この世の所有権

(黙示録5章の講解)

黙示 5:1 また、私は、御座にすわっておられる方の右の手に巻き物があるのを見た。それは内側にも外側にも文字が書きしるされ、七つの封印で封じられていた。
黙示5:2 また私は、ひとりの強い御使いが、大声でふれ広めて、「巻き物を開いて、封印を解くのにふさわしい者はだれか。」と言っているのを見た。
黙示 5:3 しかし、天にも、地にも、地の下にも、だれひとりその巻き物を開くことのできる者はなく、見ることのできる者もいなかった。
黙示 5:4 巻き物を開くのにも、見るのにも、ふさわしい者がだれも見つからなかったので、私は激しく泣いていた。

天に引き上げられたヨハネは、栄光の神の御座の場面で、天の父なる神の御手に巻物があるのを見ました。その巻物は内側にも外側にも文字が書きしるされ、七つの封印で封じられていました。 そして、ひとりの強い御使いが、大声でふれ広めて、「巻物を開いて、封印を解くのにふさわしい者はだれか。」と言っているのを見ました。

ヨハネは、天にも地にも、地の下にも、だれひとりその巻物を開いて見るにふさわしい者がみつからなかったので、激しく泣いていたというのです。

この巻物とは一体どのような巻物なのでしょうか。この封印とは、なにを意味しているのでしょうか。何故、巻物を開き、それを見ることのできるにふさわしい者がみつかることが使徒ヨハネにとってそんなに重要だったのでしょうか。

この巻物は、地球の所有権を証明する権利書に違いありません。

もともと、天と地とそのなかにあるすべては、万物を創造された神のものです。
しかし、神はご自身に似せて造られた最初の人に、この地のすべてを委ねられ、園で人を祝福し、「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」(創世記 1:28)と、彼らに仰せられました。
このとき、神は、人に命じて「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」(創世記 2:17)と、はっきりとした警告を与えられました。

人がどのくらいの期間、園に住んでいたのかについてはわかりませんが、蛇(サタン)が、エバを誘惑し、その誘惑に負けて「取って食べてはならない。」といわれた木から実をとって食べ、それをアダムにも与え、アダムも実をとって食べたときに、人は神から委ねられたこの地のすべての権利を、サタンの欺きと誘惑の前に放棄してしまいました。

「あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。」(ロマ6:16)

人が神の言葉よりサタンの言葉を選んだことは、自らの選びによって、神に不従順であり、神との交わりを断ってサタンに隷属する者となったことを意味しています。
この時から、人は神に委ねられたこの地の権利を放棄してしまいました。神に委ねられた権利は、サタンに奪われ、この世はサタンのものとなってしまったのです。

イエスは、この世を神のものへと買い戻すためにこの世にこられました。天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。(マタイ13:44)

ここで、イエスが言われている畑とは、この世界のことで、隠された宝とは、イエスを主と信じる人々、収穫の時に天の御国に引き上げられる教会のことをさしています。
イエスがこの世に来られた時、サタンはイエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」(マタイ4:9)と、この世のすべての国々と栄華はサタンのものであると宣言しました。  

この宣言にたいしてイエスは異論を唱えられませんでした。この世がサタンの支配下にあり、国々とその栄華はサタンのものという宣言は残念ながら、有効なものだったからです。
この世の様々な悲惨な出来事、貧困、飢餓、病い、争い、などはサタンがひきおこすものであり、神によってひきおこされるのではありません。

この世の悲惨と死、戦いと犯罪がもたらされるようになったことが、神への反逆と罪に原因があり、この世の国々とすべての栄華がサタンの手にあることに、多くの人々が気付いていません。それは、わたしたちの見る現在のこの世が神の秩序より、この世の君であるサタンに隷属しているという事実を、はっきりと認識することから目を曇らされているからです。

イエスは、十字架に架かられる前に弟子たちに「今がこの世のさばきです。今、この世を支配する者は追い出されるのです。」 (ヨハネ12:31)「この世を支配する者が来るからです。彼はわたしに対して何もすることはできません。」(14:30)とサタンのことを言及されました。
使徒パウロもサタンのことを「この世の神」(IIコリント4:4)と呼んで「この世の神が不信の者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。」(IIコリント4:4)と述べています。 

