患難の始まり-七つの封印の裁き

(黙示録6章の講解)

5章では、ヨハネが天の栄光の神の御座の前で、地球の所有権を証明する権利書、内側にも外側にも文字が書きしるされ、七つの封印で封じられた巻き物をイエスが手に取られ、24人の長老たちと幾万、幾千の何倍もの圧倒的な聖徒たち御使いの賛美の声をあげている幻を見ました。

ヨハネが見た栄光のメシアは贖いの犠牲であるほふられたと見える子羊の姿をして巻物を手に取り封印を開こうと立たれていました。

6章から19章には、この世の罪にたいする裁きの時、この地上で起こるイスラエルの民とエルサレムの都に関する七年の患難の期間、この地上に下る神の裁き、罪の結果おこる様々な問題とその恐ろしい結末にいたるまでが、こと細かく描写されてゆきます。(何故、七年の期間なのかについては、聖書の預言、パワーポイントによる解説の詳細を参照)

黙示 6:1 また、私は見た。小羊が七つの封印の一つを解いたとき、四つの生き物の一つが、雷のような声で「来なさい。」と言うのを私は聞いた。
黙示 6:2 私は見た。見よ。白い馬であった。それに乗っている者は弓を持っていた。彼は冠を与えられ、勝利の上にさらに勝利を得ようとして出て行った。

イエスが天の御座で七つの封印を解いてゆくと、それに呼応して地上で起こることが展開されてゆきます。
先にも見たように、生き物と新約聖書に訳されている ζῶον と言う単語は、わたしたちが思う獣のような生き物ではなく、神によって創造された別の次元の生命をもった御座の近くに仕える存在です。(エゼキエル1:4-14参照)
小羊が七つの封印の一つを解いたとき、この四つの生き物の一つが、雷のような声で「来なさい」というのをヨハネは聞きました。
すると、弓を持ち、冠りを与えられた者が勝利の上に勝利を得ようとして白い馬に乗って出て行くのを見ました。

この白い馬に乗って出てきた者は、イエス・キリストの再臨なのだと解説する人達がいます。
しかし、この白い馬に乗った者は、反キリストに違いありません。

反キリストは、キリストの肢体である教会がこの世からイエス・キリストのもとへ引き上げられ、不法の秘密の力を阻止している、聖霊が取り去られることによってあらわれます。(II テサロニケ 2:3,7-8).

すべての場所に偏在される聖霊は、この世から取り去られませんが、聖霊をうちに住まわせて歩む人々は、携挙の時にこの世から一瞬のうちにキリストのもとへ引き上げられます。

そのときには、世の初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような、ひどい苦難がある。もし、その日数が少なくされなかったら、ひとりとして救われる者はないでしょう。しかし、選ばれた者のために、その日数は少なくされます。

イエス・キリストを主とし、聖霊の導きに信頼して歩む人々がこの世から取り去られた後では、聖霊は、ここで選ばれた者と言及されているイスラエルの民に臨まれます。

反キリストというのは、キリストに反対するというだけでなく、キリストに似て非なる者のことを言います。
反キリストは、ちょうどサタンが光の天使に偽装するように、サタンからこの世の権威、支配権を委ねられて患難の時期のもっとも初めの時に、弓をとり冠りを与えられ白い馬に乗って勝利の上に勝利を得ようと出てくるのです。
ヨハネがこの黙示録を記した当時と同様に、現代も反キリストのしるしを見ることができることは興味深いことです。

反キリストのしるしは「平和のしるし」です。歴史的にもローマ皇帝ネロの時かぎ十字のしるしが「平和のしるし」として使われましたが、二十世紀にもヒトラーのナチス党がこのかぎ十字のシンボルを「平和のしるし」として使い、6百万以上のユダヤ人が虐殺されたことは、まだわたしたちの記憶に新しいことです。

反キリストは平和の計画と経済の繁栄を約束して世界の舞台に登場し、この地上で独裁的な権力と支配を確立しようとして来ます。

黙示 6:3 小羊が第二の封印を解いたとき、私は、第二の生き物が、「来なさい。」と言うのを聞いた。
黙示 6:4 すると、別の、火のように赤い馬が出て来た。これに乗っている者は、地上から平和を奪い取ることが許された。人々が、互いに殺し合うようになるためであった。また、彼に大きな剣が与えられた。

