主なる神を知る  

(エペソ人への手紙1章16-19)


使徒パウロはエペソの人々に、彼らが、知恵と啓示との霊を賜わって神を認め、心の目を明らかにされることができるように、と祈っています。

人々は、誰でも自分の願望や目標が達成されることを祈ります。

しかし、多くの場合、人はあらゆる自分の感情によって時には無意識のうちに自分の人生が支配されていると思われる自然、人、物を神々としています。
風、雷、樹木、山、水、太陽等のおよそ人の力の及ばないすべての自然が畏怖の対象となり、それらを象徴するものすべてを人の人生に重ね合わせて多くの神々につくりあげ、「人間が神になれる」という思想によって、それが、例えば菅原道真」の「天神様」とか、秀吉の「豊国大明神」、家康の「日光大権現」をはじめ、明治時代にも乃木大将の「乃木神社」、東郷元帥の「東郷神社」などになり、また人々は死んだ祖先を拝んだり、その霊に祈ったりしています。

人々にとって自分の願望や目標となる様々な人やものは、その人にとって偶像の神々となります。  
人々の熱狂の対象となるような人のことを、スター、アイドル、教祖とよび、彼らは偶像になぞらえられるのです。

聖書は、人つくり上げた神々は偶像であって、人創造された生きた唯一の神が存在し、この唯一の神によって人と天地のすべてが創造され、真実の神の見えない性質、すなわち、永遠の力と神聖については、被造物をとおして明らかに知らされていると宣言しています。

宇宙、地球、地上の生命、人体の構造、様々な動植物の生命体、空気、海洋や水の循環、大陸、気候の変化など、宇宙や地球の自然、それらのどれを観察しても、その精巧で繊細に秩序立てられたデザインを見ることができます。
精巧で繊細なデザインをもって組み立てられ、創られている被造物を見て、それが偶然によって進化したのだということを主張するのは、丁度砂浜のなかから精巧な腕時計を見つけ、その腕時計が長い時間の間に砂鉄から進化したのだと主張するのと同様に馬鹿げています。

宇宙や地球の自然、生命体を観察し、それらすべての法則を見出すことはできません。しかし、客観的な観察や検証によって得られる法則やそこから導き出される途方もない複雑で精巧な構造を認め、それらが産み出される最も最初の原因、起源を説明しようとするとき、わたしたちは、それらをデザインされ、秩序と法則をあたえられた時空を超えたデザイナーの存在を認めざるを得ません。

被造物の繊細で緻密なデザインを観察し、それを創造された最初の原因である創造者の存在を信じることは、被造物の繊細で緻密なデザインが思いがけない偶発的な結果で出来上がったということを信じることよりもずっと論理的であり、知的にも納得のゆくことです。

すべてを創造された「神の存在」を信じることは、創造者である「神の存在など無くすべてが偶然だ」ということを信じることに比べずっと容易なことです。


多くの人々が宇宙、地球や自然、生命体の最初の起原は偶然ではなく、それらを可能にするデザインと意図的なデザインをされた第一原因が存在することを認めても、科学的な観察によって広大で無限の存在である創造の神についての法則性や秩序をすべて見出したり、そのような存在を人が知ることは不可能だと主張しています。

旧約聖書のなかには、紀元前二千年頃7人の息子と3人の娘たち、家族に恵まれ、非常に多くのしもべを持ち、東の人々の中で一番の富豪として神から祝福され、潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていたにも拘わらず、一瞬のうちに、すべてを奪われ、さらに足の裏から頭の頂まで、悪性の腫物で打たれ、土器のかけらを取って自分の身をかき、また灰の中にすわるという、これ以上の惨めな状態はないという状態に陥ったヨブという人物が登場します。
彼を慰めに来た筈の友人は、ヨブのことを慰める代わりに、悲惨な状態に人が陥るのは、罪の結果であって、暗にヨブには隠れた罪があり、それを告白していないために悲惨な状態になったのだとか、もし、本当にヨブが神にたいして潔白であるのならば、それを神に訴え、全能の神の憐れみを請うのなら神はそれを聞いてくださる筈ではないか。と、ヨブに迫りました。
潔白を主張するヨブは、「神と人との双方に手を伸ばすことのできる仲保者が存在されなければ、人が直接神に訴えることはできない。」、という悲痛な叫びをあげましたが、、もう一人の友人ナアマ人ツォファルは、「 あなたは神の深さを見抜くことができようか。全能者の極限を見つけることができようか。それは天よりも高い。あなたに何ができよう。それはよみよりも深い。あなたが何を知りえよう。」(ヨブ記11章7-8)
と、もし人が自分の知識や知恵に頼って天地と人を創造された神を知ろうとしても、それは不可能で所詮むなしい徒労に終わるだけではないか。だから、ヨブが神に潔白を訴えるということは無駄な努力なのだ。ということを述べています。

