おのれをむなしうして、人間の姿になられたキリスト

(ピリピ人への手紙2章5-11)


使徒パウロは、わたしたちがイエスを主であると告白して受ける 聖霊によって、キリスト・イエスにある思いを互に生かし、信仰に敵対するこの世の試練や苦闘のなかにあって共に戦うことについて述べています。

そして、福音を信じる人々が、おのおの キリストの模範をより深く心にとめ 十字架に架かられてまでわたしたちを愛し、永遠のいのちを与えられたキリスト・イエスにあっていだいている 神の国の栄光の民となる目標と それを達成する喜びという 同じ思いを生かし、力を合わせ何事も党派心や虚栄からではなく、へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者とし、自分のことばかりでなく、他人のことも考える者へと変えられることを祈っています。

キリスト・イエスにあって栄光の神の国の望みをいだいている人々にたいする使徒パウロのこの祈りは、ローマ人へ宛てた手紙でもコリントの人々へ宛てた手紙にも同様の祈りが述べられています。

「忍耐と慰めとの神が、あなたがたに、キリスト・イエスにならって互に同じ思いをいだかせ心を一つにし、声を合わせて、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神をあがめさせて下さるように。(ローマ人への手紙15章5,6参照)」

「兄弟たちよ。いつも喜びなさい。全き者となりなさい。互に励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和に過ごしなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいて下さるであろう。(第二コリント人への手紙13章11参照)」    


ローマの極刑である十字架に架かり、復活されたイエスこそが、旧約聖書に様々に述べられている預言の成就であり、神の御子イエス・キリストを信じる信仰によって、すべての人々がイエスの復活をとおして永遠の命の保証を与えられ、やがて成就する神の国の王としてイエスがすべての被造物を治められるとき、共に治める者とされる特権を与えられる、という素晴らしい福音は、多くのピリピの人々に受け入れられ、信仰の成長と共に彼らは 苦境のなかにあっても、福音の弁明のために時の皇帝に上訴し、囚われの身となっているパウロに金銭的な援助の手を差し伸べました。

パウロは、献身的なピリピの人々にたいして、イエス・キリストを信じ、聖霊にしたがって歩む人生が必ずしも順風満帆の歩みではなく、人生で様々な試練に出会い、状況を超えた悲しみや苦難のなかでも、キリストによるうわべではない心からの慰めと希望が与えられる、と述べています。

それは、わたしたちが試練をとおして、イエスに信頼することによって、苦しみ、試練に会っている他の人々に心から同情し、本当の希望を伝えることのできる器へと変えられるためです。 

人生の歩みにおいて、自分本位ではなく正しく生きようとする人々がしばしば苦しみや人生の試練に会うのを見聞するとき、最も正しく人々を救うためにこの世に人として来られたイエスご自身が人々の苦しみを担われ、十字架の試練に会われたことを思わずにはいられません。  

真実の神はわたしたちを愛しておられ、どのように辛く、苦しい試練のなかにもイエスにあってわたしたちと共におられます。

わたしたちは、イエス・キリストにある神の愛と慰めによって苦しみや患難、痛みや状況を超えた試練を、主がわたしたちと共に乗り越えてくださるということを体験し、愛の神とのより一層深い関係を築くことができます。
そして、試練をとおして個人的な神の愛と慰めを体験するとき、わたしたちは、へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者とし、他人のことを考える者へと変えられます。

自分本位ではなく正しく生きようとする人々がしばしば苦しみや人生の試練に会うのは、そのような体験をとおしてキリストの栄光が現れる際に、わたしたちが一層大きな喜びにあふれるためです。

福音を信じるわたしたちは、キリストの栄光が現れる際により一層大きな喜びにあふれるという栄光に満ちた目標によってキリスト・イエスにあって共に同じ思いをいだいているのです。


ピリピの人々に宛てた手紙のこの箇所で使徒パウロは、「キリストは、神のかたちであられたが、神と
等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間
の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至
るまで従順であられた。それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。
それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをか
がめ、また、あらゆる舌が、『イエス・キリストは主である』と告白して、栄光を父なる神に帰するた
めである。 」と、述べて、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 この言は初
めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによ
らないものはなかった。」天地を創造され人を創られた創造の神と等しく一つの方が、神と等しくある
ことを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になら
れた。と宣言しています。

ここから、三つのポイントを挙げることができます。

第一に、キリストは神のひとり子であられるのに人としてこの世に生まれてくださったということです。
キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。

神の高い地位を捨ててこの地上に人として来てくださった方。100パーセント神の本質を持ったまま、100パーセント人としてこの世に来てくださったのです。
神のひとり子がそのあり方を捨てて罪にまみれるこの世に来られた理由、それは世にいるあなたを愛するためであったというのです。

第二に、キリストは実に十字架の死にまでも従われたということです。

その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。

100パーセント人となったキリストは元々人である私達と同じように、食べなければ飢え、飲まなければ渇き、叩かれれば痛みを感じ、切られれば血が出る方です。
しかし、キリストは私達とは全く異なる点が一つありました。それは、罪が全く無い方であるということです。
この方の行動にも言葉にも心の中の思いにも罪の一欠片も見出すことはできませんでした。
世界にただ一人全く罪のない人、それがイエス・キリストなのです。この罪の全く無いキリストが極悪人だけがかかる十字架にかけられ処刑されたというのです。
一体どんな罪で告訴されたんでしょう。それは、キリストが自らを神の救い主であると名乗ったということが罪とされたのです。

