わたしたちの求め、思うところの一切をはるかに越えてかなえられる神  

(エペソ人への手紙3章16-21)


慈しみと恵みに満ち、全知、全能の神は、人をご自身に似せて創造され、神と人とが完全な愛の信頼関係のなかで、すべての人々が想像を超えた栄光ある豊かさに満ちて、平安を得ることのできるための選びと祝福の契約をイエス・キリストをとおしてすべての人に与え、そのご計画を完成されます。

この箇所で、使徒パウロは福音を信じる人々に神がその栄光の富にしたがい、御霊により、力をもってわたしたちの内なる人を強めてくださり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、その広さ、長さ、高さ、深さを理解することができ、神に満ちているすべてのものをもってわたしたちが満たされるように。そしてわたしたちが求め思うところのいっさいをはるかに越えてかなえて下さることができるかたに栄光が世々かぎりなくあるように。と、祈っています。

このパウロの祈りは、わたしたち人間の知識、努力、決心だけでは到底不可能な二つのことについて、それを達成することができるかたに栄光を帰することを、神に願っている祈りです。

一つ目の祈りは、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができるように。
二つ目は、神に満ちているすべてのものをもってわたしたちが満たされるように。

という、二つとも不可能な願いを神に祈り求めています。
              
一体どのようにしたら、わたしたちは知ることのできないことを知ることができ、わたしたちが満たすことのできない神の広大にして、遠大な、果てしなく高く、果てしない深い愛に満たされることができるというのでしょうか。

パウロは、一見不可能に思える願いを一方で祈り、しかも一方で神がその祈りを、叶えて下さることができると宣言しています。

不可能に思えることを願い、祈りながら、その祈りが叶えられるという確信の鍵は、パウロがここで述べているように、信仰によってキリストがわたしたちの心のうちに住み、愛に根ざし愛を基として生活することにより、神の力がわたしたちのうちにはたらかれることによって可能となるというのです。


使徒パウロは、キリストの愛がわたしたちの知識をはるかに越えた愛だと宣言しています。そして、その人知をはるかに越えたキリストの愛をわたしたちが知ることができるように、と祈っています。

イエス・キリストが愛さない人はこの世に誰一人存在せず、その愛のゆえにすべての人のうちにある罪の性質、罪の贖いのために十字架に架かられ、復活によってこの神の恵みを信じる人々に新しいいのちを与えてくださったほど広い愛であり、イエス・キリストの慈しみと愛はいつまでも尽きることのない永遠に続く愛だと述べています。

キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。(ピリピ人への手紙2章6-8参照)

キリストは、はじめから神のみそばで神の栄光、神の権威と支配、神のかたち、永遠のいのちを持っておられました。それにも拘わらず、この世に人として来られ、生涯を父なる神に従順に歩まれました。

キリストの愛は、天空を超えた無限の神の御座の高みから、宇宙のなかでは米粒にも満たないこの地上に来られ、人と異ならない有り様でおのれを低くされ、しかも十字架の死によって黄泉の底まで下られました。これほどに神の愛は想像を超えた高さのある愛であり、底知れない深さの愛です。

使徒パウロは、キリストの愛を知って、その広さ、長さ、高さ、深さを理解することができるようにと言うとき、わたしたちが神のキリストにある愛の広さ、長さ、高さ、深さを体験する(ギリシア語の原語では、γινώσκω ギノスコghin-oce'-ko経験によって知るという言葉を使っている)ことが出来るように、と祈っています。

キリストの愛は、わたしたちの言葉や表現を超えているために、わたしたち自身がその愛の広さ、長さ、高さ、深さを体験することによってのみ知ることができる。というのです。

詩篇の著者は、「主の恵みふかきことを味わい知れ、主に寄り頼む人はさいわいである。」(詩篇34篇8) と述べて、神の愛、恵みは体験することによってより深く味わうことができることを詠っています。

