罪ののろいと恵みの祝福  

(ガラテヤ人への手紙3章10-14)


使徒パウロはこの箇所で「律法の書に書いてあるいっさいのことを守らず、これを行わない者は、皆のろわれる」と述べ、律法を守ることによって神の御前に正しい、義とされようとする者は皆律法による罪ののろいの下にある。と宣言しています。

律法による罪ののろいとは何を意味しているのでしょうか。

神はエジプトで奴隷の状態に陥ったイスラエルの民を解放され、民がモーセに率いられて約束された地に入るに当たって律法(十戒)を与えられました。そのすべての言葉とすべての掟とが民に告げられたとき、彼らは異口同音に「わたしたちは主の仰せられた言葉を皆、行います」。と答え、そして、神はイスラエルの民との契約を結ばれました。

この律法は、イスラエルの民が約束の地で繁栄し、祝福されるために守るべき規律でした。

神はモーセをとおして、民が神の律法を守って行うときにもたらされる祝福と繁栄の約束をされ、同時に民が神の定めを軽んじ、心に神のおきてを忌みきらってすべての戒めを守らず、神との契約を破るときにもたらされる災厄と悲惨についての警告を与えられました。
レビ記26章には、その災厄と悲惨な結末、最終的にもたらされる滅びと死がもたらされることについての警告が詳しく預言されています。

そして、申命記には、「もし人が死にあたる罪を犯して殺され、あなたがそれを木にかけるとき、その死体を次の日まで木につるしたままにしてはならない。木にかけられた者は神に呪われた者だからである。」(申命記21章22.23参照)という罪の結果もたらされる最悪の呪いが述べられ、律法の言葉をすべて守らない者はのろわれる。ことが宣言されています。(申命記27章26参照)

使徒パウロはこの箇所で、「いったい、律法の行いによる者は、皆のろいの下にある。『律法の書に書いてあるいっさいのことを守らず、これを行わない者は、皆のろわれる』と書いてあるからである。キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを律法ののろいからあがない出して下さった。聖書に、『木にかけられる者は、すべてのろわれる』と書いてある。」と述べ、律法の一部を破る者はその全体を破っていることになり、神の掟を破り、律法をないがしろにする者には結果として死がもたらされ、律法によって罪人の宣告を受けていると宣言しています。

他の人と比較して、自分がより多く律法を守ったからといって、そのことで神の前で他の人に比べて義とされるということは決してあり得ません。
            
何故なら、律法の一部だけを守っても、律法の全体を守らなければ、人は律法を破っているということになり、律法を破る者は死に定められ、すべての人が究極的には木に架けられ罪ののろいのもとに置かれる状態にあるからです。

ヤコブは、「律法をことごとく守ったとしても、その一つの点にでも落ち度があれば、全体を犯したことになる。」と述べ、「 たとえば、『姦淫するな』と言われたかたは、また『殺すな』とも仰せになった。そこで、たとい姦淫はしなくても、人殺しをすれば、律法の違反者になったことになる。」と、このことについての説明をしています。(ヤコブの手紙2章10、11参照)

このように、もし律法を守ることによって神の前で義とされ正しい者とされようとする人は、律法の全体を守らなければなりません。
しかも、イエスが弟子たちに言われたように、わたしたちが天国に入るための義の基準は、外見上、神が示された神の律法を守ることだけではなく、律法を守るときの心の在り方、動機が完全でなければ律法を守っていることにはならないのだと言うのであれば、すべての人が律法を守ることによって神の前で義とされることは不可能ということになります。

神の律法は、それ自体善いものであり、聖なるものですが、律法のもとでは、すでにすべての人が、神の栄光に届かず罪に定められ死に至る状態にあるのです。

これがパウロの述べている律法による罪ののろいということの意味です。

パウロはさらに、律法が与えられたのは、すべての人が罪人であることを自覚し、救いの助け手が必要なのだということを知るために与えられたのだと宣言しています。


律法をことごとく守ったとしても、その一つの点にでも落ち度があれば、全体を犯したことになるのだとすれば、誰一人として律法を守ることによって神の前で義とされる人はなく、すべての人が律法を破り、死に定められ、罪ののろいのもとに木に架けられなければならないことになります。

しかし、使徒パウロは、キリストが十字架に架かられ、すべての人の罪ののろいとなってくださったことによって、わたしたちは律法ののろいからあがない出されていると、宣言しています。

律法による罪ののろい、神の律法を破る者に科せられている罪を帳消しにするために、イエスはわたしたちの身代わりとしてご自身が罪ののろいとなって、十字架に架かってくださいました。

このことによって、わたしたちは罪ののろいから解放されているというのです。

わたしたちが神の前で義とされるのは、律法を守り行うことによるのではなく、わたしたちのためにキリストが律法による罪ののろいとなられ、わたしたちの罪を帳消しにし、律法を完成されたことを信じる信仰によるのです。

「 しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲しめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。」(イザヤ書53章5,6) というイザヤ書の預言は、文字通りイエスがわたしたちの不義を赦し、罪ののろいから解放するために十字架に架かられたことによって成就しました。

