恵みによる新しいいのち  

(ガラテヤ人への手紙2章19-21)


群衆が集まってきたとき、イエスは弟子たちに「あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない。天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」と言われ、わたしたちが天国に入るための義の基準は、神が示された神の律法を、外見上に守ることだけではなく、律法を守るときの心の在り方、動機も完全でなければならないということを示されました。

創造の神の存在を認め、神の律法を認め、自分の努力や決心によって、道徳的になり、神の規律を守ろうとしても、わたしたちには、決して自分の力で神が認めておられる完全な義、完全な聖に達することはできません。

復活のイエスに出会う前のパウロは、自分が八日目に割礼を受け、イスラエルの民族に属する者、ベニヤミン族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法の上ではパリサイ人、律法の義については落ち度のない者であり。同国人の中で同年輩の多くの者にまさってユダヤ教に精進し、先祖たちの言伝えに対して、だれよりもはるかに熱心であったことを自負し、律法を守らずにイエスの十字架と復活を信じるだけで、神の前で義とされると信じる人々を迫害するほど、律法を外見上守ることに熱心でした。

神の律法を認め、だれよりも熱心に完全な義、完全な聖に達しようとしたパウロは、復活の栄光のイエス・キリストに出会ったとき、到底自分たちの努力や熱心によっては神の義を成し得ないことに気付き、イエスこそがわたしたちのために十字架の上で律法と預言を完成されてわたしたちの神に対する背き、罪の裁きの責めを負われ、わたしたちの罪を赦されたのだということを悟りました。

人は律法を行うことによって神の前に義とされて立つことは決してできません。人は、イエス・キリストを信じる信仰によってのみ神の前に義とされて立つことが出来るのです。


すべての人が、人を創造された神を否定し、神に背き、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、といった肉の誘惑に駆られ、それを行う罪の性質を持っています。

イスラエルのパリサイ人たちや、律法学者たちは、神の義を外見上守ろうとして、心の内側では神の律法を破っているにも拘わらず、その偽善を覆い隠すために、より細かい規律や、解釈を加え人々の伝統を守ることによって外見上の偽善を正当化しようとしました。

人は神の言われる義の基準を自分の努力や熱心によって行おうとするとき、律法を細分化し、詳細に解釈することによって、心の思いや動機と反対な外見上の自分を正当化しようとします。

律法をより詳細に解釈し、その細部化された規律を外見上他に比べて自分の努力や熱心によって守っているように見せるとき、自分が規律を知り細部を守っているように思い、自分が正しいと思う誤った自己正当化と偽善に陥ります。

創造の神を否定し、イエスの十字架と復活の救いを受け入れない人々でも、肉の誘惑に駆られて人生を歩むことが、最終的には破滅をもたらすものだということを直感的に知っています。
そして、道徳的に社会の規律を守らなければ、その社会が崩壊することを多くの人々が感じています。
すべての人に何が正しいか、正しくない行いなのかを知る思いが心に刻まれています。 わたしたちは、それを良心と呼んでいます。しかし、人は必ずしも良心にしたがって行動をしません。何故なら、罪の法則によって創造主である神の意志より自分の意志を優先させ、神に背く思いに捉われているために人は良心の思いよりも自己中心的な肉の欲求の思いを優先させるからです。

パウロは、神の律法は、道徳的にも社会の規律を守る上でも最高の律法であり、間違いなく神の律法が霊的なものであることを認めています。

しかし、パウロは、自分の努力や決心によって神が完全であられるように完全なものになろうとするとき、自分のうちには、神の律法を善であると認め、それを行おうとしても、自分の欲する事は行わず、かえって憎む事をしている自分に気付かされるという惨めな状態に陥り、それは、内に宿っている罪のためだということを告白しています。

わたしたちの内に、すなわち、肉の内には善なるものが宿っていないために善をしようとする意志があってもそれをする力がない、とパウロは結論付けています。

神は一方的な恵みによって、御子を、わたしたちと同じ人の姿をとってわたしたちのためにこの世につかわされ、人の肉のうちにある罪を帳消しにするために、肉において罪を罰せられ、イエス・キリストの十字架の贖いによって神の律法を完成してくださいました。

