神の栄光の御座

(黙示録4章の講解)

黙示 4:1 その後、私は見た。見よ。天に一つの開いた門があった。また、先にラッパのような声で私に呼びかけるのが聞こえたあの初めの声が言った。「ここに上れ。この後、必ず起こる事をあなたに示そう。」

4章からは、今後起ころうとしている 神のご計画が述べられています。
最初のことばは、「その後」ということばから始まっています。
「その後」、ギリシア語の原語メタ、μετά(met-ah')タウタταταῦτα(tow'-tah)ということばは、なにかが起こった後ということを意味しています。

何が起こった後というのでしょうか。黙示録は、ヨハネの見たこと、今あること、この後にあることが区分されて示されていますが、(黙示録1章19参照)1章から3章の終わりまでは、ヨハネの見たこと、今あること、すなわち栄光のイエス・キリスト、教会の歴史、が示されていました。
これらのことの後、というのは 栄光のイエスがキリストのからだ、教会をとおして証しされている証しが終わった後、教会の証しと働きが地上での使命を終えた後ということを意味しています。

黙示録の1章から3章までには「教会」ということばが十九回以上つかわれていますが、四章以降には七章9節に天の教会ということばが使われている以外教会についての言及はありません。

イエスが人類すべてにとって重要な世の終わりのときに起こる様々な兆候を弟子たちに話されたとき、御国の福音は全世界に宣べ伝えられてすべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来、この終わりの日がいまだかつてなかったような、またこれからもないような、ひどい苦難の時であることを話され、その後に、キリストが再臨されることを予告されました。

人類に訪れる終末のひどい苦難、患難の時は、御国の福音が全世界に宣べ伝えられすべての国民にあかしされイエス・キリストの十字架の贖いを信じ個人的に受け入れ、イエス・キリストのからだ、キリストの花嫁となる教会が、神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声とともに一瞬のうちに天から下ってこられる栄光の花婿であるイエス・キリストに迎えられる携挙という歴史的な出来事が起こった後に本格的なものとなります。
                 
この携挙という出来事が何時起こるのかは、イエスが宣言されたように、「その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられる」出来事です。

キリストの再臨と神の国がこの地上に出現することを待ち望みながら死んでしまった人々が一体どのようになるのだろうという質問をしたテサロニケの人々に使徒パウロは、
「兄弟たちよ。眠っている人々については、無知でいてもらいたくない。望みを持たない外の人々のように、あなたがたが悲しむことのないためである。わたしたちが信じているように、イエスが死んで復活されたからには、同様に神はイエスにあって眠っている人々をも、イエスと一緒に導き出して下さるであろう。 わたしたちは主の言葉によって言うが、生きながらえて主の来臨の時まで残るわたしたちが、眠った人々より先になることは、決してないであろう。
すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。 だから、あなたがたは、これらの言葉をもって互に慰め合いなさい。」(第一テサロニケ人への手紙4章13-18)と、答えています。

コリントの人々に宛てた手紙のなかでも、福音を受け入れた人々が復活し、神の国を継ぐ約束が確かであり、その奥義について説明している箇所で、「ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。」(第一コリント人への手紙15章51,52、)と、同様のことを述べています。

携挙ということばを聞いたことがない、聖書のなかに携挙ということばを見つけることができない、という人々がいます。
テサロニケの人々に宛てたパウロの手紙のなかで、「雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い」と述べられている箇所の「引き上げられ」と日本語に訳されているなかで引き上げられるというギリシャ語の原語はἁρπάζωhar-pad'-zo、ハパーゾです。            

これは、ものすごい勢いで人の瞬きの千文の一の一瞬のうちに取り去られるということを意味し、このギリシャ語の原語に該当するラテン語の動詞がラピオということばであり、このラピオの過去形がラプチュス、英語のラプチュア‐、日本語の携挙ということばになります。

ヨハネは冒頭で、時間の制約を超えた霊的な体験、幻によって、神がご計画されている将来起こる人類がくぐり抜けなければならない歴史を、ラッパのような大きな声とともに再臨のイエスが神の御国をたてられるときの様子を幻によって見せられたことが述べられています。

