神の作品  

(エペソ人への手紙2章10)


すべての人が生まれたときの状態から肉体的、精神的に成長し、この世の知識を増し加えたとしても、そのままの状態であれば、その人は大人になっても「生まれながらの人」であり、この世のならわしに従い、空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩き、肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行い、本質的に神に背き、人を創造された神の完全な規準からは堕落した存在だと聖書は述べています。

人は、もともと霊と意識を持った魂と物質的肉体を持つ三次元的な存在として創造されました。
人は本来霊的存在です。
人は父なる神と子と聖霊の一体である唯一の神に出会い、神との交わりをもつことができる存在として創造され、素晴らしい環境に置かれました。
しかし人は、創造された神のことばに信頼し従うか、あるいは誘惑者のことばに従うか、という選択に迫られたとき「善悪の知識の木からは取って食べてはならない」という神のことばに背き、知識によって自分が神のようになろうという罪を犯し、誘惑者に従い、それに隷属するものとなり、そのときから神との交りが断たれ人の霊は死んだ状態となり肉体の死が訪れました。 

従って、人はそのままではどんなに頑張っても、神との交わりを回復し、神の前に義とされて立つことができなくなりました。もともと神は、神との交わりを持ち、永遠に生きる存在として人を創造されたのに、人は自らの選び取りによって神との交わりを断ち、死に直面せざるを得ない存在となったのです。

旧約の預言者エレミアは、「エチオピヤびとはその皮膚を変えることができようか。ひょうはその斑点を変えることができようか。もしそれができるならば、悪に慣れたあなたがたも、善を行うことができる。」(エレミア書13章3)と、人が生まれながらに持っている罪の性質を自分の意志や決心によって聖なる創造主である神の要求する義の基準に達する善を行うことができるのなら、エチオピア人が自分が努力して皮膚の色を変えることができたり、ひょうがその斑点を勝手に変えることができるであろうと述べています。

使徒ペテロも、たとえ人が悪の道に染まってそこから一旦逃れたとしても、そのような悪の性質がその人自身の内にあるために、「犬は自分の吐いた物に帰り、豚は洗われても、また、どろの中にころがって行く」という諺が言っているように、愚かな者は再び同じような過ちを繰り返すのだと述べています。

生まれながらの人が姦淫や不品行、殺人や、盗み、偽りや貪欲といった罪を犯すのは、もともと人が罪の性質を持っているために、そのような罪を犯すのです。
従って罪の性質を持つ人が、決心や更生を誓うことだけでは、誘惑に会うとき再び同じような罪に陥るように、人は自分の力だけで罪の性質を変えることはできません。

わたしたちは、肉体をもってこの世で生きる限り誰ひとりとして誘惑から逃れることはできません。
目に見える美しいものに惹かれ、肉体に快感を与えると思われるものを求め、他と比べて自分自身を誇りたいと思う思いに捉われます。

さらに、イエスが何度も指摘されたように、自分の力で道徳や戒めを守っていると思っている人の場合でも、その人の心に潜む自分が他と比べてより道徳的であることを誇り、自分が義であることを誇る偽善的な思いが潜み、犯罪に至るような姦淫や不品行、殺人、盗み、偽りや貪欲の罪を犯していないと思っていても、それは純粋で聖なる神の義の基準からはほど程遠く、より根深い罪なのだということに気付かず、自分自身と神の真理を欺いています。
  
すべての人が神に背く罪の性質をもってこの世に生まれ、誘惑に出会うとき、程度の差は人によって異なっていてもその誘惑に惹かれ、欺かれ、束縛され、そのために様々な問題を引き起こします。

創造の神は、人の中から出てくる汚れ、心に思い図る悪い思い、あらゆる偽善、自分自身の心を欺き、他と自分を比較して自分の正しさに固執しようとするあらゆる思いと行い、創造の神でない偶像を自分の神とし、真理を阻もうとするあらゆる人間の思いと行いに対して当然の帰結として、過去も現在も未来も変わることなく有罪の判決を下されています。

