万物は御子によって創造され、死人の中から最初に生まれた

(コロサイ人への手紙1章15-18)


使徒パウロは福音を受け入れ、イエスを神の御子であると信じた人々が、この世に来られわたしたちの罪の贖いとして十字架に架かられ復活されたイエスを、聖霊のはたらきによってより深く理解し、神の御旨をより深く知って神のみこころにかなった人生の歩みを歩み、神の栄光を証しする者へと変えられることを祈っています。
そして、神の御子イエス・キリストがどのような方なのかについて、より深い理解をする上で欠かすことのできないことについて述べています。
パウロが手紙を書いたコロサイの人々のあいだには、イエスを人の守るべき道徳を教えた教師と見做したり、人が哲学的、内面的に神を探求することで神を知ることができると主張して、イエスご自身が100%神であること、イエスの神性を否定し、キリストの十字架の贖いと復活によって完成された救いと、完全な神の恵みの福音に、ギリシャ哲学やユダヤ教的律法主義、東洋的神秘思想、禁欲主義をキリストの福音にとり込もうとする異端的な思想が入り込もうとしていました。

このような異端的な教えに対して使徒パウロは、すべての思想や人の哲学、宗教的な伝統、東洋的神秘主義、(合一、脱我、寂静(じゃくじょう)浄化、集中、瞑想(めいそう)などによって神と人がひとつ
になれるとする思想)に優ってキリストが人の救いにとって完全に必要なすべてであり、イエスがすべての創造に先立つ方であり、わたしたち人間にとって必要なすべてに優先されるお方だということを宣言しています。

パウロはこの箇所で「御子は、見えない神のかたちであって、すべての造られたものに先だって生れたかたである。」と、宣言しています。                             

ここで、すべての造られたものに先立つという言葉のギリシア語の原語 πρωτοτόκος  pro-tot-ok'-os という言葉には、すべての地位、支配と時間においてその優先順位、尊厳が先だっていること、という意味があります。

この箇所で強調されているのは、御子イエスは創造主である神によって最初に創られたり生まれたという意味ではなく、御子イエス・キリストは天地が創造されるのに先立って創造主である神と共に存在されていた、という意味であることに注意する必要があります。

すなわち、使徒パウロは、イエスがすべてを超越され、すべての創造に先立つお方であるということを知り、イエス・キリストのみが礼拝の対象である創造の父なる神と同じ方であることをより深く知り、
イエスの十字架と復活がわたしたちの救いに必要なすべてである。ということをこの箇所で宣言しています。
そして、この方に全面的な信頼をして歩むことが人生の鍵であり、このことによって、はじめてわたしたちも神の国の栄光を体験することが可能となるのだと説いています。


パウロは、イエス・キリストが「すべてに先立つお方」ということを知ることによって、イエスをとおして、創造の神がどのようなお方なのかということをよりはっきり確認することができる、と述べてい
ます。
ここで、イエス・キリストが、「すべての造られたものに先だって生れたかたである。」ということを知ることによって、わたしたちが確認することのできる、三つのポイントについて見てゆきます。

まず第一には、イエスを見ることによってわたしたちは見ることのできない創造の神を見ることが出来る。ということが宣言されています。
パウロは、この世に来られたイエスによって、人は目には見ることの出来ない天地を創造され初めから存在される唯一の永遠の神を見ることができると述べています。
そして、イエスを見ることによって、神がわたしたちの喜び、悲しみ、この世での苦難や矛盾を知っておられ、罪のない完全な生涯を送られたにも拘わらず罪からくる神の義なる憤り、裁きをイエスがわた
したちのために一身に負って下さったのを見ることで、神の愛と恵みの深さを体験することができると述べています。

わたしたちは、この世に来られたイエス・キリスト(しかも十字架につけられたキリスト)を見ることによって、わたしたちを創造された神がどんな方なのかを知り、神がどんなに深くわたしたち一人びとりを愛されていることを体験することができるのです。 

第二のポイントは、イエス・キリストが、「すべての造られたものに先だって生れたかたである。」ということ知ることによって、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、位も主権も、支配も権威も、みなイエスにあって造られ、イエスのために造られ、万物がイエスにあって成り立っており、すべての尊厳、優先順位が創造の神と共にイエスにあることを、確認することができると、使徒パウロは述べています。

旧約聖書、創世記1章のはじめは「はじめに神は天と地とを創造された。」という宣言からはじまっています。そして、神はまた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。 と、言われました。さらに、新約聖書、ヨハネの福音書1章のはじめは、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 この言は初めに神と共にあった。
すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。 」という宣言からはじめられています。

すなわち、イエスがすべての造られたものに先だって生れたかたであるということは、イエスご自身が、創造のはじめから「もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空はみ手のわざをしめす。」(詩篇19篇)「主よ、あなたはいとも大いにして誉と威厳とを着、光を衣のようにまとい、天を幕のように張り、水の上におのが高殿のうつばりをおき、雲をおのれのいくさ車とし、風の翼に乗りあるき、風をおのれの使者とし、火と炎をおのれのしもべとされる。」(詩篇104篇)と詠われている ようにわたしたちの目に見えるものも目に見えないものも天地万物の創造にはじめから関わっておられたのだということを知ることなのだというのです。

