御怒りの日に救われる人々

(黙示録7章の講解)

7章は第6の封印が解かれた後で、第7の封印が解かれる前に起こる挿入部分、十四万四千人の人々について述べられています。
6章で見たように、6つ目の封印が解かれてゆくと、聖書が述べている「主の日」が、本格的に到来します。
「主の日」について旧約聖書の預言は様々な箇所で述べています。
「まことに、万軍の主の日は、すべておごり高ぶる者、すべて誇る者に襲いかかり、これを低くする。主が立ち上がり、地をおののかせるとき、人々は主の恐るべき御顔を避け、ご威光の輝きを避けて、岩のほら穴や、土の穴にはいる。主が立ち上がり、地をおののかせるとき、人々は主の恐るべき御顔を避け、ご威光の輝きを避けて、岩の割れ目、巌の裂け目にはいる。」(イザヤ書2章12、19、21)

「 泣きわめけ。主の日は近い。全能者から破壊が来る。見よ。主の日が来る。残酷な日だ。憤りと燃える怒りをもって、地を荒れすたらせ、罪人たちをそこから根絶やしにする。」(イザヤ書13章6,9)

「その日は、万軍の神、主の日、仇に復讐する復讐の日。剣は食らって飽き、彼らの血に酔う。北の地、ユーフラテス川のほとりでは、万軍の神、主に、いけにえがささげられる。」(エレミア書46章10) 

「ああ、その日よ。主の日は近い。全能者からの破壊のように、その日が来る。」(ヨエル書1章15)
「主は、ご自身の軍勢の先頭に立って声をあげられる。その隊の数は非常に多く、主の命令を行なう者は力強い。主の日は偉大で、非常に恐ろしい。だれがこの日に耐えられよう。 
主の大いなる恐るべき日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。」(ヨエル書2章11,31)

「ああ。主の日を待ち望む者。主の日はあなたがたにとっていったい何になる。それはやみであって、光ではない。」(アモス書5章18)

「主の大いなる日は近い。それは近く、非常に早く来る。聞け。主の日を。勇士も激しく叫ぶ。
その日は激しい怒りの日、苦難と苦悩の日、荒廃と滅亡の日、やみと暗黒の日、雲と暗やみの日、」(ゼパニア書1章14-15)
「見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。」(マラキ書4章5) 
 
「主の日」が創造主である神の怒りの時、定められた裁きの時、神の報復の時であることがわかります。

人類の歴史にこのような「主の日」が設けられているのは、全能の神の恵み、慈しみ、イエスの十字架の罪の赦しを拒否する人々を揺り動かし、主に背く人々にたいする裁きの時であると同時に、神の選びの契約が変わることがないものであることを人々に気付かせ、その後に地上に千年の神の国を来たらせるためです。

人類にとって、その日の到来すること、そして、その日は近いということが再三にわたって警告され預言されてきました。(エゼキエル30:3、ヨエル2:1,3:14、オバデヤ15章、ゼファニア1:7、ゼカリア14:1、)
この時は、患難の7年の時代の後半の三年半の時代、大患難とよばれる時代、イエス・キリストが地上に再臨され千年の期間にわたるこの地上に御国が来たらされる直前の三年半の期間に該当します。
この時は、使徒パウロも述べているように、神の御怒りの時(ロマ2:5)であり、想像を絶する神の裁きが地上にもたらされます。
しかし、このような中にあっても、神の恵み、真実、希望をみることができます。6章17節で「神の御怒りの大いなる日が来たのだ。だれがそれに耐えられよう。」と人々が言っていますが、7章には、神の御怒りに耐える二つのグループの人々について述べられています。  

黙示 7:1 この後、私は見た。四人の御使いが地の四隅に立って、地の四方の風を堅く押え、地にも海にもどんな木にも、吹きつけないようにしていた。
黙示 7:2 また私は見た。もうひとりの御使いが、生ける神の印を持って、日の出るほうから上って来た。彼は、地をも海をもそこなう権威を与えられた四人の御使いたちに、大声で叫んで言った。
黙示 7:3 「私たちが神のしもべたちの額に印を押してしまうまで、地にも海にも木にも害を与えてはいけない。」