このはじめのときに聞いたラッパのような声が、天の門が開かれると同時に「ここに上れ、この後必ず起こる事をあなたに示そう。」とヨハネに呼びかけました。
このとき、ヨハネはあきらかに天に引き上げられるという体験をし、天に開いた一つの門を見ました。

こうして、彼は、栄光の神の御座を見ることになります。

黙示 4:2 たちまち私は御霊に感じた。すると見よ。天に一つの御座があり、その御座に着いている方があり、                           

わたしたちは、この肉の身体によっては天に昇ることはできません。
ヨハネは御霊に感じ、霊によって素晴らしい神の御座を見ました。天における神の御座はどのような状況にもゆるぐことのない御座です。

黙示 4:3 その方は、碧玉や赤めのうのように見え、その御座の回りには、緑玉のように見える虹があった。

ヨハネは神の御座に座っておられる方を見、その御座を見ました。    

碧玉はダイヤモンドの一種で澄んだ透明のクリスタル状の紫がかった青い色彩の宝石です。赤めのうは血のように鮮やかな赤彩色の宝石です。
     
神はイスラエルの大祭司を任命されたとき、栄えと麗しきをもたせるために聖なる衣服を作って、それに胸当て、エボデを着けることが記されています。そして、この胸当てにはイスラエルの部族をあらわす宝石が二つのはめ石に刻まれました。このとき、一番目と最後の宝石には碧玉と赤めのうが刻まれましたが、それぞれの宝石には「見よ、わが長子」、「汝はわが右腕」という意味がありました。(出エジプト記28章17-28参照)     

ヨハネが見た高く荘厳な御座に座しておられる神は、圧倒的な畏れに満ちた光景であり、碧玉や赤めのうのように光り輝き、御座のまわりには緑玉のような虹があらわれていました。

この緑玉のように見える虹は、恵みと慈しみの象徴として御座のまわりにあらわれました。

神は、暴虐が地に満ち世が神の前に乱れたとき、地にあるすべての息あるものを滅ぼされましたが、恵みを得たノアによって箱舟を作ることを命じられ、そのなかにノアとその家族、すべての生き物から種類にしたがい雄と雌のつがいの動物を避難させ、全世界を覆う洪水から生き残る道を示されました。虹は、洪水によって世界が滅ぼされた後で、生き残ったノアに再び全世界が洪水によっては滅ぼされないことを示す契約のしるしでした。

神の御座は、恵みと慈しみの御座です。
「だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。」(ヘブル人への手紙4章16)

この箇所に描かれている神の御座について、いくつかの箇所で聖書は詳細を述べています。  エゼキエル書1章26-28、エゼキエル書10章1、イザヤ書6章1、ダニエル書7章9-10、等を参照。

イエス・キリストの流された血の贖いによって、すべての人々が福音を信じるとき、この御座に招かれているのです。

黙示 4:4 また、御座の回りに二十四の座があった。これらの座には、白い衣を着て、金の冠を頭にかぶった二十四人の長老たちがすわっていた。

二十四の座と二十四の長老について、旧約聖書には、ダビデがイスラエル統一王国の王となったとき、神殿建設のために、神殿に奉仕する祭司たちを二十四の組に分け任命したことが記されていることから、イスラエルを司る二十四の祭司を象徴しているという聖書学者がいます。
しかし、多くの聖書学者たちは、この箇所に述べられている二十四の御座、白い衣をまとった二十四人の長老たちは、教会が御国の民、祭司とよばれていることから歴史的な教会を代表する人々であるという解釈をしています。 

彼らがまとっている白い衣は、キリストによって聖徒たちに与えられる義を象徴しています。 
さらに、彼らは金の冠りを頭にかぶっていると述べられています。

聖書には、イエスの名を否まず、従う者に与えられる冠りについて、幾つかの箇所に言及されています。
信仰を守り、走るべき行程を走りつくした者に与えられる義の冠り(第二テモテ4章8参照) 試練に耐える者に与えられるいのちの冠り(ヤコブ書1章12、黙示2章10、)
神の羊の群れを牧する者に与えられる栄光の冠り(第一ペテロ5章4参照)
イエスに似る者へと変えられる目標に向かって一心に最後まで人生を全うする者に与えられる朽ちない冠り(第一コリント9章25参照)
などがあります。