そして、この天地万物のなかには、位も主権も、支配も権威もと表現されているわたしたちの目には見ることの出来ない霊の世界、天使もイエスがはじめに創造された被造物に含まれ、すべてがイエスのためにつくられ、そのなかにはわたしたち人も含まれているのです。

わたしたちは、イエスの御旨と御計画によってつくられています。

わたしたちが、イエスの御旨と御計画によってつくられているという宣言に、ある人々は、反対をします。
しかし、それは人がわたしたちを創造された方の性質に似せて人格を持ち、自分で自分の方向、運命を選択するという自由意志をもってつくられており、つくられた方の意志にも背く自由が与えられているからであって、だからといってすべての被造物がイエスの御旨と御計画によってつくられている、という事実には変わりがありません。
 
わたしたちには自分を中心に生きるか、わたしたちを創られた神の御旨に生きるのかという選択が与えられています。
しかし、イエスがすべての造られたものに先だって生れ、わたしたちをつくられただけでなく、わたしたちを贖われ、わたしたちを愛し、わたしたちに永遠のいのちを与えられていることを信じて生きるときわたしたちの人生は、自分中心の人生を生きる虚しさに比べて、より状況を超えた喜びと希望に満ちたものとなります。

それは、わたしたちが、イエス・キリストをとおして人を創られた神が、人となられ、人と同じ人格を持たれ、わたしたちを限りなく愛され、罪によって滅びに向かっているすべての人の代価を支払うために十字架の上で贖いを完成され、神の愛と恵みを信じる人々のための復活の初穂となられ、確実な希望が与えられていることを知ることが出来るからです。
わたしたちがイエスの御旨とご計画に従って人生を歩むとき、それがときにわたしたちの理解を超えるように思えるときもわたしたちの人生は必ず恵みと慈しみで満たされたものとなります。

第三のポイントは、18節に述べられているように、イエスがすべてに先立って死からの復活の最初となられ、新しい創造、キリストのからだである教会の頭となられ、人の救いに必要なすべてとなられた、ということを確信することができます。

イエス・キリストが、「すべての造られたものに先だって生れたかたである。」ということ知ることは、イエスの求めておられる人生の歩みを歩むとき、どのように人の肉の思いによっては絶望的に思える状況のなかでもキリストがすべてに先立って死を打ち破られた歴史的事実によって、たとえわたしたちの肉の身体が滅んでも、すでに死からの復活の初穂となられたイエスによって、キリストのからだであり、キリストの花嫁である教会が、決して滅びることのない栄光の姿に変えられ引き上げられるときに、わたしたちが復活の永遠のいのちを与えられて生きるという主の約束が決して変わらない確実なものであり、あらゆる状況を超えて、生きた希望を持つことができることを意味しています。


聖霊のはたらきによって集められ、イエス・キリストの十字架の贖いを個人的に信じ受け入れ、イエス・キリストの再臨と、この世が贖われることを待ち望む人々、キリストの肢体である教会にも歴史を見る時、教会が問題を抱え、教会が人々の人生における問題を解決するものとはならないばかりか、人の罪の醜さや問題をより鮮明にし、教会に失望することさえしばしばあります。

人々が人生の問題にたいする解決を教会に期待し、教会の組織や教会の人々に求めるときその期待が裏切られたり、教会の歴史のなかにある偽善や不純なものとの妥協を見、教会について失望することがあります。
教会の歴史には、常に教会のなかで教会の頭になろうとして特定の人物や、特定のこの世の資格によって宗教的な権威付けを行ったり、人の伝統や習慣によって教義の名のもとに人々が争いあったり、憎みあったりするということが起こりました。

イエスがこの世での最後のときを弟子たちと共に過ごされた最後の晩餐のときも、弟子たちの最大の関心事は、御国でイエスが御座に座られるとき誰が一番偉いのか、ということでした。 
このとき、弟子たちが主と仰ぎ従ったイエスは、身をもって奴隷が主人に対してする行為、上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰に巻き、水をたらいに入れて、足を洗うという行為を弟子たちに対してされました。
誰が一番偉いのかという論争をし、心を奪われていた弟子たちに、イエスは、自分の立場や地位を主張するよりも、他の人々の必要のために自分の身を低くして仕え合うということが互いに愛し合うということを現実のものとし、自分自身を他よりも偉いと誇ることなく互いのために仕え合うということが御国に住む者の心でなければならないこと、御国で偉いとされるには仕えるものでなければならないということを身をもって示されました。

イエスがわたしたちひとりひとりに求めておられるのは、わたしたちが、この世の支配と権威にたいする野望を持つことではなく、イエスが教会のからだの頭となられたことを知って共に歩まれる聖霊が導かれる歩みを人生の歩みの優先課題とすることです。

わたしたちが、イエスがすべてに先立って死からの復活の最初となられ、新しい創造、キリストのからだである教会の頭となられ、人の救いに必要なすべてとなられたことを知ることは、イエスの求めておられる人生の歩みを歩むとき、より大きな喜びと、たとえわたしたちの肉の身体が滅んでも、すべてに先立って死からの復活の初穂となられたキリストによってキリストが必ず再び来られるとき決して滅びることのない栄光の姿に変えられ天に引き上げられ、キリストが地上に再び戻って来られるときも共に治める者として神の国に住み、その後も永遠の栄光をキリストと共に享受する、というあらゆる状況を超えた生きた希望によって人生を歩むことができるのです。


コロサイ人への手紙

 

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