ヨハネが見た四人の御使いは風を引き止めていました。
全く風のない、風が止まった状態になれば地上が汚染され、特に人口の集中する都市部はダイオキシンなどで空気がひどい汚染されるでしょう。
神の本格的な怒り、裁きの始まる前に地上は凪(なぎ)のような状態になるというのです。

ここで、ある人々は聖書のある箇所だけを取り上げてその表現が科学的ではないという批判をします。
「地球の四すみ」という表現も、ヨハネが地球が平らであるという当時の人々の思考方法に影響されて、このような表現をしているという勝手な解釈をします。
聖書にはこの使徒ヨハネよりずっと以前にイザヤやヨブが、地球が円形をし、宇宙の大気に浮かんでいることを述べています。(イザヤ書四十章22、ヨブ記26章10)
ここで述べられている表現は、たとえば米国海兵隊が地球の四すみに睨みをきかせている、というように、東西南北のすべての方向にということを比喩的な象徴として使われている表現だということがわかります。

四人の御使いは、五人目の御使いが、生ける神の印をその僕たちに押してしまう間、神の裁きが地上に下るのを引き止めていました。

印を押すということは、その印を押されたものが、印を押したものの所有となることを示しています。
エゼキエル書には、背信のイスラエルにたいする神の裁きが行われる様子が述べられています。
このなかでイスラエルとユダの人々の背信と暴虐を嘆き、悲しむ人々が御使いによって印を押され、御使いから印を押されなかった残りの老若男女がすべて打ち殺されてゆくことが記録されています。(エゼキエル書9書5-8)

ここで、神の裁きのなかで御使いから印を受けた一部の人々が神の所有として滅びから免がれたことが記録されています。

神の裁き、本格的な怒りのときは神の宮からはじめられますが、そのとき神はイスラエルの民の中から神に信頼する人々を選ばれ印を押され、これらの印を押された人々は患難の時代を地上に神の国が到来するまで生き延びます。

黙示 7:4 それから私が、印を押された人々の数を聞くと、イスラエルの子孫のあらゆる部族の者が印を押されていて、十四万四千人であった。
黙示 7:5 ユダの部族で印を押された者が一万二千人、ルベンの部族で一万二千人、ガドの部族で一万二千人、
黙示 7:6 アセルの部族で一万二千人、ナフタリの部族で一万二千人、マナセの部族で一万二千人、
黙示 7:7 シメオンの部族で一万二千人、レビの部族で一万二千人、イッサカルの部族で一万二千人、
黙示 7:8 ゼブルンの部族で一万二千人、ヨセフの部族で一万二千人、ベニヤミンの部族で一万二千人、印を押された者がいた。

いろいろなグループの人々が、患難の時代を生き延び、神の国が到来するときまで残ることのできる選ばれたグループであることを主張します。
たとえば、エホバの証人(ものみの塔)や、モルモン教の人々はその代表的な宗教集団です。
エホバの証人のグループは自分たちこそが選ばれた人々であり、自分たちのグループがエホバを証しする唯一の道であり、グループに属する人々が十四万四千四百人に達すると天国に引き上げられると主張しました。彼らは、1933年に登録会員の人数が十四万四千四百人に達しても昇天が起こらなかったために、その教義を大幅に変更しましたが、今も自分たちだけが神に選ばれるグループだという主張を変えていません。
エホバの証人やモルモンの人達の他にもセブンスデー・アドベンティストやチャーチ・オブ・クライストの人達も自分たちが選ばれた十四万四千四百人のグループであることを主張しています。
このように、キリスト教の伝統的教義から外れ、自分たちの集団独自の異端的理解によって勝手に聖書を理解し、宗教的集団を形成しているグループはカルトと呼ばれています。
何故このように多くの人々が神の裁きと怒りのとき、患難の時代を過ごす十四万四千四百人のグループであることを主張するのでしょうか。それは、聖書の言葉を文字通り信頼せず、霊的比喩によって勝手な理解をし、自分たちの都合のよいように解釈し、聖書のイスラエルにたいする神の約束と預言を受け入れないことが主な理由です。
多くのキリスト教神学者たちも、宗教カルト集団も、歴史的に民族として、あるいは国家としてのイスラエルを聖書における終末論の対象から外して、主観的な神学教義を立てようとしてきました。
このような立場に立つ神学論は、置換神学と呼ばれ、神のイスラエルにたいする約束、旧約聖書におけるイスラエルに関する預言は、イスラエルの民、国家がイエスキリストを否定し、ローマ帝国によって滅ぼされたため、キリストの教会が代わってその約束と預言を与えられるに至ったと理解しています。
さらにこのような立場の神学論は、旧約聖書と新約聖書を別々な神の契約であると解釈しようとします。
このような神学理解の芽は、初代教会の教父たちオリーゲンやアウグスチヌスの聖書のことばを霊的比喩として理解し、イスラエルを霊的イスラエルである教会と捉える理解にも影響されています。
聖書のすべての、御言葉が文字通り信頼するに足ることを前提に解釈することがいかに大切であるかが、この箇所を理解するときにもはっきりしています。
御使いによって神から印を押されるイスラエルの子らは文字通りイスラエルの民であって、霊的なイスラエルの民ではありません。

