七つのラッパの裁き-堕ちたサタン

(黙示録9章の講解)

最後の7つめの封印が解かれると、7つのラッパの裁きが繰り広げられてゆきます。7つ目のラッパが吹き鳴らされると、さらに7つの鉢の神の怒りが地上に下されてゆきます。この7つのラッパと7つの鉢の裁きは7つ目の封印が解かれたときに起こる裁きのなかにふくまれています。

黙示 9:1 第五の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、私は一つの星が天から地上に落ちるのを見た。その星には底知れぬ穴を開くかぎが与えられた。

Πεπτωκοτα pip'-to to descend from a higher place to a lower V-RAP-ASM (RMAC) Tense: peRfect Voice: Active Mood: Participle Case: Accusative Number: Singular Gender: Masculine

第五の御使いがラッパを吹き鳴らすと、ヨハネは一つの星が天から地上に落ちるのを見ました。一つの星が天から地上に落ちるという箇所の落ちるという言葉は、ギリシャ語ではこれから起こることが過去に完了していることをあらわす動詞が使われています。このことは、そのことがもう起こってしまったかのように確実に将来起こることをあらわしています。

この星は誰のことを指しているのでしょうか。それは、まぎれもなく御使いのうちでも美の極み、完全に創られたものの代表である黎明の子、明けの明星とよばれ自分自身がいと高き神のようになろうとして、その驕りのゆえに天の御座近くから完全に堕ちるサタンのことを指しています。 
美の極みとして神の御座近くに仕える最も位の高い天使であったサタンが神の御座近くから堕ちたものとなったのは、神を賛美するものから自分自身を誇り、高ぶりによって被造物である自分自身が創造者である神にとって替わろうとしたからでした。                

神は自分自身を誇り高ぶり、神に向けられるべき賞賛と賛美を自分自身に向けようとするものを嫌われます。                     

サタンは天から堕ちるとき、すべての天使たちの三分の一を自分に従う者として引きつれ、これらの天使が悪霊となりました。

この悪霊たちのことはユダ書に「自分の領域を守らず、自分のおるべき所を捨てた御使いたちを、大いなる日のさばきのために、永遠の束縛をもって、暗やみの下に閉じ込められました。 」(6節)と、言及されています。
この最も悪質な悪霊たちが閉じ込められている場所が、この箇所に述べられている地獄の底知れぬ穴なのです。

黙示 9:2 その星が、底知れぬ穴を開くと、穴から大きな炉の煙のような煙が立ち上り、太陽も空も、この穴の煙によって暗くなった。

天から落ちてくるサタンは、底しれない地獄の穴を開くと、そこに監禁されていた最も悪質な悪霊が一度に解き放たれ、穴から大きな炉の煙のような煙が立ち上り、太陽も空も、この穴の煙によって暗くなった、というのです。

悪霊などが存在する訳はないと嘲笑う人々が存在します。しかし、人々が失望のどん底に陥ったり、互いに憎しみ会ったりすることの背後にはあきらかに悪霊の働きがあります。

使徒パウロも、「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。 」(エペソ人への手紙6章11-12)と述べています。

黙示 9:3 その煙の中から、いなごが地上に出て来た。彼らには、地のさそりの持つような力が与えられた。
黙示 9:4 そして彼らは、地の草やすべての青草や、すべての木には害を加えないで、ただ、額に神の印を押されていない人間にだけ害を加えるように言い渡された。

火山が噴火するときに立ち上るような煙によって太陽が暗くなり、地上がその煙のために汚れてしまう状態になるのだと思います。そして、その煙のなかから出てくるいなごは、地のさそりのような力があって神の印を額に押されていない人々に害を加えます。

旧約聖書、ヨエル書の預言では、いなごが悪霊を意味していますが、このようないなごの大群の攻撃によって後の日に神がイスラエルに神の霊を注がれ、イスラエルが世界に神の栄光を証する器とされてゆくという神の素晴らしい約束が成就されてゆくことが描かれています。     