天地を創造され、神ご自身と等しい方、「『霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君』ととなえられる。そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りなく、ダビデの位に座して、その国を治め、今より後、とこしえに公平と正義とをもってこれを立て、これを保たれる。万軍の主の熱心がこれをなされるのである。」(イザヤ書9章6,7)と預言されるメシア、キリストが最初にこの世に来られたのは、神がわたしたちの不義を赦し、罪ののろいから解放するためであったことを聖書はいたるところで証言しています。

「神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。」(第二コリント人への手紙5章21参照)

「このキリストが、わたしたちのためにご自身をささげられたのは、わたしたちをすべての不法からあがない出して、良いわざに熱心な選びの民を、ご自身のものとして聖別するためにほかならない。」(テトスへの手紙2章14参照)

「キリストは、ご自身をいけにえとしてささげて罪を取り除くために、世の終りに、一度だけ現れたのである。そして、一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることとが、人間に定まっているように、キリストもまた、多くの人の罪を負うために、一度だけご自身をささげられた後、彼を待ち望んでいる人々に、罪を負うためではなしに二度目に現れて、救を与えられるのである。」(ヘブル人への手紙3章26-28参照)
 
「あなたがたのよく知っているとおり、あなたがたが先祖伝来の空疎な生活からあがない出されたのは、銀や金のような朽ちる物によったのではなく、きずも、しみもない小羊のようなキリストの尊い血によったのである。」(第一ペテロの手紙1章18、19)

「さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされたのである。」(第一ペテロの手紙2章24参照)  


キリストはすべての人の身代わりとなってわたしたちの罪の責めを負われ、罪ののろいからわたしたちを解放されました。

そればかりでなく、キリストによってわたしたちにもアブラハムに約束された栄光の祝福がもたらされている、とパウロは宣言しています。
モーセをとおして律法がイスラエルの民に与えられる四百三十年も以前に神はアブラハムに祝福の約束をされました。

それは、神が異邦人を信仰によって義とされることを、あらかじめ知って、アブラハムに、「あなたによって、すべての国民は祝福されるであろう」との素晴らしい知らせを予告されました。それは、アブラハムの受けた祝福が、イエス・キリストにあって異邦人に及ぶためであり、約束された御霊を、わたしたちが信仰によって受けるためでした。(ガラテヤ人への手紙3章14参照)

神がアブラハムに約束されたのは、アブラハムの子孫、家系からメシアがこの世に来て、メシアによって全世界の人々に祝福が与えられるという約束でした。

使徒パウロは、アブラハムの子孫とはキリストのことであり、すべての人がキリストの贖いを信じ、約束された聖霊を信仰によって受け取るとき、わたしたちの内に住まわれる聖霊によって肉の思いや努力によっては不可能なわたしたちの心の在り方、動機を内側から変え、律法を完成されたイエスの力によって行いを伴った信仰を持ち神の御心にかなう者へと変えられ、神の義とされるという祝福を受けとることができると宣言しています。

「 さて、約束は、アブラハムと彼の子孫とに対してなされたのである。それは、多数をさして『子孫たちとに』と言わずに、ひとりをさして『あなたの子孫とに』と言っている。これは、キリストのことである。」(ガラエヤ人への手紙3章18参照)

イエス・キリストが、わたしのための罪ののろいとなつて十字架に架かられたことによって、わたしの罪ののろいが贖われていることほど素晴らしい祝福はありません。

そして、この祝福には、約束された御霊をわたしたちが信仰によって受け、行いを伴った信仰を持つ者へと変えられる。という祝福が含まれています。

神はエゼキエルの預言をとおして、イエス・キリストが、わたしのための罪ののろいとなつて十字架に架かられたことを信仰によって受け取る人々に、「わたしは新しい心をあなたがたに与え、新しい霊をあなたがたの内に授け、あなたがたの肉から、石の心を除いて、肉の心を与える。わたしはまたわが霊をあなたがたのうちに置いて、わが定めに歩ませ、わがおきてを守ってこれを行わせる。」(エゼキエル書36章26,27参照)と、約束されています。

聖霊がわたしたちの内に住まわれるとき、わたしたちはもはや滅びにいたる古い肉の欲によって人生を歩むのではなく、他の人の祝福、他の人々の喜びのために、そして、それ以上に神に喜ばれる人生の歩みを歩みたいと願う思いを内側から与えられ、変えられてゆきます。

わたしたちが罪に死に、義に生きるために、キリストが十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われ罪ののろいとなつてわたしたちを贖われたのは、わたしたちを神の前で義であると宣言してくださるばかりでなく、聖霊によってわたしたちの内にキリストの義を住まわせてくださるためでした。

このことを信じる信仰によって全世界すべての人が神からの恵みを受け取ることができるということがパウロの伝えた福音でした。 

わたしたちは、この神からの素晴らしい恵みを受け取り、律法を自分の力で守り行うことではなくキリストが完成された贖いを信じ、聖霊によって変えられ、より豊かな恵みのうちに永遠の滅びることのないいのちに生きることができるのです。

                 



 

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