科学的な観察によって広大で無限の存在である創造の神についての法則性や秩序を見出すことはできません。
しかし、このヨブの友人ツォファルのように、人の知恵や知識、科学、によって創造の神を知ることが不可能だからといって、創造の神を知ることが出来ないと結論付けることは誤っています。

旧約の預言者エレミアは、「主はこう言われる、『知恵ある人はその知恵を誇ってはならない。力ある人はその力を誇ってはならない。富める者はその富を誇ってはならない。
誇る者はこれを誇とせよ。すなわち、さとくあって、わたしを知っていること、わたしが主であって、地に、いつくしみと公平と正義を行っている者であることを知ることがそれである。わたしはこれらの事を喜ぶと、主は言われる』」。(エレミア記9章23-24)と述べて、創造の神、主なる神を知ることは、生きる上で何よりも大切であることを述べています。

イエスは、この世で十字架に架かられる直前にされた祈りのなかで、「永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります。」(ヨハネ福音書17章8)と祈られ、イエスに従う弟子たちのために「 正しい父よ、この世はあなたを知っていません。しかし、わたしはあなたを知り、また彼らも、あなたがわたしをおつかわしになったことを知っています。」(ヨハネ福音書17章25)と祈られています。

創造の神をわたしたちが知ることは可能です。


使徒パウロは、「神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、彼らには弁解の余地がない。
なぜなら、彼らは神を知っていながら、神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからである。彼らは自ら知者と称しながら、愚かになり、不朽の神の栄光を変えて、朽ちる人間や鳥や獣や這うものの像に似せたのである。」(ローマ人への手紙1章20-23)と述べていますが、創造の神を知ろうとしないことは罪であり、創造の神への反逆です。

完全に聖で義である神は、義をもってこの世界をさばくためその日を定め、お選びになった御子によってそれをなし遂げようとされ、御子イエスを歴史のなかでこの世に送られ、人の罪の贖いのための、なだめの供えものの子羊として十字架に架けられ、死人の中からよみがえらせ、その確証をすべての人に歴史的事実として示されました。  
 
イエスは、御自身を通して人々に唯一の神を示され、神と人との双方に手を伸ばすことのできる仲保者としてこの世に来てくださいました。 

ヘブル人への手紙の著者は、イエスがどのような方なのかについて、「神は、むかしは、預言者たちにより、いろいろな時に、いろいろな方法で、先祖たちに語られたが、この終りの時には、御子によって、わたしたちに語られたのである。神は御子を万物の相続者と定め、また、御子によって、もろもろの世界を造られた。
御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿であって、その力ある言葉をもって万物を保っておられる。そして罪のきよめのわざをなし終えてから、いと高き所にいます大能者の右に、座につかれたのである。」(ヘブル人への手紙1章1-3)と述べています。

ヨハネの福音書を記したヨハネは、「神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである。」(ヨハネ福音書1章18)と述べ、イエスご自身も「 わたしと父とは一つである」。(ヨハネ福音書10章30)と言われて創造の父なる神と御子イエスが一つの方だということを宣言しています。

イエスの弟子の一人ピリポが「栄光の神の姿を肉体をとって人の目で見ることのできるように見せてください。そうすれば、わたしたちは満足できます。」と言ったとき、イエスは、、「ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのである。どうして、わたしたちに父を示してほしいと、言うのか。わたしが父におり、父がわたしにおられることをあなたは信じないのか。わたしがあなたがたに話している言葉は、自分から話しているのではない。父がわたしのうちにおられて、みわざをなさっているのである。わたしが父におり、父がわたしにおられることを信じなさい。もしそれが信じられないならば、わざそのものによって信じなさい。」と答えられて、「ピリポ、わたしを見ているあなたは、天の父である神を見ているということなのだ。」(ヨハネ福音書14章9参照)という劇的な宣言をされています。

わたしたちは、この世にこられたイエスを知るとき、天地とその中にあるすべてを創造され、わたしたち人をご自身に似せて創られた神を知り、その方がどのような方なのかを知ることが出来るのです。

イエスと共に時を過ごした弟子たちは、イエスが罪にたいする正しい裁き、慈しみと恵みに満ちた赦し、忍耐と寛容に富んだ方であることを目の当たりにし、悪霊に憑かれた人から汚れた霊を追い出し、らい病人をきよめ、病の人々を癒し、群衆の空腹を満たし、嵐を鎮められ るという数々の奇跡によって絶望の淵に追いやられた人々が救われるのを見てきました。、
そして、それらの奇跡によって単に病が癒されたり、不思議な業がなされたということだけではなく、人生をイエスに信頼して生きるときそれらの人々の人生は永遠の希望に満ちたものへ変えられました。

イエスを見るとき、わたしたちは天地創造の神が慈しみと憐れみに富み、忍耐と寛容に富んだ方であり、限りない善と真理の方、罪にたいする正しい裁きをされ、わたしたちの背きによって絶望の淵に立たされた人々を救い、罪を贖いたいと願われている方だということを知ることができます。