神のイエス・キリストにある恵みと憐れみは、どのように表現し、描写しようとしても、それだけでは知ることのできない、果てしない広さ、長さ、高さ、深さのある愛です。

わたしたちが、神のイエス・キリストにある恵みと憐れみを体験することができるのは、創造の神と等しい神の御子イエス・キリストがわたしたちと同じように人としてこの世に来られ、十字架に架かられ、わたし自身のうちにある創造の神に背こうとする罪の性質、わたしにたいする罪の責めをイエス・キリストがわたしの身代わりとなって負ってくださり、復活によって永遠のいのちの生ける希望を与えてくださったことに気付き、自分の創造の神にたいする罪の深さを知って、自分の罪を悔い改め、キリストを人生の救い主と信じ受け入れ人生を歩み続けるとき、わたしたちの内におられる聖霊がはたらかれ、神のイエス・キリストにある恵みと憐れみを体験します。 

使徒パウロは、わたしたちは信仰によって、わたしたち自身のからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげるとき、創造の神の恵みを味わうという体験をし、その広さ、長さ、高さ、深さを知ることができる。と宣べています。(ローマ人への手紙12章1参照)


使徒パウロは、わたしたちが神に満ちているすべてのものをもって満たされることを祈っています。

わたしたちは、神の創造された被造物を見るときその壮大で繊細な御業に驚かされます。詩篇の作者も「わたしは、あなたの指のわざなる天を見、あなたが設けられた月と星とを見て思います。
人は何者なので、これをみ心にとめられるのですか、人の子は何者なので、これを顧みられるのですか。」(詩篇8篇3,4参照)と、このような思いについて述べています。
わたしたちが広大な宇宙、天体の星を眺めるとき、その広大な宇宙が「神の指のわざ」によって創られたと表現されているように、神に満ちている無限の創造、神の御手の業の広さ、長さ、高さ、深さをを想います。

イザヤもこのような神の壮大さについて、「だれが、たなごころをもって海をはかり、指を伸ばして天をはかり、地のちりを枡に盛り、てんびんをもって、もろもろの山をはかり、はかりをもって、もろもろの丘をはかったか。だれが、主の霊を導き、その相談役となって主を教えたか。
主はだれと相談して悟りを得たか。だれが主に公義の道を教え、知識を教え、悟りの道を示したか。
見よ、もろもろの国民は、おけの一しずくのように、はかりの上のちりのように思われる。見よ、主は島々を、ほこりのようにあげられる。」と述べ、さらに、「主は地球のはるか上に座して、地に住む者をいなごのように見られる。主は天を幕のようにひろげ、これを住むべき天幕のように張り、
また、もろもろの君を無きものとせられ、地のつかさたちを、むなしくされる。」(イザヤ書40章12-15、22、23参照)と述べて創造の神に満ちているすべてがいかに壮大で人知を遥かに超えたものなのかを詠っています。

イスラエル統一王国の最も繁栄を誇ったときの王ソロモンは、父ダビデの王位を継いで、主の名のために神殿を建て、これを聖別して主にささげようとし、壮大な神殿建設をし、これを完成しましたが、このときもソロモンは無限の主なる神を意識して、「神は、はたして人と共に地上に住まわれるでしょうか。見よ、天も、いと高き天もあなたをいれることはできません。わたしの建てたこの家などなおさらです。」と述べています。

創造の神、父なる神に満ちているすべてにわたしたちが満たされることが不可能に思われるにも拘わらず、使徒パウロは、福音を受け入れイエスをキリストと信じる人々に、 「 あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい。」(第一コリント人への手紙6章19、20)と述べて、内に宿る聖霊に自分の思いを明け渡すとき、神が「わたしたちのうちに働く力によって、わたしたちが求めまた思うところのいっさいを、はるかに越えてかなえて下さることができる」という確信によってこの祈りを祈っています。


わたしたちは、人生の歩みのなかでしばしば自分の目の前の状況、問題に捉われ、それぞれの困難を自分の能力に頼って解決しようと試み、直面する問題や困難に圧倒され、「どこにも解決の糸口を見出せない、この状況を乗り越えることなど不可能だ。」と、状況に押し潰され、絶望に気が遠くなる思いに駆られます。

通常、問題や困難に直面するとき、その問題を解決する難易度は、問題解決をする主体の能力によって決められます。

問題や困難を解決しなければならない主体がわたしたち自身である場合には不可能な事柄であっても、問題解決をする主体が無から有を生み出し、すべてを創られ、人を神のかたちに似せて完全な創造をされた全能の神であれば、どのような問題や困難も解決不可能ということはあり得ません。