子羊が第二の封印を解き、四つの生き物のうちの二つ目のケルビムが「来なさい」と言うのを聞いたと同時に、別の火のように赤い馬が出てきます。
それに乗る者は、世界をより深い矛盾と争いに巻き込み、戦争をもたらす者を象徴しています。 

黙示 6:5 小羊が第三の封印を解いたとき、私は、第三の生き物が、「来なさい。」と言うのを聞いた。私は見た。見よ。黒い馬であった。これに乗っている者は量りを手に持っていた。
黙示 6:6 すると私は、一つの声のようなものが、四つの生き物の間で、こう言うのを聞いた。「小麦一枡は一デナリ。大麦三枡も一デナリ。オリーブ油とぶどう酒に害を与えてはいけない。」

第三の封印が解かれ、第三のケルビムの「来なさい」と言うのを聞くと同時に量りを手に持ち黒い馬に乗って来る者があらわれます。

ヨハネは、「小麦一枡は一デナリ。大麦三枡も一デナリ。オリーブ油とぶどう酒に害を与えてはいけない。」という声を聞きました。
「小麦一枡」は、大体二合弱、一クオートの小麦に相当し、「一デナリ」は、現在の価格で、約五千円、約五十ドルに相当し、平均的一日分の労賃と考えてよい値段です。

このことからも、人々が生きてゆくうえで基本的な必需品である小麦や大麦などの食料価格が異常高騰し、飢餓の状態がもたらされることを意味しています。                
この黒い馬は人類の飢餓を象徴しています。                     

もし、全世界的な規模で核戦争が起これば、農作物が汚染され食料需給のバランスは完全に崩れ、世界中が飢餓の状態に陥ることは目に見えています。

黙示 6:7 小羊が第四の封印を解いたとき、私は、第四の生き物の声が、「来なさい。」と言うのを聞いた。
黙示 6:8 私は見た。見よ。青ざめた馬であった。これに乗っている者の名は死といい、そのあとにはハデスがつき従った。彼らに地上の四分の一を剣とききんと死病と地上の獣によって殺す権威が与えられた。

第四の封印が解かれ、第四のケルビムの「来なさい」と言うのを聞くと同時にヨハネは青ざめた馬がでてくるのを見ました。この馬には死という名の者が乗り、そのあとにハデス、地獄がつき従っていました。
赤い馬の戦争、黒い馬の飢餓に続いて出てくる青白い馬は地球上の人類の四分の一を絶滅させてしまいます。
現在地球の人類の総人口は六十億人を超えています。その四分の一の十五億人以上の人々が死滅するのです。第四の封印が解かれると、想像を超えた人々が死んでゆきます。

黙示 6:9 小羊が第五の封印を解いたとき、私は、神のことばと、自分たちが立てたあかしとのために殺された人々のたましいが祭壇の下にいるのを見た。
黙示 6:10 彼らは大声で叫んで言った。「聖なる、真実な主よ。いつまでさばきを行なわず、地に住む者に私たちの血の復讐をなさらないのですか。」
黙示 6:11 すると、彼らのひとりひとりに白い衣が与えられた。そして彼らは、「あなたがたと同じしもべ、また兄弟たちで、あなたがたと同じように殺されるはずの人々の数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいなさい。」と言い渡された。

第五の封印が子羊によって解かれると、ヨハネは神のことばと、自分たちが立てたあかしとのため殺された人々のたましいが祭壇の下にいるのを見ました。
祭壇の下にいる魂とはどの様な人々の魂なのでしょうか。                
それは、イエスが救い主であり主であることをあかし、そのあかしのゆえに殺され、殉教した人々の魂だと説明されています。

モーセが主に命じられて幕屋を建造したときも、ソロモンが神殿をエルサレムに建造したときにも、祭壇が設けられました。

祭壇の一つは、聖所の外にあり一つは聖所の中にありました。聖所の内側の祭壇には香が焚かれ祭司によって祈りが捧げられました。聖所の外にある祭壇は犠牲の捧げものが殺され焼かれました。