使徒パウロは手紙の箇所でも「さてあなたがたは、先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者であって、かつてはそれらの中で、この世のならわしに従い、空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていたのである。また、わたしたちもみな、かつては彼らの中にいて、肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行い、ほかの人々と同じく、生れながらの怒りの子であった。」(エペソ人への手紙2章1-3)と、述べています。


イエスにある喜びと平安と愛に満ちた質の高いいのちを認め、イスラエル議会を代表する議員として律法にも精通し、律法を行う正しい人であったニコデモが、ある夜イエスを訪ね、どのようにすればイエスが持っておられる質の高いいのち、永遠のいのちが得られるのかという疑問を投げかけたとき、イエスは、「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」。と宣言されました。

イエスが宣言されたのは、人が生まれながらに持っている肉のうちにある罪の性質、わたしたちを支配していた肉の欲望の虜から、キリストの死と復活とともにわたしたちが罪の内在する古い自分を死んだものと見做し、新しい人とされなければならない。ということでした。

創造の神は、罪の性質のない神と等しい御子を、この世に送られ、わたしたちの罪を帳消しにするためにその罪の責めの身代わりとして十字架の上で御子を裁かれ、復活によってわたしたちが永遠に生きる希望を現実のものとしてくださいました。
わたしたちが肉のうちにある罪の性質から解放され、創造の神との交わりを持つためにはこの神の愛を信じる信仰によって新しく生まれること以外に方法がありません。

罪の赦しと永遠の滅びからの救いは、神からの一方的な人類に与えられている愛の贈り物であり、「恵み」です。
わたしたちが「恵み」を受け取るために、価を支払ったり、働きの見返りとして恩恵を受け取るのならば、それは「恵み」恩恵ではなく報酬となります。

わたしたちは、死と罪の裁き永遠の滅びからの救いという神の「恵み」を受け取るためにどんなに高価な価を支払っても報酬として受け取ることはできず、ただ信じて受け取ることしかできません。

「罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。」(ローマ人への手紙6章23)
 
使徒ペテロも、「 あなたがたのよく知っているとおり、あなたがたが先祖伝来の空疎な生活からあがない出されたのは、銀や金のような朽ちる物によったのではなく、きずも、しみもない小羊のようなキリストの尊い血によったのである。 キリストは、天地が造られる前から、あらかじめ知られていたのであるが、この終りの時に至って、あなたがたのために現れたのである。」(第一ペテロの手紙1章18-20)と述べて、わたしたちが死と滅びから救われたのは、神の一方的な恵みの贈り物であり、キリストの尊い血による贖いは、どんなに銀や金を積んでも到底価を支払うことができない賜物だということを宣言しています。

この故に使徒パウロは、「あなたがたの救われたのは実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。」決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。」と宣言しています。


多くの人々が、永遠の滅びや地獄などは存在しない。人は善行を積み、この世で成功者となることによって天国に行ける。と信じています。しかし、わたしたちが天国、創造の神の御座のある永遠の神の国に行けるのは神の一方的な恵みを信じ、イエス・キリストを主として新しいいのちに造り変えられることであってわたしたちの善行やこの世の成功の報いによって行けるのではありません。

イスラエルの王となったダビデは「わたしに賜わったもろもろの恵みについて、どうして主に報いることができようか。」(詩篇116篇12)と詠んで、神から受けた恵みについて、それを受け取るということ以外には自分が成し得ることは何もない。ということを宣言し、神から受けた恵みについて「わたしは救の杯をあげて、主のみ名を呼ぶ。」(詩篇116篇13)と、感謝を述べています。