第三に、キリストは死後三日目に復活し、天に挙げられ、今、天からあなたのために祈りを捧げている方だということです。

「それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。それは、イエスの御名
によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる
舌が、『イエス・キリストは主である』と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。 」 

あなたが救い主イエス・キリストを信じるように天から願っている神、それがイエス・キリストです。
もし私達がこの人となられた神、十字架の上で私達のために死んでくださった神、3日目によみがえった神であるキリストを信じるなら、キリストは私達に永遠のいのち、復活のいのちを与えてくだいます。 
死人に必要なのは支え手ではなく新しい命なのです。霊的に死んでいる罪人に必要なのはキリストのいのちなのです。
そして、その永遠のいのちはキリストを信じるすべての人に与えられます。 


イエス・キリストは、天地の創造される前に はじめから創造の神と等しく、神と一つの方です。
この方が、おのれをむなしくされ、処女マリヤの胎に聖霊によって宿り、造られた人と同じように、人の姿をとってこの世に来られ、神の定められた律法を冒すことなく人として完全な義を全うする人生を歩まれ、創造の神に背き離れてしまった結果受ける人々の苦しみ 悲しみを人として受けられ、人が不義の結果受けるすべての裁きを十字架の上で犠牲のなだめの供え物となられ、人の罪の赦し、贖いを完成され、人の苦しみ、痛み、渇きを完全に味わわれ、おのれを低くして、死に至るまで父なる神の御計画と目的に従順であられ、ご自分からいのちを捨てられ、三日目に復活されました。

イエス・キリストが「あのれをむなしくされた。」と、ここで述べられていますが、このピリピ人への手紙の箇所の「むなしくする」という言葉のギリシア語の原語 κενόω ken-o'-o は、この手紙全体の主題ともなっている「空にする」という核心的な概念です。
キリストは何を空に、何をむなしくされたのでしょうか。

イエス・キリストは、万物を創造する全能の権能と特権、その地位と栄光を行使されることなくこの世で謙虚に人々に仕えられました。これが、イエス・キリストが「おのれをむなしくされた」という意味です。

イエスは、この世での最後のときを弟子と共に過ごされましたが、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心にイエスを裏切ろうとする思いを入れ、イエスが、「わたしを裏切る者が、わたしと一緒に食卓に手を置いている。 人の子は定められたとおりに、去って行く。しかし人の子を裏切るその人は、わざわいである」。と言われると、 弟子たちは、自分たちのうちのだれが、そんな事をしようとしているのだろうと、互に論じはじめ、それから、自分たちの中でだれがいちばん偉いだろうかと言って、争論が彼らの間に、起こりました。

そのようななかで、イエスは夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰に巻き、そ
れから水をたらいに入れて、弟子たちの足を洗い、腰に巻いた手ぬぐいでふき始められました。
上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰に巻き、水をたらいに入れて、足を洗い、腰に巻いた手ぬぐいでふき
とる、という行為は、奴隷が主人にたいしてとる行為です。

イエスがこの世で弟子たちと共に過ごされた最後の晩餐のときも、弟子たちの最大の関心事は、御国で
イエスが御座に座られるとき誰が一番偉いのか、ということでした。

自然のままのわたしたちは、真理に従うことよりも、自分中心の欲求に従い、神の基準からは完全に堕落した状態にあります。それは罪の法則によって、わたしたちは罪の虜になっている存在だからです。自然の人は生ける創造者である神を求めることも、その御旨に従うことも、従う力もない、人の努力や宗教的探究によって神の聖、神の義に届くことはありません。

通常わたしたちは、自分が他に比べて優れていたい、一番になりたい、偉い人になりたいという自然の欲望や野望を持つことが自分を向上させるものだと錯覚します。
 
しかし、イエスが弟子たちに身をもって示されたのは、神の御国において大切なのは、誰が一番偉いかということではなく、お互いが「おのれをむなしくして」お互いに仕え合うということを示されたのです。
御国に於いて偉くなりたければ、すべてに仕える者となることなのです。

自分の立場や地位にも拘わらず、他の人の必要のために犠牲を払って仕えることは、その人にとって喜ばしくは思えないことがしばしばあります。しかし、自分を主張することよりも他の人の必要のために
犠牲を払って仕え合うときに本当の喜びを見出すことができ、父なる神が奇跡を起こされることをイエスは示されています。

わたしたちは、ともすると自分自身のこと、自分の人生ということのみにすべての焦点をあてて、神の栄光、神が与えられる栄光の素晴らしさに焦点を合わせようとしません。
十字架の上で罪の贖いを完成され、復活されたキリストに従うということによって、わたしたちは神の栄光、神の国の栄光に人生の焦点を当てることができます。
わたしたちは、しばしば今 目に見える事柄だけに捉われ、それが最終的に行き着くところを見ていません。人生の歩みを進める上で永遠の栄光に焦点を定め、どんなに苦難な道を通っても最終的にその道
が永遠の栄光に満ちたところに行き着くのかどうか、ということが大事なのです。