冠りは神の国で永遠に生きる者に任される役割の重要性、扱いを象徴し、わたしたちが、この世にあってキリストに似た者へと変えられる目標に向かってどのように人生を生きたかによって決められます。            

わたしたちは、一人一人が賞を得る者、イエス・キリストにある信仰に励み、冠りを得るものとなることを勧められています。

黙示 4:5 御座からいなずまと声と雷鳴が起こった。七つのともしびが御座の前で燃えていた。神の七つの御霊である。
黙示 4:6 御座の前は、水晶に似たガラスの海のようであった。御座の中央と御座の回りに、前もうしろも目で満ちた四つの生き物がいた。
黙示 4:7 第一の生き物は、ししのようであり、第二の生き物は雄牛のようであり、第三の生き物は人間のような顔を持ち、第四の生き物は空飛ぶわしのようであった。 

ヨハネは、天に引き上げられ神の御座からいなずまと声と雷鳴が起こるのを聞きました。いなずまと声と雷鳴は、嵐の前ぶれを告げるもののようです。 
 
天上で想像を絶する荘厳で栄光に満ちた神の御座を見せられたヨハネは、一方で地上に嵐が到来することを告げられました。

御座の前で燃えている七つのともし火は、神の七つの霊であると説明されています。

神の七つの霊の働きについては、イザヤ書十一章二節に知恵と悟りの霊、深慮と才能の霊、主を知る知識と主を恐れる霊であると、述べられています。これは、一章四節で述べた一つの聖霊の七つの性質を描いています。   

さらに、御座の前は、水晶ににたガラスの海のようであり、御座の中央と御座のまわりに、前もうしろも目で満ちた四つの生き物を見ました。

エゼキエル書(1章、10章参照) にも神の御座が描写されていますが、ここでも四つの生き物が描かれています。 
               
この生き物は、人の姿をもっており、四つの顔を持ち、前方に人の顔を持ち、右の方に獅子の顔を持ち、左の方に牛の顔を持ち、後ろの方に鷲の顔をもって、そのおのおのが四つの翼を持っていました。
前も後ろも目で満ち、人の姿をもって、四つの顔を持ち、前方に人の顔を持ち、右の方に獅子の顔を持ち、左の方に牛の顔を持ち、後ろの方に鷲の顔をもって、そのおのおのが幾つもの翼を持った生き物とは、何と想像を絶する生き物の姿でしょう。

初代教会の長老イレニウス(紀元130年―紀元202年)は、新約聖書のマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つの福音書はイエス・キリストが王として来られた方、仕える僕として来られた方、完全な人のとして来られた方、神性を放棄されることなく来られた方として描かれ、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書はイスラエルの王、ユダ族の獅子として、犠牲の仕える雄牛、人の子、生物のなかでも最も雄大に天空を舞う鷲に、夫々象徴されていると説明しています。   
このことからも、この生き物が夫々の側面からイエス・キリストを象徴している生き物であることがわかります。

エゼキエル書 1章:5 またその中から四つの生きものの形が出てきた。その様子はこうである。彼らは人の姿をもってい
た。
エゼキエル書 1章:6 おのおの四つの顔をもち、またそのおのおのに四つの翼があった。

エゼキエル書 1章:10 顔の形は、おのおのその前方に人の顔をもっていた。四つの者は右の方に、ししの顔をもち、四つの者は左の方に牛の顔をもち、また四つの者は後ろの方に、わしの顔をもっていた。
エゼキエル書 10章:14 そのおのおのには四つの顔があった。第一の顔はケルブの顔、第二の顔は人の顔、第三はししの顔、第四はわしの顔であった。

黙示 4:8 この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その回りも内側も目で満ちていた。彼らは、昼も夜も絶え間なく叫び続けた。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。神であられる主、万物の支配者、昔いまし、常にいまし、後に来られる方。」