そして、創造の神を否定し、背くという人の本質的な罪を赦され、キリストを信じる人々にキリスト・イエスの御霊を与えられ、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則によって、罪と死との法則からわたしたちを解放してくださいました。

わたしたちが肉の弱さのゆえに成し得ない神の律法を、神はイエスによってわたしたちのためになし遂げて下さいました。

神が人の努力や熱心によっては決して成し得ない律法と義を、キリストの十字架によって完成し、わたしたちのために成し遂げてくださったのは神の一方的な恵みです。


使徒パウロは、わたしたちが神の恵みを受け取るのなら、イエスの御霊が与えられ、このイエスの御霊の法則によってわたしたちが、もはや自分の努力や熱心によって律法を行おうとするのではなく、すでに律法を完成されたイエスの霊に信頼して歩むことが信仰の歩みだと宣言しています。

それ故にパウロは、この箇所で述べているように、「 わたしは、神に生きるために、律法によって律法に死んだ。わたしはキリストと共に十字架につけられた。 生きているのは、もはや、わたしではない。
キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。」と、宣言しています。

パウロは、同じような宣言をこの章の21節でも 「 わたしは、神の恵みを無にはしない。もし、義が律法によって得られるとすれば、キリストの死はむだであったことになる。」と、述べています。

さらに、すでに律法を完成されたイエスの霊に信頼して歩むことについて、「御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。
「なぜなら、肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反するからである。こうして、二つのものは互に相さからい、その結果、あなたがたは自分でしようと思うことを、することができないようになる。もしあなたがたが御霊に導かれるなら、律法の下にはいない。」(ガラテヤ人への手紙5章17,18)とも述べています。

わたしたちは、肉の身体にあって人生を歩む限り常に肉の誘惑、目に見える美しいもの、肉の快楽をもたらすもの、他と比べて自分が誇れると思うものに惹かれます。

イエスを主として歩む人々も自分の決意や努力だけでは肉の誘惑に打ち勝つことには限界があります。

イエスがこの世を去って復活をされた後に弟子たちとガリラヤで出会うことを告げられたとき、弟子のペテロは、「たとい、みんなの者があなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」。と決意を表明し、イエスが「よくあなたに言っておく。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われても、「たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません」。と言って、死に直面してでもイエスに従う覚悟を表明しました。
 
しかし、それにも拘わらず、イエスが大祭司と議会の指導者たちに捕えられ、なりゆきを見届けるために大祭司の中庭までついて行き火にあたっているペテロを見た大祭司の女中のひとりが、彼を見つめて「あなたもあのナザレ人イエスと一緒だった」と言ったとき、ペテロはそれを打ち消して、「わたしは知らない。あなたの言うことがなんの事か、わからない」と言って、庭口の方に出て行きました。
ところが、先の女中が彼を見て、そばに立っていた人々に、またもや「この人はあの仲間のひとりです」と言いだしたので ペテロは再びそれを打ち消し、さらに、しばらくして、そばに立っていた人たちがまたペテロに「確かにあなたは彼らの仲間だ。あなたもガリラヤ人だから」。と言うと、彼は、「あなたがたの話しているその人のことは何も知らない」と言い張って、激しく誓いはじめ、するとすぐ、にわとりが二度目に鳴いて。ペテロは、「にわとりが二度鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう」と言われたイエスの言葉を思い出し、そして思いかえして泣きつづけるという事件がありました。

イエスがその直前の夜、ゲッセマネの園で「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここにすわっていなさい」と言われて祈られているときも、ペテロは目をさましてイエスを待って祈ることが出来ず、「あなたがたはそんなに、ひと時もわたしと一緒に目をさましていることが、できなかったのか。誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい。心は熱しているが、肉体が弱いのである」と、イエスから言われています。