黙示 7:9 その後、私は見た。見よ。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。
黙示Rev 7:10 彼らは、大声で叫んで言った。「救いは、御座にある私たちの神にあり、小羊にある。」
黙示 7:11 御使いたちはみな、御座と長老たちと四つの生き物との回りに立っていたが、彼らも御座の前にひれ伏し、神を拝して、
黙示 7:12 言った。「アーメン。賛美と栄光と知恵と感謝と誉れと力と勢いが、永遠に私たちの神にあるように。アーメン。」

その後ヨハネは、あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立って「救いは、御座にある私たちの神にあり、小羊にある。」と叫んでいるのを見ます。
この数え切れないほどの群衆によって、天上では御使いと長老たちが神を賛美し、栄光、知恵、感謝、誉れ、力、勢いをほめたたえ礼拝するというのです。

黙示 7:13 長老のひとりが私に話しかけて、「白い衣を着ているこの人たちは、いったいだれですか。どこから来たのですか。」と言った。
黙示 7:14 そこで、私は、「主よ。あなたこそ、ご存じです。」と言った。すると、彼は私にこう言った。「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。
黙示 7:15 だから彼らは神の御座の前にいて、聖所で昼も夜も、神に仕えているのです。そして、御座に着いておられる方も、彼らの上に幕屋を張られるのです。
黙示 7:16 彼らはもはや、飢えることもなく、渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も彼らを打つことはありません。
黙示 7:17 なぜなら、御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです。」

この群衆は、どのような人々なのでしょうか。
この人々は、患難の時代に飢餓や渇きや炎暑といった困難だけでなく、反キリストを拒んで筆舌に尽くし難い経験をし、殉教する人々です。

ヨハネは六章で、子羊によって第五の封印が解かれたときに自分たちが立てたあかしとのため殺され祭壇の下で「聖なる、真実な主よ。いつまでさばきを行なわず、地に住む者に私たちの血の復讐をなさらないのですか。」と叫んでいた魂を見ましたが、それらの人々の数が満ちて彼らが天上の場面にあらわれるのを見たのです。 

ヨハネは、天上の御座のまえで長老のひとりが、「白い衣を着ているこの人たちは、いったいだれですか。どこから来たのですか。」と、問いかけたときこの天上の群衆が誰であるかを認識することができませんでした。
もし、この群衆が天に引き上げられた教会であれば、ヨハネは容易に彼らのことを認識できた筈です。何故なら、ヨハネはエペソの教会を牧す、教会の長老であり、黙示録2章から3章にかけて描かれている教会についても熟知していた筈だからです。

彼らは患難の時代になってからイエスが救い主であることを信じ、そのために飢餓や渇きや炎暑といった筆舌に尽くし難い経験をし、反キリスト、獣の刻印を受けることを拒んで、ものを売ることも買うこともできずに殉教する人々です。

御座の正面におられる小羊がこの群衆の牧者となられ、彼らをいのちの水の泉に導かれます。

彼らはもはや、飢えることもなく、渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も彼らを打つことはありません。
神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです。
彼らは天上の場面に登場しますが、キリストの花嫁である教会とは同じ場所を与えられていません。
この人々は、神の御座の前で昼も夜も仕えています。



 
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