イエスが「人にはそれはできないが、神にはなんでもできない事はない」。(マタイ福音書19章26)と宣言され、主なる神が 「見よ、わたしは主である、すべて命ある者の神である。わたしにできない事があろうか。」(エレミア書32章27)と宣言されている ように、人にはできない問題や困難も神にはどのような問題も困難も解決をすることがおできになります。

信仰の歩みは、神にあって常に希望を持つことができる歩みです。わたしたちが、みことばを土台にして心をつくして主に信頼するとき、神はわたしたちのできないことを成し遂げてくださいます。

「心をつくして主に信頼せよ、自分の知識に頼ってはならない。
全ての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」(箴言3章5.6参照) 
 
神が共に居られ、働かれるのなら困難や不可能ということはあり得ないのです。わたしたちの人生にとって大切な秘訣は、人生における様々な状況や予期しない変化をわたしたちの能力や可能性に焦点を当てて歩むのではなく、神の能力に光を当てて歩むことです。 わたしたちが成し遂げることができるのではなく、キリストを信じわたしたちの内に住んでくださる聖霊の導き、創造の神の力に頼って、生ける神がわたしの人生のすべてを恵みに満ちた御計画のなかで成し遂げてくださることに信頼をおくことです。
神はわたしたちの思いや能力を超えて、みことばによって約束されていることをわたしたちに必ず成し遂げてくださいます。

人は、必要に迫られるとき、神がご自身の栄光の富の中から、わたしたちのいっさいの必要を、キリスト・イエスにあって満たして下さるという神の約束(ピリピ人への手紙4章19参照)に信頼するより、自分の肉の思いや自分の方法で当たりくじに当たるようにおみくじや宝くじを買ったりして、神が自分たちの考える方法で問題を解決し、願いをかなえられるように祈ります。

人は、神が約束されても、全く自分の思惑とは異なって状況が進展しないとき、しばしば神の約束を疑い、神が約束を成就されるための方法を勝手に自分たちで考え、自分たちの肉の思いで神の約束を成し遂げようとし、より問題をこじらせ長引かせます。


神は、その約束されたことをわたしたちがどのように不可能と思えるときにも、不信仰のゆえに疑うことなく信仰が強められるとき、必ず約束された事柄を人の思いを超えた方法で成就されます。 

聖書には、神の偉大な力、無限の能力に信頼し自分自身の能力を遥かに超えた神の業、奇跡を体験した人々の歴史的な物語に満ちています。

ヘブル人への手紙のなかには、このような信仰によって歩んだ多くの人々が述べられています。

神は約束によって跡継ぎとなる子供が授けられたアブラハムに、この約束の子イサクが三十歳に近くなった頃再びあらわれ、「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」と言われて、アブラハムを試練に会わせられました。

この神の言葉は、長いあいだ待って、自分のからだが百歳になって不能となり、胎が不妊であった九十歳の妻サラとの間に与えられた約束の子、自分のたった独りの跡継ぎを神に捧げなければならないという、アブラハムにとって絶望的なものであったに違いありません。

聖書のこの箇所の記述を読むとき、アブラハムは、「翌朝早く、ろばに鞍をつけ、ふたりの若い者と息子イサクとをいっしょに連れて行った。彼は全焼のいけにえのためのたきぎを割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ出かけて行った。」 と記述されています。ヘブル語の原語では、このときのアブラハムの行動が、躊躇のない連続的な接続詞によって表現されていることからも、逡巡のない神の言葉に全面的に従った行動だったことがわかります。

アブラハムにとって、神から授かった愛しい独り子を全焼のささげものとして捧げることは、神の言葉とはいえ、愛しい独り子を死なせるという悲痛な思いのなかでの行動であったことは間違いありません。それにも拘わらず、どうして神の言葉にためらうことなく従うことができたのでしょうか。

ヘブル人への手紙には、「神はアブラハムに対して、『イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる。』と言われたのですが、彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です。」(ヘブル書11章18-19)と、このときのことが解説されています。

