恵みと平安 

(ガラテヤ人への手紙1章3-5)


ガラテヤの人々に手紙を送るに当たり、パウロは彼らに恵みと平安があるように、と願っています。
ギリシア人にとって「恵みがあるように」という意味のχάρις khar'-eceという言葉は、人々が道で出会うときに用いられた大変美しい、挨拶の言葉でした。

人々が出会うときに交わす挨拶の言葉にはそれぞれの国や文化において、様々な表現があり、たとえば、日本語では「こんにちは」と言うように、イスラエルの人々は「平安があるように」という意味のשׁלם שׁלום shaw-lome', shaw-lome' という言葉が挨拶として使われています。

新約聖書のなかで、「恵みと平安」という表現による冒頭の挨拶は、十七回使われ、初期のクリスチャン達にとって、「恵み」と「平安」が如何に人生に希望を持って歩むうえで大切であったかがわかります。

パウロは、このギリシア語の「カリス」という挨拶の言葉とヘブル語の「シャロ-ム」という挨拶の言葉を両方併せて手紙の冒頭に挨拶として用いていますが、「カリス(恵み)とシャローム(平安)があるように。」というように、必ず「恵み」が最初で、その次に「平安」という順序で挨拶が述べられています。
使徒パウロは、テモテとテトスに宛てた手紙には、「恵み」と「平安」の間に、「あわれみ」という言葉を挿入していますが、「恵み」が最初で、その次に「平安」という順序は一度も変わっていません。

ご自身に似せてわたしたちを創造された神の恵みを知ることなく平安を得るということはあり得ないからです。

「恵み」は、わたしの側からはその恵みを受け取るに価せず、恵みを受け取るための努力や働きをしないにも拘わらず、一方的に与えられることが、本当の意味で「恵み」となります。
もし、「恵み」を受け取るために、わたしが価を支払ったり、働きの見返りとして恩恵を受け取るのならば、それは「恵み」恩恵ではなく報酬となります。

全能の創造者である神が、人をご自身のかたちに似せて創造され、人生に意味を与え、宇宙の壮大な計画のなかですべてを支配され、神が御子にあってわたしたちの罪の責めを十字架の上で受けられ、復活の初穂となってくださり、永遠のいのちを与え、栄光の復活のキリストの似姿に変えられるということは、一方的な神の恵みです。


神の恵みは、人が規則や戒律を守り、儀式を行うことによっては決して得ることができません。
すべてを創造された神を否定し、背こうとする人のために、わたしたちを創られた神がわたしたちと同じ姿になられ、わたしたちが永遠に生きるものとなるために、十字架の上で死なれなければならない理由や負い目は神の側には何一つありません。
一方的な神の恵みを人は受け取るに価しないにも拘わらず、人を創造された神は、神の愛を信じるすべての人がこの賜物を受け取ることを願われています。
パウロは、栄光の復活のイエスに会ったときから、人が神の前で義とされ、人が復活のキリストの似姿に変えられて栄光を受けることができるのは、この恵みを受け取り、神の恵みを信じ、その喜びと神の愛に応える信仰であると宣言しています。
神がわたしたちを一方的に愛しておられ、わたしたちのために滅びの裁きの責めの代価を支払ってくださり、わたしたちの努力や働きではなく、一方的に永遠のいのちを与えられたのだ、ということを、イエス・キリストの十字架と復活をとおして自分の体験として受け取るとき、わたしたちは、はじめて神の「恵み」を体験することができます。

わたしたちは進化したのではなく、もともとは神に似せて創造されました。
神は、神ご自身が意志を持たれ、選び取りによって愛し合い、信頼し合う関係を神の最高の被造物である人間とのあいだに持つことを望まれ、最高の環境のなかに人を置かれました。