神の国では互いに仕え合うことと、主に仕えるということは同じ行為だからです。

キリストは 見えない神のかたちであって、すべての造られたものに先だって存在し、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも万物が キリストにあって造られました。

イエス・キリストの本質である神聖は、この世にこられたときも変わることはありませんでしたが、神としての全能の権能と特権を行使されることなく、完全な人として歩まれ、より多くの人々が御国の民へと変えられるために謙虚に人々に仕えられました。

自分の立場や地位を主張するよりも、他の人々の必要のために自分の身を低くして仕え合うということが互いに愛し合うということを現実のものとし、わたしたちがイエス・キリストの栄光をより深く味わいイエスとの個人的な交わりを持つことができる鍵なのです。


使徒パウロは続けて、「それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、『イエス・キリストは主である』と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。」と、述べています。

イエス・キリストはこの世に来られたとき処女マリヤの胎に聖霊によって宿り、造られた人と同じように、人の姿をとってこの世に来られましたが、これは、イザヤによって「主はみずから一つのしるしをあなたがたに与えられる。見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる。」(イザヤ書7章14参照)と、 預言されたみ言葉が文字通り成就した出来事でした。
そればかりでなく、イエスの生涯、十字架の歴史的事実も詳細にわたって旧約聖書の歴史的記述、律法、預言をとおして示されている直接の預言、タイプ、が文字通り成就した出来事でした。

イエスは人の持つ神への背き、罪の責めを何一つ負っておられませんでしたが、わたしたちが負うべき罪の責めを十字架の上で一身に負われ、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで創造の神の御計画と目的に従順であられ わたしたちの贖いを完成してくださいました。それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わり、イエスの御名によって、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、『イエス・キリストは主である』と告白して、栄光を父なる神に帰するのです。

旧約聖書の預言にも イザヤは、「わたしは自分をさして誓った、わたしの口から出た正しい言葉は帰ることがない、『すべてのひざはわが前にかがみ、すべての舌は誓いをたてる』。 」(イザヤ書45章23参照)と、メシアである神のことを預言しています。

イザヤの述べているメシアによる救いの預言は、イエスの十字架と復活によって、すでに文字通り成就しています。そして、イエスの御名によって、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、『イエス・キリストは主である』と告白して、栄光を父なる神に帰する。という預言も、やがて、必ず文字どおり完全に成就します。

遅かれ早かれ、すべての膝がイエスの前にかがみ、すべての舌が、イエス・キリストが主であると告白するときがきます。
もしこの宣言に今 反対し抵抗して「わたしはイエスの前に膝をかがめることなどしない。」という人がいたとしても、すべての被造物がイエスの前に膝をかがめ、あらゆる舌が文字通りイエス・キリストは主である。と告白しなければならない時が必ずやってきます。

十字架に架かられたイエスは、昼の12時頃を過ぎ太陽が光を失い、全地が暗くなり、午後の三時頃になった時に「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」という言葉を発せられました。

このエリ、エリ、レマ、サバクタニという言葉は、あきらかに、イエスを十字架に架けることを主張したユダヤ人の指導者たち、大祭司、パリサイ人や律法学者たちが、すべてそらで憶えていた筈の「わが神、わが神、なにゆえわたしを捨てられるのですか。」というダビデが詠んだ詩篇22篇の冒頭の言葉です。
このダビデの詠んだ詩は,「 地の誇り高ぶる者はみな主を拝み、ちりに下る者も、おのれを生きながらえさせえない者も、みなそのみ前にひざまずくでしょう。子々孫々、主に仕え、人々は主のことをきたるべき代まで語り伝え、主がなされたその救を後に生れる民にのべ伝えるでしょう。(詩篇22篇29-31)」という預言で締めくくられています。

イエス・キリストを救い主、イエスの十字架と復活を神からの恵みと認め、いま、イエスの前に膝をかがめ、イエス・キリストが主であると告白する人々には、罪の赦しと父なる神と共にある永遠のいのちが与えられ、御国においてキリストと共に治める者とされ、誉れを受ける者とされます。

イエスの十字架と復活を神からの恵みと認め、この福音によってイエス・キリストを主と告白して人生を歩み、神の国の栄光の民となる目標という 同じ思いによって、へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者とする者へと変えられてゆくとき、どのような試練や苦難のなかにあっても、その試練を乗り越えることのできる神の愛と慰めをイエスキリストの栄光にあって体験し、状況を超えた一層大きな喜びに満たされ、御国においてキリストと共に治める者とされるという神の約束は変わることがありません。

しかしもし、「すべての被造物がイエスの前に膝をかがめ、あらゆる舌がイエス・キリストは主である。」と告白しなければならない時まで イエスの前に膝をかがめることを拒むのなら、そのときの告白はあなたにとってもはや救いではなく、単に創造の神からの永遠の別離と神の裁きが義である事実を後悔のうちに認めるということになります。


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