪い思い、あらゆる偽善、自分自身の心を欺き、他と自分を比較して自分の正しさに固執しようとし、また、創造の神でない偶像を自分の神とし真理を阻もうとする、あらゆる人間の思いと行いに対して、神が当然の帰結として過去も現在も未来も変わらない有罪の判決を下されていると宣言しています。

神は過去の歴史のなかでも人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られ、その時代の人々の中で正しく、かつ全き人であったノアとその家族をのぞいて人を地のおもてから、全世界を覆う洪水によってぬぐい去られました。

神はこれからも義をもってこの世界を、イエスによって公平に裁かれる日を定められています。

聖書は、未来に行われる最終的な裁きについて、次のように述べています。

「そのほかの死者は、千年の終わるまでは、生き返らなかった。これが第一の復活である。
この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対しては、第二の死は、なんの力も持っていない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる。しかし千年の終わりに、サタンはその牢から解き放され、地の四方にある諸国の民、すなわち、ゴグとマゴグを惑わすために出て行き、戦いのために彼らを召集する。彼らの数は海べの砂のようである。
彼らは、地上の広い平地に上って来て、聖徒たちの陣営と愛された都とを取り囲んだ。すると、天から火が降って来て、彼らを焼き尽くした。
そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。
また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。
また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。 海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。 いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。」(黙示録20章5-15)


パウロは、神の義が福音の中に啓示され、神の怒りが不信心と不義とに天から啓示されていることを述べた後で、人は神の目に見えない性質、永遠の力と神聖について、被造物をとおして明らかに知らされていると宣言し、すべてを創造された絶対な神の存在を認めない人々に弁解の余地がないと断言しています。

神は天と地とそのなかのすべてのものを創造され、人を神のかたちに似せて創造されました。
人が神に背き、罪の束縛によって堕落した後も、わたしたちは、神が創造された完全なデザイン、驚くべき繊細な仕組み、豊かな自然を被造物をとおして見ることができます。

精巧で繊細なデザインをもって組み立てられ、創られている被造物を見て、それが偶然によって進化したのだということを主張するのは、丁度砂浜のなかから精巧な腕時計を見つけ、その腕時計が長い時間の間に砂鉄から進化したのだと主張するのと同様に馬鹿げています。

偶然と進化によって被造物の説明をすることは明らかな誤りであり、最も最初の起源が偶然であるという前提に立つこと自体、真理を阻もうとする欺きです。

宇宙、地球、地上の生命、人体の構造、様々な動植物の生命体、空気、海洋や水の循環、大陸、気候の変化など、宇宙や地球の自然、それらのどれを観察しても、その精巧で繊細に秩序立てられたデザインを見ることができます。

科学の歴史において用いられてきた物理法則・理論等は、「全ての出来事には原因がある」と「因果律」という考え方を前提として古典力学的な法則性を成立させています。

この場合、最も最初の出来事の起こった原因が偶然であり、偶発的なものであるという前提に立った場合、科学的な観察によって法則性や秩序を見出すことは不可能だということになり、科学そのものを否定していることになります。(創造論・進化論の学術的研究、科学の本質、創造/進化の考察より)

宇宙や地球の自然、生命体を観察し、それらのすべてから法則を見出すことはできません。しかし、客観的な観察や検証によって得られる法則やそこから導き出される途方もない複雑で精巧な構造を認め、それらが産み出される最も最初の原因、起源を説明しようとするとき、わたしたちは、それらをデザインされた時空を超えた創造の神の存在を認めざるを得ません。

宇宙は驚くべき神秘に満ちています。太陽系と地球を含む恒星は、天の川星雲に属し楕円形にたこが足を伸ばしているように外に拡がりながら渦巻状に回転しています。回転しているたこの足、または腕のように見える部分と中心部分の星の群れはより密集しているためにより強い光を放っているように見えます。銀河系星雲の直径はおよそ10万光年といわれています。ちなみに、1光年は約9兆4800億kmですから、銀河系星雲だけでも気の遠くなるような膨大な広がりを持っていることがわかります。、
一つの星雲には何千億ものの星が存在していますが宇宙には天の川星雲、銀河系星雲の他にもアンドロメダ星雲やマゼラン星雲などの銀河系星雲以外の星雲が何千億と存在しています。