ヨハネが幻を見たときにはエルサレムの神殿はすでにローマの軍団によって焼失していましたから、ヨハネの見た祭壇は、神の御座のある天の聖所の外側の祭壇だということがわかります。 
イエスキリストを救い主と信じ、その信仰のゆえに殺され犠牲となったクリスチャンは、教会の歴史にも数多くの人々が存在したことが記録され、現代でもイエスをキリストであると告白し、その信仰の故に弾圧を受け殉教する人々が存在します。

しかし、これらの教会の時代の人々はすでに栄光のからだに変えられ、4章5章で見たようにすでに御座の前で大群衆と共に賛美の時を迎えています。
患難の時代には反キリストが現れ、彼を神と拝まない人々は殺されます。この時代にも獣の刻印を受けずイエスをキリストであることを告白し、殉教する多くの人々が存在します。
これらの人々には白い衣が与えられ、「聖なる、真実な主よ。いつまでさばきを行なわず、地に住む者に私たちの血の復讐をなさらないのですか。」という叫びに、「あなたがたと同じしもべ、また兄弟たちで、あなたがたと同じように殺されるはずの人々の数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいなさい。」と言い渡されました。
これらの人々は、神の義なる裁き、地上で弾圧と不当な迫害を受け、患難の時代にイエスの名を告白し、血を流す人々です。

教会が携挙されてしまったあとでも、この世に救いの可能性が全くなくなってしまうわけではありません。神は、慈しみと恵みに富んだかたであり、悔い改めてキリストの救いを受ける者を拒まれることは決してありません。
しかし、もし患難の時代になってからでもキリストを受け入れることは遅くないと思うのであれば、その考えは誤っています。
聖霊がわたしたちに働かれ、キリストの福音を受け入れることのできる恵みの時代にさえその証しに逆らう人々が、患難の時代に自分の命を賭してイエスがキリストであることを告白することはほとんど不可能なことだからです。

黙示 6:12 私は見た。小羊が第六の封印を解いたとき、大きな地震が起こった。そして、太陽は毛の荒布のように黒くなり、月の全面が血のようになった。
黙示 6:13 そして天の星が地上に落ちた。それは、いちじくが、大風に揺られて、青い実を振り落とすようであった。
黙示 6:14 天は、巻き物が巻かれるように消えてなくなり、すべての山や島がその場所から移された。

子羊が第六の封印を解くと、大きな地震と共に地球の歴史のなかでノアの洪水のときに匹敵する天変地異が起こります。

通常、地震は地球の表面を構成している岩盤、地殻が固く密着している断層と呼ばれる破壊面を境にして急激にずれ動くとき大きな振動が生じ起こりますが、このときの地震は、通常の断層のずれによって起こされる地震の規模をはるかに超える地球内部の地殻変動によって引き起こされる、全地球規模の大地震と考えられます。
宇宙規模の異変によって太陽は毛の荒布のように黒くなり、月の全面が血のようになり、いちじくが、大風に揺られて、青い実を振り落とすように巨大な隕石が地球に降り注ぎ、天は、巻き物が巻かれるように消えてなくなり、すべての山や島がその場所から移されるというのです。

一つの隕石が地上に降下するだけで地上には多大な被害がもたらされることはすでに自然科学の世界では常識とされています。1908年にシベリヤに落下した隕石は何マイルにもわたる森林を消滅させました。アメリカでもアリゾナ州の砂漠に隕石落下によってできた巨大なクレーターをみることができます。
隕石が地上に落下するだけでこのような衝撃をあたえるのは、隕石中の反物質が、丁度昨年(2011年)日本の東北大震災の地震と津波の際におきた福島原子力発電所の臨海爆発のように、物質と反物質が衝突することによって中性子核の回りを回転する原子核と原子核の回りを回転する中性子核が触れ合い臨海を起こし核爆発が起こるのではないかと推定されています。
多くの宇宙物理学者が惑星など天体の自転に伴う極(自転軸や磁極など)が、何らかの要因で現在の位置から移動することについての予測をしていますが、地軸の反転と惑星の磁場が通常の状態から激変することも考えられ、この場合にも地球全体を揺るがす大変動が起こると考えられます。