イエスがこの世にこられたのは、この世をご自身に買い戻されるためでした。
十字架の上でイエスは息を引き取られる直前に「完了した。」(ヨハネ19:4)と言われました。
イエスは十字架の上でわたしたち一人一人の罪の代価の支払いを完了してくださいました。
しかし、わたしたちは、この世が完全に神の国として贖われているのを見ていません。

イエスが弟子たちに神の国のことを譬えで話されたとき(マタイ13:18-52)、この世の終わりの時に、実を実らせた良い麦が毒麦から選り分けられ、畑に隠された宝が天の御国に集められて、この世が贖われ、イエスがこの世の所有権を宣言されることを述べておられてます。

人として来られ、この世を買い戻す代価の支払いを完了されたイエスは、万物の所有権を証明する権利書を開くことの出来る唯一の方です。

ここで、旧約聖書に述べられている、大変興味深いイスラエルの財産の放棄と所有権の買戻しに関する律法に目を留めてみましょう。

イスラエルの民には、人がなんらかの事情で財産を放棄せざるを得ない状況になった時、本来の財産所有者が一定期間内に、条件を満たすことによって財産を買い戻すことが出来るという律法がありました。
それは、買戻しの条件を内側に、財産とその所有者を示す条項が外側に書かれた巻物を二通作成し、本来の所有者と財産を抵当としてとった者がそれぞれ一通づつを証書とし、封印をしたうえで保管しました。
本来の所有者が一定期間内に買い戻しのための条件を満たすことができれば、街の門で長老たちの立会いのもとで巻物を開き、買戻しの条件が満たされたことを確認したうえで、手放してしまった財産の所有宣言をすることができるというものでした。。

この場合、たとえその財産を手放してしまった本人が一定期間内に買い戻しの支払条件をみたすことが不可能な場合でも、本人の血縁者が本人の肩代わりをすることができ、このようにして、財産が家族のうちにとどまることを可能にするというものでした。
そして、通常決められている期間は六年間の終わり、七年目、七年の七倍、五十年目のヨベルの年が解放の年と定められていました。そして、財産を本人の肩代わりをして買い戻す人のことをゴエル、血縁の贖い主とよびました。

この一方で、もし血縁の贖い主がおらず、本人も一定期間内に買い戻しの条件を満たすことができなければ、財産は買い手のものとなり、もし財産だけでなく身売りをしなければならない場合、本人は奴隷の身分にいつまでも甘んじなければならないということが決められていました。

このイスラエルの財産買戻しの律法は、聖書全体の中で重要な意味をもっています。

何故なら、六年間の隷属と七年目の開放ということが、六千年の隷属と七千年目の解放といことにも当てはまり、人がサタンの誘惑と欺きによって委ねられたこの世の権利を放棄し、サタンに隷属するものとなってしまってから、この世の買戻しの支払いを済ませ、買戻しの権利を持つ、キリストによって所有権の宣言がされ完全な被造物の解放が実現することを示しているからです。
わたしたちが、聖書のことばに文字どうり信頼するとき、イエスがこの世を買い戻したことを証明し、所有権を宣言される七千年目の被造物の完全な解放の時が目前であることが見えてくるのです。

レビ記には、所有する土地と、その土地の買い戻しの権利を認めなければならないことについて、土地が人手に渡ってしまった後、その土地を買戻し、所有権を取り戻すことについての詳しい律法がイスラエルの民には取り決められています。
これもイエス・キリストによる、この世の買戻しと所有権を再び宣言することのできるタイプとして理解するとき、この世の権利書を子羊であるキリストが天上で受け取り、この世の所有権がキリストによって宣言され、すべての被造物の贖いが完成されることを示していることが理解できます。