人は自分で自分のいのちを贖うことはできません。

わたしたちが贖われ、永遠のいのちを得るものとされるためには、わたしたちを贖われた方を知り、その方に信頼し、神の恵みを信じて人生を歩む以外に道はないのです。 

詩篇の作者は「 まことに人はだれも自分をあがなうことはできない。そのいのちの価を神に払うことはできない。とこしえに生きながらえて、墓を見ないためにそのいのちをあがなうには、あまりに価高くて、それを満足に払うことができないからである。」(詩篇49編6-9)と詠んで、人はどんなに富を積んでもいのちを贖い、永遠のいのちを得ることができないことを告白しています。

使徒パウロは、わたしたちが救われ、永遠の滅びから永遠のいのちを得るものとされるのは、あわれみに富む神の恵みによるのだと述べ、その大きな愛のゆえに死んでいたわたしたちをキリスト・イエスにあって、共によみがえらせてくださり、そのことを信じる信仰を与えられ、神の喜ばれる愛の人へと変えられる力をもわたしたちに与えてくださったからであって、わたしたちの善い行いや努力によって滅びから救われるのでは決してないことを宣言しています。

そのゆえに使徒パウロは、「 決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。」と、宣言し、「万物は、神からいで、神によって成り、神に帰するのである。栄光がとこしえに神にあるように、アァメン。」という感嘆と賛美の声をあげています。
 


神は、わたしたち一人一人の人生にはたらかれ、望んでおられる作品の完成の姿がどのようなものなのか決めておられ、わたしたちに現在起っているすべてのことは、そのための経過であり準備です。

神の選びがわたしたちの生まれる以前にされ、神がわたしたちに計画されている作品の完成の姿が人の思い描く姿や自分が欲する目標や考える公平とは異なっていると言って神の聖、裁き、御計画に異を唱え自分の欲する生き方を主張しようとする人々に、使徒パウロは、陶器師と陶器の譬えを用いて「ああ人よ。あなたは、神に言い逆らうとは、いったい、何者なのか。造られたものが造った者に向かって、『なぜ、わたしをこのように造ったのか』と言うことがあろうか。陶器を造る者は、同じ土くれから、一つを尊い器に、他を卑しい器に造りあげる権能がないのであろうか。もし、神が怒りをあらわし、かつ、ご自身の力を知らせようと思われつつも、滅びることになっている怒りの器を、大いなる寛容をもって忍ばれたとすれば、 かつ、栄光にあずからせるために、あらかじめ用意されたあわれみの器にご自身の栄光の富を知らせようとされたとすれば、どうであろうか。」(ローマ人への手紙9章20-23)と、神によって造られた人が、人を造った神に異を唱えることのバカバカしさについて述べています。

この陶器師と陶器の譬えは、北イスラエルがアッシリア帝国によって滅ぼされた後、紀元前7世紀頃にイスラエル、ユダの民が創造の神から離れ、偶像の神へ心を向け、その結果、自分たちに滅亡を招くことを警告した預言者イザヤやエレミアがおなじように譬えをもって引用しており、現実にイザヤやエレミアの警告を聞き入れなかったユダ王国は、バビロニア帝国によって滅亡し、民が捕囚となるという歴史を辿りました。

神が御計画され、完成されようとする意図に人が抵抗し続けるとき、人は滅びに向かわざるを得ません。

「主は仰せられる、イスラエルの家よ、この陶器師がしたように、わたしもあなたがたにできないのだろうか。イスラエルの家よ、陶器師の手に粘土があるように、あなたがたはわたしの手のうちにある。」(エレミア書18章6)

「 陶器が陶器師と争うように、おのれを造った者と争う者はわざわいだ。粘土は陶器師にむかって/『あなたは何を造るか』と言い、あるいは『あなたの造った物には手がない』/と言うだろうか。」
(イザヤ書45章9)


創造の神のキリスト・イエスにある御計画とその業の素晴らしさについて使徒パウロは、続いて「わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである。」と、わたしたちがキリスト・イエスによって救われ、新しいいのちに生まれ、神の喜ばれる人へと変えられてゆくのも、芸術家が素材を用いて素晴らしい作品を完成させてゆくように、わたしたち自身が神の作品なのだ。と述べています。

