教会に対するメッセージ-2

(黙示録3章の講解)

それぞれの七つの教会にたいして、イエスは、「わたしはあなたの行いを知っている」と言われ、その状態が述べられています。そして、それぞれの教会にたいして、褒めること、改めること、永遠の希望についての具体的な約束がされています。そして、すべての教会に「耳のある者は御霊が言われることを聞きなさい」という勧めで結ばれています。

サルデスの教会へ

黙示 3:1 また、サルデスにある教会の御使いに書き送れ。『神の七つの御霊、および七つの星を持つ方がこう言われる。「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。
黙示 3:2 目をさましなさい。そして死にかけているほかの人たちを力づけなさい。わたしは、あなたの行ないが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。
黙示 3:3 だから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい。もし、目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない。

サルデスは、テアテラの南東約30マイルに位置し、紀元前12世紀頃に建設された小アジア地域の最も古い都市の一つでした。
この地域は紀元前7世紀頃にミード・ペルシア帝国のクロス王によって陥落滅亡するまで、ヒッタイト文明後期、リディア王国の首都でした。
リディヤは、古代世界に繁栄した王国の一つでその首都サルデスは、渓谷に広がる平野の中央に位置し、高原都市として地形に恵まれ、文字通り難攻不落を誇っていました。クロス王率いるミード軍に包囲された時もリディアの人々は敗北することなど夢にも思いませんでした。ところが、サルデスに篭るリディア兵の一人がヘルメットを城壁から落とし、それを拾うため人目につかない城壁の岩の割れ目を伝って下まで降り、再びそのルートから城壁の上に登ってゆくのを見たクロス王のミード兵によって、そのルートを伝って続々と無防備であったその箇所の城壁を頂上まで登り攻め込まれ、これによってリディア王国が滅亡に至るという歴史を持ったアクロポリス都市でした。
この都市は、紀元前300年頃、ギリシアのアレクサンダー大王の支配下に再び都市としての繁栄を取り戻しましたが、紀元前218年アンティオコスⅢ世時代、ローマ軍によってクロス王の軍がリディア王国のときに城を奇襲したと同様の奇襲によって陥落するという歴史を繰り返しました。

福音が伝わった当初、サルデスの教会は神の一方的な愛の恵み聞いて生き生きとした喜びに溢れ人々が集いました。しかし、時の経過とともにいつの間にか喜びと情熱を失い、集まりはかたちだけのものとなり、活力を失ってゆきました。福音の喜びに溢れた教会というのは名ばかりで聖霊の導きと働きを忘れ、生けるしかばねのような状態に陥ってしまった教会でした。
この地域に福音が伝えられる前から存在していた異教の習慣は改められることがなく、妥協と罪を容認する状態が続いていたようです。

栄光のイエスは、サルデスの教会にたいして、神の七つの霊と七つの星を持つ方としてあらわれ、「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。目をさましなさい。そして死にかけているほかの人たちを力づけなさい。わたしは、あなたの行ないが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。」と、言われています。

イエスは、神の七つの霊と七つの星を持つ方であり、聖霊のすべての性質そのもののお方であり、すべての教会をその御手に支えられる方です。
キリストは、サルデスの教会の人々がクリスチャンとは名ばかりで、生ける主キリストの霊の働きと導きに無関心なことを責められています。

使徒パウロは、聖霊の働きと導きに従って歩むことの大切さをクリスチャンたちに述べています。(エペソ人への手紙1章13,14、5章8参照)

イエスは人々が受ける聖霊をさして、「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。(ヨハネ福音書7章38,39)と、言われています。

サルデスの教会の人々は、イエスが救い主、キリストであるという福音によって人々が集まりました。しかし、人々は時が経つにつれて現在よりも過去のことを、永遠のいのちよりも物質的なことを、イエスよりも人々の目に触れる習慣や形式を、霊的なことより人々の思いに関心を払うようになり、異教の習慣やこの世の偶像礼拝を容認したり、俗的なものとの妥協が続き、人々の信仰は最初に福音を聞いたときのイエスが神の御子であることのおどろき、イエスが十字架上で罪の贖いを完成されたことにたいする喜び、復活による永遠のいのち、再臨を待ち望む期待が薄れ、新鮮な信仰を忘れるようになりました。

栄光のイエスは、「あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい。」と警告され、イエスの再臨を待ち望む状態を忘れ、目を覚ましていないなら、盗人が留守のあいだに来るように、彼らが予期しないで慌てふためくような時にキリストは再臨されることを警告されています。(マタイ福音書24章3、42、44参照)

黙示 3:4 しかし、サルデスには、その衣を汚さなかった者が幾人かいる。彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らはそれにふさわしい者だからである。
黙示 3:5 勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。そして、わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。わたしは彼の名をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い表わす。
黙示 3:6 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」』