「もし、あなたの兄弟が貧しくなり、その所有地を売ったなら、買い戻しの権利のある親類が来て、兄弟の売ったものを買い戻さなければならない。
その者に買い戻しの権利のある親類がいないときは、その者の暮らし向きが良くなり、それを買い戻す余裕ができたなら、売ってからの年数を計算し、なお残る分を買い主に返し、自分の所有地に帰る。
もしその者に返す余裕ができないなら、その売ったものは、ヨベルの年まで、買い主の手に渡る。
ヨベルの年にその手を離れると、その者が、自分の所有地に帰る。
彼が身を売ったあとでも、彼には買い戻される権利がある。彼の兄弟のひとりが彼を買い戻すことができる。
あるいは、彼のおじとか、おじの息子が買い戻すことができる。あるいは、彼の一族の近親者のひとりが買い戻すことができる。あるいはもし、彼の暮らし向きが良くなれば、自分で自分自身を買い戻すことができる。」(レビ記25章25-49)

エレミア記には、手放さなければならなくなった土地を買い戻すために、買戻しの権利と、土地の権利書の作成と、再び所有権を宣言するための手続きが実際にどのように使われているのかについて歴史的な物語をとおして述べられています。

「見よ。あなたのおじシャルムの子ハナムエルが、あなたのところに来て、『アナトテにある私の畑を買ってくれ。あなたには買い戻す権利があるのだから。』と言おう。
すると、主のことばのとおり、おじの子ハナムエルが私のところ、監視の庭に来て、私に言った。
『どうか、ベニヤミンの地のアナトテにある私の畑を買ってください。あなたには所有権もあり、買い戻す権利もありますから、あなたが買い取ってください。』私は、それが主のことばであると知った。
そこで私は、おじの子ハナムエルから、アナトテにある畑を買い取り、彼に銀十七シェケルを払った。
すなわち、証書に署名し、それに封印し、証人を立て、はかりで銀を量り、命令と規則に従って、封印された購入証書と、封印のない証書を取り、おじの子ハナムエルと、購入証書に署名した証人たちと、監視の庭に座しているすべてのユダヤ人の前で、購入証書をマフセヤの子ネリヤの子バルクに渡し、彼らの前で、バルクに命じて言った。
『イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。これらの証書、すなわち封印されたこの購入証書と、封印のない証書を取って、土の器の中に入れ、これを長い間、保存せよ。
まことに、イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。再びこの国で、家や、畑や、ぶどう畑が買われるようになるのだ。』と。」
私は、購入証書をネリヤの子バルクに渡して後、主に祈って言った。
「ああ、神、主よ。まことに、あなたは大きな力と、伸ばした御腕とをもって天と地を造られました。あなたには何一つできないことはありません。」(エレミア記32章7-17)
 
ヨハネが見た巻物は紛れもなくこの世の所有権を証しする権利書です。
時がきて、御使いが大声で、「巻き物を開いて、封印を解くのにふさわしい者はだれか。」すなわち「サタンからこの世を買い戻すのは誰か」とふれまわるのに誰一人この世を買い戻すことのできる者がいないので、ヨハネは激しく泣いたのです。

この世が永遠にサタンに隷属し、悲惨な結果をみるときに、このような状況が永遠に続くとしたら、わたしたちもヨハネのように激しく泣かざるをえません。

黙示 5:5 すると、長老のひとりが、私に言った。「泣いてはいけない。見なさい。ユダ族から出たしし、ダビデの根が勝利を得たので、その巻き物を開いて、七つの封印を解くことができます。」
黙示 5:6 さらに私は、御座・・そこには、四つの生き物がいる。・・と、長老たちとの間に、ほふられたと見える小羊が立っているのを見た。これに七つの角と七つの目があった。その目は、全世界に遣わされた神の七つの御霊である。
黙示 5:7 小羊は近づいて、御座にすわる方の右の手から、巻き物を受け取った。

ヨハネはユダ族の獅子、ダビデの根であるメシアが、封印を解くため巻物を手に取るのを見ました。しかし、ヨハネが見たのは力と権威の象徴としての獅子ではなく、贖いの犠牲であるほふられたと見られる子羊でした。

イザヤは、わたしたちがメシアを見るとき「 多くの者があなたを見て驚いたように、・・その顔だちは、そこなわれて人のようではなく、その姿も人の子らとは違っていた。・・ 」(イザヤ52:14)「 彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。」(イザヤ53:2)と述べていますが、天において御顔を仰ぐときも、ヨハネはイエスのことをほふられた子羊のように見えたと述べています。
このことは、天においても神がわたしたちを救われるために支払われた償いの大きさ、愛の深さ、恵みの豊かさ、神の知恵の思慮深さを改めて思い知ることなのだと思います。