ここで、神の印を額に押されている人々とは七章で見た十四万四千人のイスラエルの選ばれた人々です。この人々はいなごの攻撃から守られます。   

イスラエルの民がエジプトで奴隷の状態にあったとき、モーセがエジプトの王パロに民の解放を迫りましたが、パロは、「主とはいったい何者か。わたしがその声に聞き従ってイスラエルを去らせなければならないのか。わたしは主を知らない。またイスラエルを去らせはしない」と、神を拒否し、モーセのことばを受け入れませんでした。
このとき、神はいなごの災害をエジプト全土にもたらされ、あらゆる草木が食い尽くされ家畜が死んでゆく災害に見舞われました。しかし、イスラエルの民はこのときにもいなごの災害から守られたことを思い起こしてください。(出エジプト記10章5-20参照)

この黙示録における終わりの日のいなごの害は、地の草やすべての青草や、すべての木には害が加えられないで、ただ、額に神の印を押されていない人間にだけ害が加えられるというのです。

黙示 9:5 しかし、人間を殺すことは許されず、ただ五か月の間苦しめることだけが許された。その与えた苦痛は、さそりが人を刺したときのような苦痛であった。
黙示 9:6 その期間には、人々は死を求めるが、どうしても見いだせず、死を願うが、死が彼らから逃げて行くのである。

このさそりのような痛みと毒をもったいなごの災害は、人々に想像を絶する苦痛をもたらします。その苦痛は、さそりに人が刺されたときのような激痛と毒が身体中にまわりその様な状態で、人々は五ヶ月のあいだ、死にたいと願うが死が彼らから逃げてゆくというのです。

聖書には罪ののろいが死であることが宣言されていますが、死について、聖書には死があたかも人格を持つもののように述べられている箇所があります。
「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」 (第一コリントの手紙15章55)
「死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。 それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。」(黙示録20章13-14)

わたしたちの肉体がぼろぼろになっても、肉体的な苦痛だけが持続し、死ぬことができないことを考えてみてみてください。わたしたちは、自分の身体、肉体は自分のものだという錯覚をしています。しかし、わたしという存在、わたしという肉体のデザインは創造者である神によって創られ、実は、神ご自身が御子の代価を払って買い取られているものです。(第一コリントの手紙6章20)

わたしたちを創造された神はわたしたちの肉体の滅び以上にわたしたちの永遠のいのちに関心を持っておられます。
わたしたちの魂を愛され、独り子イエスをこの世に送られ、わたしたち一人一人の罪の代価の犠牲を惜しまれない神は、わたしたちの肉体の滅びと死を望む肉体的な苦痛を許されてまでも、人々がイエスを救いとして受け入れ、イエスキリストにある永遠のいのちを得るものとなることを望まれています。

黙示 9:7 そのいなごの形は、出陣の用意の整った馬に似ていた。頭に金の冠のようなものを着け、顔は人間の顔のようであった。
黙示 9:8 また女の髪のような毛があり、歯は、ししの歯のようであった。
黙示 9:9 また、鉄の胸当てのような胸当てを着け、その翼の音は、多くの馬に引かれた戦車が、戦いに馳せつけるときの響きのようであった。
黙示 9:10 そのうえ彼らは、さそりのような尾と針とを持っており、尾には、五か月間人間に害を加える力があった。
黙示 9:11 彼らは、底知れぬ所の御使いを王にいただいている。彼の名はヘブル語でアバドンといい、ギリシヤ語でアポリュオンという。

ここには、奇怪で怖ろしい悪霊の正体が描写されています。しかし、このように奇怪で怖ろしい、敵のいなごの侵攻にあってもヨエル書の預言は、神の素晴らしい約束を告げています。

「いなご、ばった、食い荒らすいなご、かみつくいなご、わたしがあなたがたの間に送った大軍勢が、食い尽くした年々を、わたしはあなたがたに償おう。
あなたがたは飽きるほど食べて満足し、あなたがたに不思議なことをしてくださったあなたがたの神、主の名をほめたたえよう。わたしの民は永遠に恥を見ることはない。」(ヨエル書2章25-26)

どのような場合でも、わたしたちが神の御ことばに従い、その中に鳴らされている警告のラッパに聞き、悔い改めて心から神を探し求めるのなら、主は失われたものを償ってくださいます。

アバドンとかアポリオンというのは滅ぼすものという意味です。サタンは、わたしたちの人生の大事な部分をいなごが食い尽くすように滅ぼし、最も性質の悪い悪霊たちの上に君臨しています。