神は、わたしたちが滅びることなく永遠のいのちを得ることを願われています。

イエスは、わたしたちがイエスを知って永遠のいのちを得るという喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至り、わたしたちを創造主である父なる神との意味のある愛の関係のなかに招いておられるのです。

永遠に生きておられる唯一の神は人を創造され、ひとりの人から、あらゆる民族を造り出され、この世界とその中にある万物とを造られた天地の主です。
この永遠に生きておられる唯一の方は、父と子と聖霊という三つの人格をもった一つの神としてご自身をわたしたち人類に示され、表わされています。

 


使徒パウロは、この世で目に見えるもの、聞くもの、人々の心に浮かぶことによつて、神の知恵を知ろうとしても、それは不可能であり、神の知恵を知ることができるのは聖霊のはたらきであり、人の知恵ではないと宣言しています。

このような隠された奥義としての神の知恵は、神が、わたしたちの受ける栄光のために、世の始まらぬ先から、あらかじめ定めておかれたものであり、この世の支配者たちのうちで、この知恵を知っていた者は、ひとりもいなかった。もし知っていたなら、栄光の主を十字架につけはしなかったであろう。と述べて、「聖書に書いてあるとおり、『目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮びもしなかったことを、神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた』のである。そして、それを神は、御霊によってわたしたちに啓示して下さったのである。御霊はすべてのものをきわめ、神の深みまでもきわめるのだからである。」(第一コリント人への手紙2章7-10)と説明しています。

神は、聖霊によって隠された奥義としての神の知恵をわたしたちに啓示してくださいます。

聖霊は人格を持たれ、父なる生ける神、人となってこの世に来られた子なるイエス・キリストと本質的に全く同じ人格を持たれ永遠にして、神聖、全知、全能の偏在され、わたしたちと“ともに”おられる方です。

聖霊は、風が思いのままに吹き、あなたがその音を聞いても、それがどこからきて、どこへ行くかは知らないとおなじように、わたしたちの心の扉を外から叩き、わたしたちに罪を悟らせ、イエスキリストが罪の贖いをされ、義と裁きを完成されたことを示してくださいます。
聖霊がわたしたちの心の扉をやさしく叩いてくださるとき、心の扉を内側から開けて、わたしたちが罪人であることを告白し、イエスをわたしたちの救い、贖いを完成してくださった主であることを受け入れ、神が死人のなかからイエスをよみがえらせたと信じるとき、わたしたちの“うちに”住んでくださり、心の目を明らかにしてくださいます。

創造の神を認め、知恵と啓示の霊を賜って神を知ることが出来るのは、イエスをわたしたちの救い、贖いを完成してくださった主であることを受け入れ、わたしたちの“うちに”住んでくださる聖霊によって、わたしたちの心の目が明らかにされるときに可能なのです。
 
聖霊の働きによってわたしたちは創造の父なる神を知り、イエスがわたしたちの神に対する背き、わたしたちの罪の贖いを完成してくださったことを知り、わたしたちの人生の重要な事柄を決められ、方向を示してくださることを体験します。
聖霊は神の深みを知っておられ、わたしたちに神が御子を賜るほどにわたしたちを愛され、永遠の滅びから救われたことを教えられるからです。

使徒パウロは、わたしたちが神を知り、心の目を明らかにされ、肉の思いをイエスに明け渡し、御言葉の素晴らしさ、神の愛、恵みの豊かさを知り、神の栄光を見、絶大な神の力がはたらかれることを知るに至るように祈っています。

天と地とそのなかにあるすべてを創造され、ご自身に似せて人を創造された唯一の生ける神をわたした
ちが知ることは可能です。

わたしたちが心の目を明らかにされるとき、イエス・キリストにある永遠のいのちと栄光に満ちた神の
国の素晴らしい確実な希望と神の愛を体験的に知って、尽きることのない父なる神との愛の交わりを持つことが出来るのです。

使徒パウロは、「罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし――あなたがたの救われたのは、恵みによるのである―― キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのである。 それは、キリスト・イエスにあってわたしたちに賜わった慈愛による神の恵みの絶大な富を、きたるべき世々に示すためであった。」(エペソ人への手紙2章5-7)と述べて、わたしたちが、心の目を明らかにされ、知恵と啓示との霊を与えられ、神を知るとき、新しいいのちに生まれ、永遠に創造の神との交わりを持つ者へと変えられ、わたしたちがこの世の歩みのなかでどんなに悲惨で悲しみのどん底に見える状況を体験するときでも自分の力ではなく聖霊に満たされ、神の絶大な力によって支えられ、イエスに信頼する人々の悲しみが喜びに変えられ、永遠のいのちをもって栄光の神の国に現実に住まうことを確実に知るに至る、と宣言しています。 

わたしたちが本当に創造の栄光の唯一の神を知っているのかどうかを吟味し、永遠のいのちに至る選び取りをすることほど人生で大切なことはありません。

                


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