この四つの生き物は、主の御名を叫び続け主を賛美する知性の高い大天使、ケルプです。

黙示 4:9 また、これらの生き物が、永遠に生きておられる、御座に着いている方に、栄光、誉れ、感謝をささげるとき、
黙示 4:10 二十四人の長老は御座に着いている方の御前にひれ伏して、永遠に生きておられる方を拝み、自分の冠を御座の前に投げ出して言った。
黙示 4:11 「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。」 

ししのようであり、雄牛のようであり、人間のような顔を持ち、空飛ぶわしのような四つの顔を持ち、六つの翼を持った生き物が永遠に生きておられる御座に着いている方に、栄光、誉れ、感謝をささげるとき、二十四人の長老は御座に着いている方の御前にひれ伏して、永遠に生きておられる方を拝し、自分の冠を御座の前に投げ出して「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。」という賛美の叫び声をあげます。

限られた次元に住むわたしたちにとって異様で信じ難い生き物、天使の光景は、天に挙げられ栄光の身体に変貌した後では、その生き物の有様に納得がゆく筈です。           

キリストの花嫁としてわたしたちが天において見る光景は、神が御座におられそのまわりには二十四の座があって二十四人の長老が座についており、御座のそば近くには、神の被造物である生き物、ケルビムが夜も昼も絶え間なく創造主である神の聖なる永遠の性質、愛と恵みの性質について賛美しているのです。

わたしたちの次元を超えた天使として創られたケルブ(ケルビムは複数形)は、最も位の高い天使で、御座の傍近くで父なる神、子なるイエス・キリスト、聖霊の三つにして唯一の完全な方の聖にして永遠である圧倒的な栄光と美しさに感嘆の声をあげ、叫ばずにいられないのです。

わたしたちは、この世である人や素晴らしいと思うことについて感嘆することがあったとしても、それらをより詳しく知り、何度も見ているうちに、なんらかの欠点や満たされない部分を見つけて幻滅を味わうことがあります。
しかし、ケルビムはより深く神を見、知ったうえで神の素晴らしさに感嘆を禁じ得ず、神を仰いで「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。神であられる主、万物の支配者、昔いまし、常にいまし、後に来られる方。」と、賛美し続けています。

ケルビムが神の永遠の性質について賛美している間、二十四人の長老たちは水晶に似たガラスの海のような御座にいます方の御前にひれ伏して彼らの冠りを投げ出し、世々限りなく生きておられる方を拝し、神に誉れを帰し、感謝を捧げています。

わたしたちが、救われるのは神のキリストにある一方的な恵みであって、人の努力や、よい行いによるのではありません。

しかし、4節でも述べられているように、冠りは、与えられた恵みに信頼し、イエスの名を否まず従う者に与えられ、神の国で永遠に生きる者に任される役割の重要性、扱いを象徴し、わたしたちが肉体をもってこの世に生きている間の信仰の度合いに応じてすべてが決められます。    

ある人々は、冠りなどなくとも天国に行けるだけでよい、と言います。しかし、それらの人々はわたしたちのいのちが永遠の次元でどのような立場、場所をあたえられるのかについてあまり理解をしているとは思われません。
     
わたしたちは、一人一人が賞を得る者のように信仰に励むことを勧められています。

二十四人の長老たちは、神が冠りを彼らに得させてくださったものだということを知って彼らの冠りを御座の前に投げ出して「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。」と宣言しています。

この宣言は、万物が神の御旨、喜びのために創造され、神に似せて創られたわたしたちが永遠のいのちにあって、神を深く知り、賛美することが最も素晴らしいわたしたちの行いだということを示しています。

わたしたちは、生ける神の栄光、愛、恵みをより深く知れば知るほど魂の最も深い喜びを体験し、主の御名を賛美せずにはいられない筈です。

神ご自身こそが、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい唯一の方であり、万物が神によって創造され、神の御旨によって、神の喜びのために存在するのです。              
わたしたちは、神の御旨を知り、神の喜びのために存在するとき、本当の喜びを体験します。    



 
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