御座にすわる方の右の手から、巻物を手に取られ立たれる神の子羊に、七つの角と七つの目があり、その目は、全世界につかわされた神の七つの霊だというのです。
七つの角は完全な力をあらわし、(ルカ1:69)七つの目は全地を見渡し、見通す(ゼカリヤ3:9,4:10)目を意味し、神の七つの霊は、生きた聖霊の完全な七つの性質(イザヤ11:2)をあらわしています。

黙示 5:8 彼が巻き物を受け取ったとき、四つの生き物と二十四人の長老は、おのおの、立琴と、香のいっぱいはいった金の鉢とを持って、小羊の前にひれ伏した。この香は聖徒たちの祈りである。 

旧約の時代、祭司たちは、日々香のはいった金の鉢を携え聖所に入り、至聖所の前の香を炊くための壇のうえでかおりのたかい香をたきました。
これは、祭司たちが民の祈りを共に携え神の御前でたえず祈りが捧げられることを意味していました。

ヨハネは、ほふられた子羊のように見えたイエスが、生き物と二十四人の長老たちの賛美のなかで、御座に立って巻物を受け取るのを見た瞬間、天のすべてが賛美と勝利の合唱に包まれ、万物を創られた神こそが栄光に満ちた崇められるに相応しいかたであり、御國を来たらしめ、御心を天におけるように、地でもおこなわれる方であるという、(マタイ6:9,10)香のいっぱいはいった金の鉢からでる、わたしたちクリスチヤンが切に祈る祈りとともに、その祈りが遂げられるときがいよいよ到来したことを見たのです。

黙示 5:9 彼らは、新しい歌を歌って言った。「あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、
黙示 5:10 私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。」
 
この賛美の歌詞、文句によく注意してください。ここで、天において賛美をとなえているのは、神の契約の民、神の選びの民イスラエルだけに特定された人々だけではありません。この人々は、あらゆる部族、国語、民族、国民のなかからキリストの血によって贖われた人々、すなわち神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声とともに一瞬のうちに天から下ってこられる栄光の花婿であるイエス・キリストに迎えられ、天に引き上げられたキリストの肢体である天に引き上げられた教会であることがわかります。

キリストの肢体である教会、クリスチヤンの切なる祈りが香のように捧げられ、イエス・キリストへの心からの賛美と栄光に満ちた「ほふられた子羊こそは、力と、富と、知恵と、勢いと、ほまれと、栄光と、賛美とをうけるにふさわし」という賛美の歌が合唱されるのは、地上に神の裁きがはじまる最初の封印が開かれる前に天において、詠われる歌なのです。
キリストの肢体である教会がイエス・キリストの血潮によって贖われ、ケルビムと共に天上の御座のまわりで想像を超えた賛美のなかで、共にこの合唱に加わることができるのはなんと素晴らしいことでしょう。

黙示 5:11 また私は見た。私は、御座と生き物と長老たちとの回りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍であった。
黙示 5:12 彼らは大声で言った。「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」

御座のまわりに幾万、幾千の何倍もの圧倒的な聖徒たちとともに、わたしたちを贖われた方を賛美する特権にあずかることができるのです。

黙示 5:13 また私は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。」
黙示 5:14 また、四つの生き物はアーメンと言い、長老たちはひれ伏して拝んだ。
 
父なる神と、子なるイエス・キリストがすべての贖われた被造物から同様に栄光と賛美とを受けていることに注意してください。
神ご自身御子をこの世に送られるときに、「神の御使いはみな、彼を拝め。」(ヘブル1:6)といわれています。
すべての被造物は、人が罪を犯し、この世がサタンの手に渡ってから、実にこのときの来るのを待ち望んできました。

使徒パウロは、「 私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。
そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。
私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。
もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。」(ロマ8:22-25)と、このことを述べています。

イエスが巻物を手に取られ、封印を解かれるときから、神に敵対する者、この世の不義にたいする神の怒りと裁き、患難の時が地上で展開されてゆきます。  



 
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