旧約聖書のなかには、このときの地震についていくつかの箇所で預言されています。
「わたしは天を震わせる。万軍の主の憤りによって、その燃える怒りの日に、大地はその基から揺れ動く。」(イザヤ書13章13)

「地は裂けに裂け、地はゆるぎにゆるぎ、地はよろめきによろめく。地は酔いどれのように、ふらふら、ふらつき、仮小屋のように揺り動かされる。そのそむきの罪が地の上に重くのしかかり、地は倒れて、再び起き上がれない。」」(イザヤ書24書19-20)

「 わたしは天と地に、不思議なしるしを現わす。血と火と煙の柱である。主の大いなる恐るべき日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。」(ヨエル書2章20-21)

「太陽も月も暗くなり、星もその光を失う。主はシオンから叫び、エルサレムから声を出される。天も地も震える。だが、主は、その民の避け所、イスラエルの子らのとりでである。」(ヨエル書3章15-16) 

「まことに、万軍の主はこう仰せられる。しばらくして、もう一度、わたしは天と地と、海と陸とを揺り動かす。」(ハガイ書2章8)

イエスも弟子たちにイエスが地上に再臨される前に太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされることを述べられています。(マタイ福音書24章29)

黙示 6:15 地上の王、高官、千人隊長、金持ち、勇者、あらゆる奴隷と自由人が、ほら穴と山の岩間に隠れ、
黙示 6:16 山や岩に向かってこう言った。「私たちの上に倒れかかって、御座にある方の御顔と小羊の怒りとから、私たちをかくまってくれ。
黙示 6:17 御怒りの大いなる日が来たのだ。だれがそれに耐えられよう。」

岩なる主により頼まない人々は、地上のほら穴と山の岩間に隠れるほかなすすべがありません。
子羊の怒りのときが人類にとっていかに苦難と困難に満ちた時代であるかは、この6章を読むだけでも伺い知ることができます。     

わたしたちは今、救いの時、恵みの時代に生きています。

神は慈しみに富んだ方です。神は、わたしたち一人一人が悔い改めて御子イエスキリストの十字架の上で流された血と、復活のゆえに与えられている罪の赦しと永遠の命の恵みを受け取り祝福されることを願っておられます。神は寛容と忍耐に富んだお方です。           
しかし、神の救い、イエスを拒否し続け、神の愛、神の恵みを受け取らない者たち、罪にたいする裁きの日は必ずこの地上に臨みます。

神はノアの時代にも忍耐と寛容を示されましたが、悔い改め神が差し伸べる救いの御手を受け取ろうとしない世にたいして「わたしの霊はながく人のなかにとどまらない。」(創世記6章2)と言われ、神とともに歩んだエノクを取り上げられた後、ノアとその家族を除く人類のすべてを滅ぼされました。

多くの人々が神が忍耐と寛容に富んだ方だということを、神はわたしたちの罪を大目に見られ、不義を見過ごしにしてくれて裁きをされない方だと誤解しています。

神は、人を御怒りに会うようにお定めになったのではなく、わたしたちが主イエス・キリストにあって救いを得、神との愛の関係、交わりを持つためにお定めになったのです。(1テサロニケ 5:9)
神は、神のかたちに創られた人を限りなく愛されておられます。

しかし、神は完全な義のかたであり、不義、背き、罪、神にたいするそしりに対して、それらを決して見過ごしにされる方ではありません。

神は聖であり、不義、背き、罪にたいして怒り、憤られ、公平な裁きをされます。

人が、生ける神を否定し続けると、どんなに神が手を伸ばし続けても、ついには神の愛、恵み、赦しの限界点を超えて自滅してしまうことがあります。
それは、神の愛が人に及ばないからではなく、人が神の愛と恵みを拒絶し続ける当然の結果なのです。滅びは神によってもたらされるのではなく、人の選び取りによってもたらされるのです。
神のわたしたちに対する峻厳な裁きは御子イエスキリストが十字架の上で負ってくださいました。

しかし、そのことを恵みとして受け入れない世に下される裁きがどれだけ峻厳なものであるかが、この6章から19章までに描かれているこの世の神に対する反逆への御怒りの時、患難の時代なのです。



 
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