黙示 9:12 第一のわざわいは過ぎ去った。見よ。この後なお二つのわざわいが来る。
黙示 9:13 第六の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、私は神の御前にある金の祭壇の四隅から出る声を聞いた。
黙示 9:14 その声がラッパを持っている第六の御使いに言った。「大川ユーフラテスのほとりにつながれている四人の御使いを解き放せ。」
黙示 9:15 すると、定められた時、日、月、年のために用意されていた四人の御使いが、人類の三分の一を殺すために解き放された。                  

第六の御使いがラッパを吹き鳴らすと、神の御前にある金の祭壇の四つの角から出てくる声を聞きました。その声が第六の御使いに「大川ユーフラテスのほとりにつながれている四人の御使いを解き放せ。」と呼びかけるのをヨハネは聞きました。                  

ユーフラテ川は、ノアのときに世界を滅ぼす大洪水の後でノアの家族が最初に住み着いた地域を流れる川であり、人類が同じ言語を話し、古代に最初の文明が発祥した地域でした。
さらに、洪水の前には最初の人が置かれた園の境界となっていた川とされています。(創世記2章14参照)

ユーフラテ川の流域は、最初に人々が住んでいた地域であり、最初の文明が発祥し、人々が自分たちの努力や善行によって神に近づこうとする宗教の発祥した地でした。
人々は天の星を仰いで、占星術や悪魔的なオカルトを発展させたところでした。
この川のほとりには、四人の恐るべき天から堕ちた天使たちが地上に災いをもたらせないように繋がれているというのです。
神は、この第六のラッパの裁きのときに、御使いに彼らを解き放たれるように命じられます。

携挙後の世界の人口を六十億人とした場合、六十億人の四分の一、十五億の人口が第二の封印から第四の封印の解かれるまでに滅びるとすれば四十五億の人口が残り、この人口の三分の一、世界の総人口は、この時点までに十五億にまで減少します。

「全地はこうなる。・・主の御告げ。・・その三分の二は断たれ、死に絶え、三分の一がそこに残る。わたしは、その三分の一を火の中に入れ、銀を練るように彼らを練り、金をためすように彼らをためす。彼らはわたしの名を呼び、わたしは彼らに答える。わたしは『これはわたしの民。』と言い、彼らは『主は私の神。』と言う。」

黙示 9:16 騎兵の軍勢の数は二億であった。私はその数を聞いた。
黙示 9:17 私が幻の中で見た馬とそれに乗る人たちの様子はこうであった。騎兵は、火のような赤、くすぶった青、燃える硫黄の色の胸当てを着けており、馬の頭は、ししの頭のようで、口からは火と煙と硫黄とが出ていた。
黙示 9:18 これらの三つの災害、すなわち、彼らの口から出ている火と煙と硫黄とのために、人類の三分の一は殺された。
黙示 9:19 馬の力はその口とその尾とにあって、その尾は蛇のようであり、それに頭があって、その頭で害を加えるのである。

ここで二億の大軍団について述べられていますが、ヨハネがこの黙示録を記した頃、一世紀の後期、世界の総人口は約二億5千万人と推計されていますからその当時には不可能な数の軍団であったことであったことがわかります。

世界の総人口は1860年になってやっと十億に達し、1930年になって二十億、1962年には三十億、1977年に四十億、1985年に五十億、2000年に六十億、2010年には七十億となっていることが記録されています。1965年に中国が二億を超える陸軍を擁していることをタイム誌が報じました。

この二億の大軍団は、現代の放火器やタンク、ガスや細菌を使った化学兵器、ミサイル発射塔を搭載した武装陸戦部隊や核を搭載した特別軍用ヘリコプターを描写したのだという解説もありますが、四人の繋がれた御使いが解き放たれることによって出現する悪魔的な軍団であると思われます。

第六の御使いのラッパが鳴った後で、死にたいとねがっても5ヶ月の間、死が逃げてゆくような恐ろしい苦しみが人類を襲い、その後で悪魔的な二億の軍団によって残った人々の三分の一が滅ぼされるというのですから、凄まじい患難に人類が見舞われることは間違いありません。しかし、このような罪の結果からくる苦しみと裁きの中にあって生き残った人々はどのような反応をするのでしょうか。