しかし、イエスはそのサルデスにも、与えられた義の衣、罪を赦された白い衣を汚さず、御子イエスによって与えられた神の恵み、キリストの白い衣を汚さず、信仰に留まり続ける人々が数人いると言われています。
彼らは、イエス・キリストの義によってその名をいのちの書から消されることなく永遠の救いを約束され、勝利を得、光の子らしく歩むものだと言われています。

サルデスの教会は、主にマルチン・ルター(1517年)に代表される16世紀の初頭から19世紀(紀元1800年)頃にかけての時代に該当する教会です。
先に見たテアテラの教会(6,7世紀から16世紀初頭までにかけての時代)と同様、サルデスの教会も現代にまで続いている教会を象徴していることは間違いありません。
したがって、サルデスの教会はヨハネが黙示録を記録したときに実在した教会であると同時に、この時代の各プロテスタント各宗派の教会を象徴する教会であることは明白です。
テアテラの教会が先に見たように、中世ローマ・カソリックを象徴し、6,7世紀から16世紀初頭までにかけての時代にローマ・カソリック教会が権力と結び人々から富と土地を奪い、一部の教職者たちの宗教的権威と神のことばとは異なる教義による独占的な利益収奪が法王庁、教会組織をとおしてすべての人々の生活にまでおよび、教会は腐敗し、10世紀頃からは、法王職が金銭的な取引きの道具となり、より富を積んだ者が法王の座を買い取り、法王職を継ぐというようなキリストの福音、信仰とはかけ離れた状況を招くまでになりました。
中世ローマ・カソリック教会の、このような腐敗は14、15世紀頃まで続き、後に、中世の暗黒時代と呼ばれるような、闇の支配が教会にまで及ぶ状態に教会が腐敗しました。
このような状態に対して中世ローマ・カソリック教会のなかからも神のことば、聖書が特定の教職者、祭司だけの一部の人々だけに属するのではなく、すべての人々が広く聖書の言葉に触れるべきだとして聖書の言葉をラテン語だけでなく、当時のヨーロッパの人々が理解できるように、夫々の国の言葉に翻訳されたり、聖書のことばに基づいた福音の理解を広めようとする人々が輩出しました。(エラスムス、ツゥイングリ、ウィックリフ、ハス等)
彼らの運動は、ローマ法王庁の権威を脅かし、教会の伝統に異を唱える(プロテスト)するものと見做されローマ教会から破門されたり、死罪に処せられたりしました。
これらの人々の行動や意見は、15世紀後半からいわゆる宗教改革者たちカルヴァン、ヴィィッテンベルグ、ズゥイングリ、ノックスなどの人たちに影響を与え、そのなかでもマルチン・ルターは、75ヵ条の誓文と呼ばれる公開質問状をローマ法王に提訴し、この運動は頂点に達しました。
これらの宗教改革の流れに対抗し、法王庁を中心とするローマ・カトリック教会にも改革の波が押し寄せ、イエズス会等の宣教集団が設立され、より広い布教活動が盛んになり、ヨーロッパ各地ばかりではなく世界中へ宣教者たちが送られました。
この頃、イエズス会から派遣されたフランシスコ・ザビエルの一行が日本に来訪し、キリスト教がはじめて日本にも紹介されました。(紀元1549年)
このような、ローマ・カトリックの宗派とプロテスタントの流れに同調する宗派間の争いは、国家間の宗教戦争にまで発展し、各地で宗派間の争いによる大量の殺戮が行われ、スペイン、オーストリア、ハンガリー、ボヘミアなどで何百万という人々が異端審問などによって犠牲となりました。(ハプスブルグ家とカトリック教会の対立)
これらの争いは、各地で何十年、時には、百年以上の期間抗争が続きました。
この頃、特に西ヨーロッパの国々は大航海時代と後に呼ばれる、法王庁を中心とする世界から未知の世界へと流動的な変化を迎える時代的変化を遂げてゆく時代を迎えました。
15世紀から16世紀の西ヨーロッパの国々は、こうしてポルトガル、スペイン、フランスなどのローマ・カトリック国家と、イギリス、オランダ、ドイツなどのプロテスタント国家とに色分けされてゆきました。
宗教改革が神の言葉、聖書によって、キリストの十字架の贖いと復活を信じ、キリストを信じる信仰によって義とされる、ことを確認する新しい運動であったにも拘わらず、いつの間にか法王庁とヨーロッパ各国の君主、カトリックとプロテスタントの争いに変わってしまいました。
改革というのは名ばかりのものとなり、各プロテスタント宗派の間でも宗派の教義ばかりが強調され、福音の素晴らしさ、聖霊の働き、聖霊の導きによって歩むことが忘れられ、生き生きとした聖霊の働き、聖霊の賜物が否定されるようになりました。
さらに、神のことばを人の理性によってのみ理解しようと古代ギリシャ哲学を土台とする人文主義や実存主義に影響されたリベラルな聖書解釈がなされるようになりました。
神のことばが人の理性を優先させる異端的なものに影響され、聖霊の働きが否定され、改革は死んだものとなってしまいました。彼らは、教会がキリストの花嫁として携挙されることはもちろん、イエス・キリストの再臨までを否定し、この世に神の国が到来することについても、それを霊的比喩と理解し、勝手に神のことばを人の理解、人の理性だけによって解釈するようになりました。
現代でも宗教改革の流れを汲む教職者のほとんどが宗派の名ばかりで、イエスの神性を否定し、キリストの贖いを完成されたものと信じていません。
そして、イエス・キリストにあって新しく生まれるということばそのものが、彼らにとって無意味なものとなってしまっています。つまり、彼らは一部の人々を残し信仰を否定しているのです。