使徒パウロが「わたしたちは、神の作品」というとき、この「作品」ということばの原語には、ポイマποιημα. poy'-ay-mahという言葉が使われていますが、これは英語のポエムPoem詩という言葉の語源となっています。 

神はわたしたちを機械的に造り変えられるのではなく、芸術家が詩を創作し作品を仕上げてゆくときに思い描いた情景や感情を美しい言葉として表現してゆくように、わたしたちが神の作品としてより価値のある完成品となるために働いてくださいます。
そして、わたしたち一人一人がこの世で辿る経過からわたしたちを神の作品として完成するためにどのような準備をするべきかご存知です。

神は、わたしたちにはたらきかけて神の作品としてわたしたちをより神の栄光をあらわす器として用いようとされ、その栄光の姿をはじめから御計画され知っておられます。

使徒パウロは、神がわたしたちを神の作品の完成の姿をどのように御計画されているのかについて、 「 みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、」(エペソ人への手紙1章4)と、述べています。

神は、わたしたちが永遠のいのちにあって神の国で、より豊かに栄光を享受するために必要な姿を御計画され、その完成の姿をキリストの似姿に造り変えられるためにわたしたちの人生に働かれておられるのです。

使徒パウロは、ピリピ人へ宛てた手紙のなかで自分が神の御計画されている完成の姿に未だいたっていない、目標とするイエスの似姿となってはいない、ということについて、「 わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。」(ピリピ人への手紙3章12-14) と、述べています。

わたしたちも、この世で自分が神の御計画されているキリストの似姿へと変えられる目標には到達し得ないことを知っています。

しかし 使徒パウロがこの箇所で宣言しているように、わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られ、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのです。

主なる神は、どんな時でもわたしたちの人生に働いておられ、わたしたちにとってほとんどの場合、神のわたしたちへのはたらきかけが意味のない辛い経験のように思える場合でも、それがキリストの似姿へとわたしたちが変えられ、神の国でわたしたちが栄光の喜びを得るという最終目標を達成するための必要な過程をご存知です。

わたしたちの人生の歩みのなかで自分を取り巻く状況が悪化の一途を辿っているように思え、どんなに神に祈っても神は祈りを聞かれず、絶望的に思える試練が誰にでも訪れます。

詩篇の作者もこのような心境について、「主よ、わたしの祈りをお聞きください。わたしの叫びをみ前に至らせてください。わたしの悩みの日にみ顔を隠すことなく、あなたの耳をわたしに傾け、わが呼ばわる日に、すみやかにお答えください。 わたしの日は煙のように消え、わたしの骨は炉のように燃えるからです」(詩篇102篇1-3参照)と、詠んでいます。

人生のパズルが組み合わされてゆくとき、創造の神がどのような素晴らしい完成の姿を描いておられるのか当座は理解できず、痛みや困難に思える状況を通して、わたしたちにはそれだけを見ても全く意味を持っていないと思え、一つづつの断片の組み合わせに抵抗をしようとします。

しかし、わたしたちが恵みによって新しくされることを知り、神の御手に信頼し、わたしたちが創造の父である神が御子イエスの贖いと復活によって新しい人とされたという恵みを信じ、古い自分を明け渡し、わたしたちの内に住んでくださる聖霊の導きに人生を委ね続けるとき、神の御計画されている完成の姿へと変えられてゆきます。そして、わたしたちがその完成の姿へとおぼろげに近づいてゆくにつれて、より一層、神の御手の素晴らしさ、栄光の神の作品に変えられることが確実であることに気付き、希望を持つことができます。  

使徒パウロが述べているように、わたしたち自身にはすべてが見えなくとも、わたしたちのうちに良いわざを始められた神は、神の作品としてわたしたちをキリスト・イエスの日までに栄光のキリストの似姿へと完成して下さることは、確実な約束です。

                


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