アブラハムはモリヤの丘に、独り子のイサクを全焼のいけにえとしてささげるために行くことを承知していましたが、たとえ、イサクが死んでも、神が死者のなかから独り子を取り戻してくださることができると考えたのです。そのために、「私と子どもとは、あそこに行き、礼拝をして、あなたがたのところに戻って来る。」と言ったのでした。

神が告げられた場所に着き、アブラハムはその所に祭壇を築き、たきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置いたときも、アブラハムは、イサクが全焼のいけにえとして捧げられるのではなく、「神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださる。」と言って、必要であればイサクが全焼のいけにえとして捧げられても、イサクをよみがえされる力をお持ちになっておられると信じ、神の約束を疑いませんでした。

アブラハムが全焼のいけにえとして、祭壇の上のたきぎの上にイサクを置いたとき、イサクは死を覚悟し父の計画、父の意志に従いました。しかし、神は全焼の羊を代わりに備えてくださいました。

この約二千年後、同じモリヤの丘で、父なる神のご計画、御心に従って神の子羊となられたイエスは、わたしたちの罪の犠牲となり、父なる神ご自身が振り上げた刀を下され、わたしたちのために全焼のいけにえとして、十字架の上で、神ご自身が備えられた罪のささげものとして、血を流され犠牲の子羊となってくださいました。不可能にも思われる神の言葉に従って死者の中からイサクを取り戻したアブラハムの信仰は、人類を救うキリストの十字架と復活を実際にあらわす型となりました。

ヘブル人への手紙のなかには、このアブラハムのほかにも神の偉大な力、無限の能力に信頼し自分自身の能力を遥かに超えた神の業、奇跡を信仰によって体験したシャデラク、ミシャク、アデネデゴの三人、さらにライオンのすみかに投げ入れられたダニエルの名前も挙げられています。

彼らは、バビロニア帝国に君臨するネブカデネザルがイスラエルのユダ王国を滅ぼしたとき、捕囚としたユダ王国の王侯貴族の子弟のなかから姿、かたちの美しく優れたものを自分に仕えさせるために選りすぐったヘブル人の青年でした。

彼らは、ネブカデネザル王が巨大な金の像を建てて、角笛、横笛、琴、三角琴、立琴、風笛などの、もろもろの楽器の音とともに諸国の人々にこの像を拝ませようとしたとき、この像を拝むことを拒み、王の怒りによって灼熱の火の燃える炉の中に縛られて投げ込まれました。しかしこの三人は、火のなかに投げ込まれたとき、炉のなかで共におられた神の子のような方と歩み、火は彼らの身にはなんの力もなく、その頭の毛は焼けず、その外套はそこなわれず、火のにおいもこれに付かずに灼熱の火の燃える炉のなかから引き出されました。(ダニエル書三章参照) 

神は灼熱の火が燃える炉からも、ライオンのすみかからも命を落とすことなく、わたしたちを引き出すことがお出来になります。

わたしたちの人生の歩みにも灼熱の火が燃える炉に投げ込まれるような試練に出会うことがあるかも知れません。あるいは、債権者に負われてライオンのすみかに投げ込まれるような、どこにも逃げ場のない事態に追い込まれる体験をすることがあります。  しかし、そのような絶対絶命に思える状況にわたしたちが追い込まれるときにも、神の偉大な力、無限の能力に信頼するとき全能の神はイエス・キリストにある絶大な神の力によってわたしたちが求め、また思うところのいっさいを、はるかに越えて問題解決の道を備えて下さることがおできになります。                    

ヘブル人の手紙の著者は、復活をされ天に昇られたイエスがいつも生きていて信じる人々のためにとりなしておられるので、イエスによって神に来る人々を、いつも救うことができる。と宣言しています。 

イエスは信じる人々を守ってつまずかない者とし、また、その栄光のまえに傷なき者として、喜びのうちに立たせて下さいます。
キリスト・イエスを信じ、主として人生を歩むとき、神はそのような人々のうちにはたらかれ、神ご自身の力によってわたしたちが求めまた思うところのいっさいを、はるかに越えて約束をかなえて下さいます。


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