黙示 9:20 これらの災害によって殺されずに残った人々は、その手のわざを悔い改めないで、悪霊どもや、金、銀、銅、石、木で造られた、見ることも聞くことも歩くこともできない偶像を拝み続け、
黙示 9:21 その殺人や、魔術や、不品行や、盗みを悔い改めなかった。

残った人々は、その手のわざを悔い改めないで偶像を拝みつづけ、殺人や魔術、不品行や盗みを悔い改めないというのです。

偶像については、聖書の様々な箇所で述べられています。

「 異邦の民の偶像は、銀や金で、人の手のわざです。
口があっても語れず、目があっても見えません。
耳があっても聞こえず、また、その口には息がありません。
これを造る者もこれに信頼する者もみな、これと同じです。」(詩篇135篇15-18)

「あなたがたは、神をだれになぞらえ、神をどんな似姿に似せようとするのか。鋳物師は偶像を鋳て造り、金細工人はそれに金をかぶせ、銀の鎖を作る。」(イザヤ書40章18-19)

「偶像を造る者はみな、むなしい。彼らの慕うものは何の役にも立たない。彼らの仕えるものは、見ることもできず、知ることもできない。彼らはただ恥を見るだけだ。
だれが、いったい、何の役にも立たない神を造り、偶像を鋳たのだろうか。
見よ。その信徒たちはみな、恥を見る。それを細工した者が人間にすぎないからだ。彼らはみな集まり、立つがよい。彼らはおののいて共に恥を見る。
鉄で細工する者はなたを使い、炭火の上で細工し、金槌でこれを形造り、力ある腕でそれを造る。彼も腹がすくと力がなくなり、水を飲まないと疲れてしまう。
木で細工する者は、測りなわで測り、朱で輪郭をとり、かんなで削り、コンパスで線を引き、人の形に造り、人間の美しい姿に仕上げて、神殿に安置する。
彼は杉の木を切り、あるいはうばめがしや樫の木を選んで、林の木の中で自分のために育てる。また、月桂樹を植えると、大雨が育てる。
それは人間のたきぎになり、人はそのいくらかを取って暖まり、また、これを燃やしてパンを焼く。また、これで神を造って拝み、それを偶像に仕立てて、これにひれ伏す。
その半分は火に燃やし、その半分で肉を食べ、あぶり肉をあぶって満腹する。また、暖まって、『ああ、暖まった。熱くなった。』と言う。
その残りで神を造り、自分の偶像とし、それにひれ伏して拝み、それに祈って『私を救ってください。あなたは私の神だから。』と言う。
彼らは知りもせず、悟りもしない。彼らの目は固くふさがって見ることもできず、彼らの心もふさがって悟ることもできない。
彼らは考えてもみず、知識も英知もないので、『私は、その半分を火に燃やし、その炭火でパンを焼き、肉をあぶって食べた。その残りで忌みきらうべき物を造り、木の切れ端の前にひれ伏すのだろうか。』とさえ言わない。
灰にあこがれる者の心は欺かれ、惑わされて、自分を救い出すことができず、『私の右の手には偽りがないのだろうか。』とさえ言わない。」 (イザヤ書44章9-20)

偶像を礼拝することは、結局はサタンに支配されているということを意味します。
人はその拝むものに似たものとなります。サタンを拝むものはサタンに似たものへと変えられます。
真実の生きた神、イエスを否定しつづけるとき、人は神に敵対するサタンの支配にとどまりサタンを拝むものとなり、サタンに似たものへとかえられます。

生ける真実な神に心をかたくなにし、自分が犯す罪は自分だけの問題であって家族や周りの人々には関係がないと言い続け、イエスを否定してい人々を見ると、
「 悪者と、よこしまな者の腕を折り、その悪を捜し求めて一つも残らぬようにしてください。」(詩篇10章15)
という思いに駆られ、不正にたいする神の裁きを期待します。

しかし、主は人を悔い改めに導くのは裁きではなく愛なのだといわれ、この世の裁きのときの熟した時代においても罪人が悔い改めて差し伸べられた神の救いの御手を一人でも多くの人が受け取ることを望まれています。
「それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。」(ロマ書2章4)



 
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