天の川星雲は、太陽という恒星の周りを回転する地球という生命体が存在することを可能にする完全なバランスを持った環境を整えている星雲であり、他の星雲と比べて特異な星雲であるということができます。(Institution of creation research ”The Heaven Declares” より抜粋)

聖書は創造の神が宇宙に存在する何千億の何千億倍の星の一つ一つを知られ、一つ一つの星にも目的と計画を持っておられると述べています。

「 目を高くあげて、だれが、これらのものを創造したかを見よ。主は数をしらべて万軍をひきいだし、おのおのをその名で呼ばれる。その勢いの大いなるにより、またその力の強きがゆえに、一つも欠けることはない。」(イザヤ書40章28)

「 あなたはプレアデスの鎖を結ぶことができるか。オリオンの綱を解くことができるか。
あなたは十二宮をその時にしたがって引き出すことができるか。北斗とその子星を導くことができるか。あなたは天の法則を知っているか、そのおきてを地に施すことができるか。」(ヨブ記38章31-33)
まさに、もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空はみ手のわざをしめしています。

わたしたちは、日々わたしたちの周りで起こっているもろもろの現象のなかにある秩序を当たり前のこととして、見過ごしにします。

地球は太陽の周りを規則正しく周り、地球では太陽が毎日東から昇り、西に沈みます。地球は軌道面に垂直な方向から23.5度傾き、大海は規則正しい潮の満ち干を繰り返します。四季の折々には植物が周期的に成長と衰退を繰り返しながら、生命体を維持し、再生しています。

自然淘汰といわれる自然選択でさえ突発的な変化を抑え、すでに組み入れられている遺伝子を保存し、再生しています。
地球は知られている宇宙の星のなかでその表面の約70%が水に覆われ、生命の生存を可能にしている唯一の星です。さらに、地球を取り巻く大気は人の生命の存在を可能にし、維持するために必要な完全なバランスと環境を備えています。(Institution of creation research, The “Speech of The Day” より抜粋)

「この日は言葉をかの日につたえ、この夜は知識をかの夜につげる。
話すことなく、語ることなく、その声も聞えないのに、
その響きは全地にあまねく、その言葉は世界のはてにまで及ぶ。神は日のために幕屋を天に設けられた。 日は花婿がその祝のへやから出てくるように、また勇士が競い走るように、その道を喜び走る。
それは天のはてからのぼって、天のはてにまで、めぐって行く。その暖まりをこうむらないものはない。主のおきては完全であって、魂を生きかえらせ、主のあかしは確かであって、無学な者を賢くする。」(詩篇19篇2-7)

神の見えない性質、神の永遠の力と神性とは、明らかに認めることができ、すべてを創造された絶対な神の存在を認めることができます。
 
イエス・キリストの素晴らしい救いの知らせ、福音は、罪のない人として来られた神の御子イエスがわたしたちすべての罪、堕落した人間の汚れ、あらゆる偽善、心の欺き、自分の正しさに固執しようとする高慢さ、創造の神でないものを神として拝む偶像礼拝などのあらゆる思いと行いに対するわたしたちに向けられるべき裁き、神の怒りを十字架の上で一身に受けられ、死んで葬られ、預言されたとおり3日目に復活されたという歴史的事実にあります。

キリストは、わたしたちの身代わりとして死なれ、復活をされ、このことを信じ続けるすべての人々が栄光のキリストの似姿に変えられるという希望を確実に与えてくださいました。

すべてを創造された絶対な神の存在を認めず、福音を受け取ろうとしない彼らに弁解の余地はありません。



 
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