キリストの十字架による勝利

(コロサイ人への手紙2章13-15)


神が天と地を創造されたとき、創られたすべてが良かったと宣言されています。
しかし、わたしたちの見る世界はすべてが良いとは必ずしも思えません。それどころか、わたしたちの周りには、病、災害、争い、殺戮、死に満ち溢れています。

神の創造された完全ですべて良い世界に病、災害、争い、殺戮、死、がもたらされたのは、サタンの闇の力によるものです。さらに、神が与えられた特権を人々が自分の野心のために用い、罪によって人が神との愛の交わりから断たれ、被造物が滅びの縄目に束縛された結果です。

完全なものとして神との交わりを持っていたにも拘わらず、神に似せて自由な選び取りと意志を与えられ最初につくられた人は、神のことばより、神に反逆をする者、サタンのことばを選びました。
神のことばに信頼するよりも、神に反逆する者のことばを選び取った人は、神に反逆しただけでなく、神に反逆するサタンに隷属する者となりました。
これこそが罪の本質であり、すべての人がこの性質を持っています。

わたしたちは、生まれながらに 神の意志より自分の意志を優先させ、神に信頼しようとしない罪の性質を持っています。
罪の結果、神の創造された完全ですべて良い世界に病、災害、争い、殺戮、死、がもたらされました。
そればかりか、すべての被造物は、虚無に服し、滅びの束縛に入れられました。

わたしたち人間がどんなに努力をし、どんなに科学技術が進歩し、どんなに知恵を絞っても解決のできない問題がここにあります。

わたしたちは誰でもどんなに努力しても私たち自身の力では解決のできない少なくとも二つの大きな人生の問題を抱えて生きています。一つは過去の過ち、過去を取り戻すこと、もう一つは人は死を免れることができない、という二つの問題です。

わたしたちに内在する罪の問題、人が死を免れないという問題は人の力によっては解決することができません。
すなわち、完全なものとして神に似せて知識と知恵を持ち、自由な選択と選び取ることのできる意志と、愛し、愛されるという関係を持つことのできる完全な状態にあった人は、自らの意志によって誘惑にあったとき、神のことばに信頼するよりも、神に反逆する者のことばを選び取り、神に反逆しただけでなく、神に反逆するサタンに隷属する者となり、その結果、死と滅びに直面せざるを得ない存在となってしまい、自分の努力や知恵によっては解決することのできないわたしたちを創造された神にたいする罪と死、死後の裁きという問題を抱えてしまいました。

神は、御子キリストをこの世に賜り、わたしたちが、神の御前で義とされるために わたしたちが当然負うべき裁きを、キリストのうえに身代わりとして十字架の上で負わされました。

キリストは、不義に対する神の怒りのなだめの供え物として血を流してくださり三日目によみがえられ、多くの人にあらわれました。


神の御子イエスがこの世に来られた第一の目的は、神の言葉よりも神の言葉に反逆し、誘惑をする者の言葉に従い誘惑者の束縛にある人々の罪を贖い、人々が神との関係に立ち返り、神の永遠の裁きに勝利を得るものとなることができる道を開いてくださることでした。

罪のない完全な人としてこの世に来られた神の御子イエスは十字架の上ですべての人の罪の代価を全て支払われ、わたしたちを責めて不利におとしいれる証書を、その規定もろともぬり消し、これを取り除いて、十字架につけてしまわれ、もろもろの支配と権威との武装を解除し、わたしたちをキリストの勝利の列に加えて下さいました。

イエスは復活され、天の御座に昇られ、イエスを信じる人々のためにとりなしをされています。そして、この方は、聖書に預言されているようにやがて再び来られ完全な義をもってすべての人々を裁かれます。

イエスは、聖霊によって処女マリヤとヨセフから、信仰によって神の約束を信じたアブラハム、ダビデの末裔として、約束の民のなかに100%人としてこの世に来られ、わたしたちの救い、罪の贖いのために贖いの代価として十字架に架かってくださいました。

罪から人が解放されるためには、罪のない聖いいのちの血が流され、いのちが捧げられなければならなかったからです。

聖霊によって宿り、知性、感情、意志を持たれて100%わたしたちとおなじ人として、しかも、天地が創造されるのに先立って創造主である神と共に存在されていた100%わたしたちを創造された神と等しいお方としてこの世に来られた聖いいのち、イエスは、わたしたちがイエスの流された血がわたしたちの罪の代価を支払うための犠牲の血であるということを受け入れ、人々がイエスを心で信じ、口でイエスが人生の主であることを告白する保証のないときにわたしたちのために十字架に架かられ、聖書に預言されたように三日目に死者のなかから復活の初穂となられ、天に昇られ再び来られる約束をされました。


神に敵対しようとするサタンは、神が人を救われるというこの神の計画をよく承知していました。そのために、人の罪の贖いと罪にたいする神の憤りのなだめの供え物としてイエスが十字架に架かられ、サタンのこの世の支配、権威を打ち破られるという神の御計画を阻止するためのあらゆる手段を人類の歴史上に講じてきました。

サタンは、聖書をとおしてこの世の君とも呼ばれ、イエス・キリストの福音を受け入れないこの世の人々の心と、この世の目に見える人の制度を支配しています。その故に、使徒パウロは、「 わたしたち
の戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。」(エペソ人への手紙6章12参照)と述べています。