しかし、このような素晴らしい条件のもとにも拘わらず、人は神の意志よりも神の意志に敵対するものの意志に従うことを選び取り、従うものとなりました。

わたしたちは、使徒パウロが「神を認めることを正しいとしなかったので、神は彼らを正しからぬ思いにわたし、なすべからざる事をなすに任せられた。すなわち、彼らは、あらゆる不義と悪と貪欲と悪意とにあふれ、ねたみと殺意と争いと詐欺と悪念とに満ち、また、ざん言する者、そしる者、神を憎む者、不遜な者、高慢な者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者となり、無知、不誠実、無情、無慈悲な者となっている。彼らは、こうした事を行う者どもが死に価するという神の定めをよく知りながら、自らそれを行うばかりではなく、それを行う者どもを是認さえしている。 」(ローマ人への手紙1章28-32)と述べているように、神を否定し、神に背き、わたしたちが勝手につくりあげたものを神として拝み、その罪のために死に定められ、永遠の滅びに向かうものとなった存在です。

わたしたちと、わたしたちを創造された神とのあいだには人の決意、努力、働きによっては越えることのできない深い溝ができてしまったのです。

わたしたちは、どんなに道徳的で善い人になろうと、たとえどのような宗教的な行いを積み重ねても、それだけでは創造の神が示されている完全な聖、善を全うする人に変わることは、不可能です。

このような、人間の置かれた状態にたいして、神は、神とわたしたち人間の間の埋めることの出来ない深い溝をイエス・キリストの十字架と復活によって埋めてくださり、神の意志に敵対し、背こうとする自分を悔い改め、生きた復活の主、イエス・キリストの新しいいのちに生きようとするすべての人々に永遠のいのちを保証してくださいました。

「 わたしたちがまだ弱かったころ、キリストは、時いたって、不信心な者たちのために死んで下さったのである。正しい人のために死ぬ者は、ほとんどいないであろう。善人のためには、進んで死ぬ者もあるいはいるであろう。しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。」(ローマ人への手紙5章6-8)  

わたしたちクリスチャンの永遠のいのちは、自身の努力や働き、律法や規則を守ったり、善い人になるということに依っているのではなく、神ご自身の恵みに依っているのです。


多くのクリスチャンが、たとえ、創造の神の存在を認め、神の律法を認め、イエス・キリストの十字架と復活を信じ、神との平和を得ていても、神の平安を得ることができないという状態にあります。

それは、折角「恵み」によって「神との平和」を与えられたあとで自分の努力や決心によって、道徳的であり、神の規律を守ろうとするからです。
しかし、わたしたちが、自分の努力や決心によってキリストの聖、完全さに近付こうとするとき、自身のうちには、神の律法を善であると認め、それを行おうとしても、自分の欲する事は行わず、かえって憎む事をしている自分に気付かされるというジレンマに陥り、惨めな自分に気付かされます。

このような状態は、キリストの十字架の贖いが自分のためであったことを認め、「神との平和」を得ていても永遠のいのちが本当に自分のものとなっているという確信が得られないために、「神の平安」を得ている状態にはありません。

このことについて、パウロは次のように述べています。「 わたしたちは、律法は霊的なものであると知っている。しかし、わたしは肉につける者であって、罪の下に売られているのである。
わたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである。もし、自分の欲しない事をしているとすれば、わたしは律法が良いものであることを承認していることになる。そこで、この事をしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。」(ローマ人への手紙7章14-18)

「わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。なぜなら、肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反するからである。こうして、二つのものは互に相さからい、その結果、あなたがたは自分でしようと思うことを、することができないようになる。もしあなたがたが御霊に導かれるなら、律法の下にはいない。」(ガラテヤ人への手紙5章16-18)

もし、わたしたちが自分自身の努力や働き、律法や規則を守ることや、特定の宗派のしきたりや、規則、宗教儀式を守ることによって永遠のいのちを得る、天国に行くことが保証されるというのなら、イエス・キリストが十字架の上で贖いの代価を支払われたということ自体が無駄なことであり、それは使徒パウロが述べているように、パウロがガラテヤの人々に最初伝えた福音とは別の福音を伝える、ということになります。