「たとい、みんなの者があなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と決意を述べても、肉の弱さのゆえに、いざというときイエスのことを知らないとイエスを否定したペテロに、復活のイエスは約束されたガリラヤで出会われ、このときもイエスを待ちきれずに漁に出てしまったペテロに、「ヨハネの子シモンよ、あなたはこれらを愛する以上に、わたしを愛するか」と問いかけられました。

イエスが言われた「これら」が、そこに居合わせた他の弟子たちなのか、漁に出ていた弟子たちがイエスの忠告に従って網をおろし、みことばに従って大漁となった網のなかに跳ねていた魚に象徴されるペテロの生き甲斐とした漁師という職業なのかは明らかではありません。        
しかし、イエスはイエスに従う人々にペテロに問いかけたと同じように、わたしたちにも「あなたはこれらを愛する以上に、わたしを愛ἀγαπάωするか」と問いかけられています。

自分の限界を知ったペテロは、イエスの問いかけに対して、以前のように「たとい、みんなの者があなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」とは答えず「主よ、そうです。わたしがあなたを愛φιλέωすることは、あなたがご存じです」と、控えめに答え、三度イエスを知らない、と言ったペテロにイエスは同じ問いかけを三度され、三度目は「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛φιλέωするか」と、ペテロが愛することのできる愛のレベルに合わせた問いかけをされました。
父なる神は、わたしたちが自分の愛の限界を知られたうえで、わたしたちが生ける神を愛し、イエスの霊に信頼して新しいいのちを歩むことを求めておられます。

                 


神がわたしたちに与えられる罪に勝利する力は、わたしたちが自分の熱意や努力によっては到底成し得ない限界を知り、イエス・キリストの十字架とともに古い自分を死んだものと見做し、新しい復活のイエスに頼ることによって与えられます。

使徒パウロはこのことについて、「わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。
もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる。」と述べています。

わたしたちが恵みによる新しいいのちに生きるということは、わたしたちの古い自分がキリストの十字架と共に死んでキリストの復活のいのちに生きることを意味しています。
わたしたちの古い自分がキリストの十字架と共に死んだことを信じるのなら、わたしたちは肉の思いに支配される古い自分ではなく、新しいキリストの霊によって生き、何が神の喜ばれる新しいいのちの歩みであるかを復活のキリストの霊が知らせてくださり、わたしたちが生ける神を愛し、神の国と神の義とを求め、自分を愛するように隣人を愛する者へと変えられるのです。
死んだ人の目の前にどんなに素晴らしく見える肉の誘惑となるものを見せたとしても、その人は誘惑に反応することはありません。
       
おなじように、わたしたちの古い自分がキリストと共に死んだのなら、わたしたちは肉の思いに支配されることはないのです。
実際にはわたしたちの肉体が十字架の上で死んでいないのに、古い自分をキリストの十字架と共に死んだものと見做すことは信仰によるのです。

わたしたちが、自分の不完全さ、自分の決意だけでは神の義を全うすることができないことを自覚し、キリストの十字架と共に古い自分が死んでいることを想い起こし、新しいいのちの選び取りをするとき、わたしたちの弱さを思いやってくださるキリストは、あわれみと恵みによって、わたしたちを引き上げてくださり、キリストにある新しいいのちを体験することができ、変えられてゆくのです。これは、わたしたちの内に住んでくださるキリストの霊、助け主である聖霊のはたらきによるのです。
この故にパウロは、この箇所でも「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。」と、宣言しています。

バプテスマを受けてキリストにつくものとされたわたしたちは、みな、キリストをその身に着ているのです。(ガラテヤ人への手紙3章27参照)

わたしたちが自分の熱意や自分の力で律法を行おうとするのではなく、わたしたち自身の限界を知りイエス・キリストの十字架とともに古い自分を死んだものと見做し、新しい復活のイエスの霊、聖霊の導きに従って人生を歩むとき、神は必ず罪に勝利する力をわたしたちにも与えてくださいます。



 

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