サタンはキリストの十字架によってすでにサタンによるこの世の支配権と権威が打ち破られているにも拘わらず、人々の福音に対する目を曇らせ、この世を誘惑と惑わしによって滅びのときに至るまで人々を神から引き離し、肉の思いに引き込んで支配と権威に執着しています。

神は、すでに御子キリストの十字架と復活によって闇の力を打ち破り、キリストの支配による神の支配される国へとわたしたちを移しかえてくださいました。

キリストの十字架と復活は、わたしたちが、キリストの死と復活によって、古い肉の自分がキリストと共に葬られ、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、古い肉のいのちに
生きているのではなく、新しい霊のいのちに生きていることを意味しています。

わたしたちは古い罪の僕から解放され、死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従わせることをせず、自由に自分自身が死から解放された者として自分の人生を神に捧げることができるのです。

キリストの十字架と復活を信じる人々は、もはや罪の奴隷となって死に至るのではなく、従順の奴隷となって義に至るのです。

わたしたちは、キリストの十字架と復活によってすでに栄光の勝利を与えられ、神の国の栄光を見ることができるのです。


使徒パウロは、神がすでに御子キリストの十字架と復活によって闇の力を打ち破り、キリストの支配による神の支配される国へとわたしたちを移しかえてくださった。と、宣言しています。

聖霊は、神がキリストの十字架と復活によって闇の力を打ち破り、闇の力がイエスの十字架によって、すでに裁かれたということを証ししてくださるのです。

神がキリストの十字架と復活によって闇の力を打ち破り、わたしたちを栄光の光に満ちた神の国に移し替えてくださった。というのなら、何故わたしたちは いまだにサタンはこの世を支配しているように思え、この世の汚れ、暴力、災害や病苦などを見るのだろうか。という疑問をある人々は、持ちます。 

ヘブル書の著者も、「あなたは、しばらくの間、彼を御使たちよりも低い者となし、栄光とほまれとを冠として彼に与え、万物をその足の下に服従させて下さった」。「万物を彼に服従させて下さった」という以上、服従しないものは、何ひとつ残されていないはずである。しかし、今もなお万物が彼に服従している事実を、わたしたちは見ていない。」と述べて、同様の疑問を投げかけています。

旧約聖書のサムエル記にはイスラエル統一王国の初代の王としてサウロが選ばれた後、サウロが神の言葉に不従順であり、神への背きのために王位を退けられ、預言者サムエルによってダビデが王国の王位を継承するものとして油を注がれたことが述べられています。
ダビデはサウロに変わってイスラエル統一王国の王として神からの王位継承の権利を委ねられました。しかし、その後もサウロは、暫くの期間、王位に執着し続け、正当なイスラエルの王位継承者であるダビデを執拗に殺そうとしましたが、最後に神への背きによって戦いに敗れ、滅びました。

この歴史的物語の記述は、事実に基づいた記述ですが、この物語のなかには、イエスの十字架によってすでにこの世の支配権を剥奪され滅びることが定まっているサタンと、この世の正当な王として来られる復活のイエスがタイプとして描かれています。

この歴史的物語のタイプのなかに見られるようにサタンは、イエスの十字架によってすでにこの世の支配権を剥奪され、滅びることが定まっているにも関わらず、イエスがこの世の正当な王として来られるまでの暫くの期間、あらゆる手段を用いてこの世の支配に執着し、信仰によってイエスこそがこの世の支配権を持たれる油注がれた神の国の王であることを信じる人々を苦しめ、この世を荒廃させようとします。

イエスは十字架によってこの世の闇の力を裁かれ、闇の力を支配するサタンの滅びを宣告されました。
しかし、サタンは再びイエスがこの世に来られ、正当な王として平和の君として君臨されるまでの期間、この世を奪おうとして人々の目を欺き、この世の支配に執着しようとしています。

わたしたちが現在見ているこの世は、すでに裁かれたサタンがキリストが再び来られるまでのあいだ、この世の支配に執着している期間に当たるのだということを、わたしたちは理解しなければなりません。

イエスこそがこの世を統べ治められる正統な王であり、この変わらない事実はキリストが十字架の上でサタンを裁かれ、死者から復活され、天に昇られたことで、より確定された歴史的事実となっています。

やがてキリストは再び来られ、イエスを主と信じ人生を歩んでこの世の生涯を終えた人々を迎えられ、イエスの福音を信じ、恵みと救いの時代の終わりのときまで信仰に生きる人々を引き上げられ、すべての人々を裁かれるときがきます。

黙示録には、イエスが、この世の権利書である巻物を、御座にすわる方の右の手から、受け取るとき、天の栄光の御座のまわりの大群衆とともに、わたしたちが新しい歌を歌うとき、被造物すべてが完全に贖われることが描かれています。

イエス・キリストは、聖書に預言されているようにやがて再び来られ完全な義をもって生ける人とすでに肉体が滅び眠りについたすべての人々を裁かれます。

聖霊は、神がキリストの十字架によって、この世の君がすでに裁かれ、もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、この世の君をその行列に加えてさらしものとされたばかりでな
く、やがて再び来られるキリストが完全な義によってすべての生ける人と肉体が滅び眠りについたすべての人を公正に裁かれることをわたしたちに証しされ、わたしたちの人生の歩みもキリストの十字架に
よる勝利によって確信をもって栄光の希望を持つことができるということをわたしたちに知らせてくれるのです。


コロサイ人への手紙

 

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