パウロは、神がわたしたちに与えられた一方的な「恵み」イエス・キリストの十字架と復活によって与えられている「恵み」を信じること以外のものに加えてわたしたちの努力やはたらきがなければ永遠のいのちは与えられないと教える人々に対して、「あなたがたがこんなにも早く、あなたがたをキリストの恵みの内へお招きになったかたから離れて、違った福音に落ちていくことが、わたしには不思議でならない。 それは福音というべきものではなく、ただ、ある種の人々があなたがたをかき乱し、キリストの福音を曲げようとしているだけのことである。しかし、たといわたしたちであろうと、天からの御使であろうと、わたしたちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その人はのろわるべきである。」(ガラテヤ人への手紙1章(6-8)と、述べています。

永遠のいのちがわたしたちに与えられるのは、わたしたちの努力や行いに依るのではなく復活の栄光のイエスに出会い、神の「恵み」によって、イエス・キリストの十字架の贖いによって創造の神を否定し、背くという人の本質的な罪が赦され、キリストを信じる人々にキリスト・イエスの御霊が与えられるていることに気付き、神がキリストをとおして示してくださった「恵み」に依るのです。

パウロは、このことについて、「今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。律法が肉により無力になっているためになし得なかった事を、神はなし遂げて下さった。すなわち、御子を、罪の肉の様で罪のためにつかわし、肉において罪を罰せられたのである。もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか。」(ローマ人への手紙8章1-3,31、32、参照)と、「恵み」によってわたしたちが得ることのできる状況を超えた神の「平安」をも得ることができるという歓喜に満ちた宣言をしています。

                                 


パウロは、わたしたちが、創造主である神からのこのような「恵み」と神の「平安」を得ることができるのは、キリストがわたしたちの父なる神の御旨に従い、わたしたちを今の悪の世から救い出そうとして、ご自身をわたしたちの罪のためにささげられたためだということを知って欲しいと述べています。

自然のままのわたしたちは、真理に従うことよりも、自分中心の欲求に従い、神の基準からは完全に堕落した状態にあります。
自然の人は人を創造された神よりも、人がつくり上げた神に心を寄せ、自分の心を偽り迷い出て道徳的であることや、宗教的になることで神の義からは程遠い人の善を行うことに心を向け、創造者である神を愛するよりも偶像に心を寄せ自分自身を欺いていることに気付いていません。

何故なら自然の人は、自分たちの堕落した状態にも拘らず自分たちの努力によって互いに愛し合うことが出来るという偽善に気付かないからです。

多くの人が他の人に比較して自分が律法を守ったり、道徳的であることで自分が神の前で義とされるような錯覚に陥っています。

それは罪の法則によって、わたしたちは罪の虜になっている存在だからだとパウロは述べています。

聖書は、どんなに人が宗教的であったとしても、それは唯一の生ける創造者である神を求めていない、人が宗教的に神を求めているように見えても、それは宗教的な冥想や行事をとおして自分の求めている自己中心な願いや、自分自身の心の静寂や平安を求めているのであって神の聖と義の基準を人の基準にまで引き下げているだけで神の聖、神の義に自分の力で辿り着くことはない、と宣言しています。

パウロは、創造の神がイエスをこの世に送られたのは、罪の虜となって滅びに向かっているこの世、人の心を支配している闇、人々が罪によって死に至るというサタンの縄目を打ち破り、神の国により多くの人々が招かれ、永遠のいのちを与えられるために、一方的な「恵み」によってイエス・キリストの十字架の贖いと復活を信じる人々に神への背きの罪の許しが与えられ、更にキリストを信じる人々にキリスト・イエスの御霊が与えられ、キリストの御霊によって「神の平安」が得られる、と述べています。

この神の「恵み」を受け入れ、キリスト・イエスの御霊の導きに従って「神の平安」のなかを歩み続けるとき、わたしたちも、悪魔の支配から神のもとに帰り、罪の許しを得、信仰によって聖別された人々に加えられ、永遠のいのちを得て神の国の民となるのです。

パウロは、そのことこそが神の恵みに満ちたわたしたちのための御計画だ、と宣言しています。

神の恵みに満ちた御計画を体験し、状況を超えた神の「平安」を得るとき神の国と神の義をわたしたは自身のものとすることができるのです。



 

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