サルデスが残りの者ということを意味し、不完全な改革を象徴していることは興味深いことであり、宗教改革の時代を代表する聖公会、ルーテル教会、プレズビテリアン、カルバン派、メソジスト教会などの各宗派が該当し、彼らの大部分が聖霊の働きが続いていることを否定し、異端の祭日に妥協し、その慣習を取り入れ、イエス・キリストへの信仰より幼児洗礼や洗礼によって救われることを教義として強調しています。

神の愛と恵みと永遠のいのちは、頭で理解することでも、神学的な定義をすることでもなく、神のみことばを信じたわたしたちの行いに反映される心からの変革をもたらすものです。(第一コリント6章9,10、 マタイ福音書10章32,33参照)

ヒラデルヒヤの教会へ

黙示 3:7 また、フィラデルフィヤにある教会の御使いに書き送れ。『聖なる方、真実な方、ダビデのかぎを持っている方、彼が開くとだれも閉じる者がなく、彼が閉じるとだれも開く者がない、その方がこう言われる。

ヒラデルヒヤは、サルデスの南東28マイルほどのところに位置し、紀元前150年頃ギリシャのアッタロス一世によって、その兄弟エウメネスのために建てられた都市です。
このアッタロスとエウメネスの兄弟愛にちなんでギリシア語のフィレオ、アデルフォス、の語を組み合わせた フィラデルヒヤ(ヒラデルヒヤ)、兄弟愛という名が付けられました。
ヒラデルヒヤは、古代国家リデアとフルギアの境界に位置し、山間の隘路にあって、小アジアの各都市と、さらに東方を結ぶ交通の要衝にあたり、貿易上の門の役割をはたす場所になりました。
ヒラデルヒアは、当時ギリシア文化、文明を東方の地に開く門の役割を持っていました。
この地域は、頻繁に起こった地震に悩まされましたが、市民はあきらめることなく都市を再建したと言われています。
ヨハネが長老としてこの地を牧するようになった頃も、福音を聞いて集まる人々の群れは少数であったようですが、彼らの信仰は純潔で真実なものであり、イエスの名を否まず、御ことばに従順であり、愛に溢れていました。
栄光のイエスはヒラデルヒアの教会に対して、永遠に生きるかた、死と黄泉の鍵を持たれるかた、キリストに属す人々を守るかた、としてあらわれています。
イエスを信じ、その名を否まないということは、単にイエスの名を聞いて知っているということではなく、それ以上にこの世でも永遠の次元でも、目に見えるものも目に見えないものも、イエスキリストがわたしたちの本当の希望や喜びを満たす鍵であるという確信に支えられてて生きることです。
ダビデの家の鍵については、どのような状況のなかでも希望と平安を得ることができる鍵を意味しています。
このダビデの家の鍵については、イザヤ書22章22節に「わたしはまたダビデの家の鍵を彼の肩に置く。彼が開けば閉じる者はなく彼が閉じれば、開くものはない。」と言及されています。
これは、紀元前720年頃ユダ王国のヒゼキア王のとき、アッシリア帝国にユダ王国が攻められ危機に瀕している時、悪執政官シュブナが罷免され、エルヤキムに執政官が交代し、彼にダビデの家の鍵が渡され、エルヤキムの善政によって敵国に囲まれた王国に希望と安全の回復をもたらす役割が期待されたときに、イザヤが告げた預言のことばとして引用されています。

黙示 3:8 「わたしは、あなたの行ないを知っている。見よ。わたしは、だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた。なぜなら、あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。

神の国を求め、魂の救い、イエスを主として聖霊の導きに人生を委ねて歩み続けるかぎり、道を見出し、門が開かれます。
「わたしの言葉を守ったからである。」と、栄光のイエスが言われるように、わたしたちには少ししか力がなくとも、イエスの名を否まず、御ことばの語ることを心を開いて聞き、神の言われることを行い、御子イエスが肉体をとってこの世に来られ、すべての人の罪の贖いを十字架の上で完成し、復活をされ御座におられ、やがて再びこの世に来られることを告白し、実を結ぶものとなるとき、栄光のイエスがわたしたちの前に誰も閉じることのできない門を開いておいてくださいます。

黙示 3:9 見よ。サタンの会衆に属する者、すなわち、ユダヤ人だと自称しながら実はそうでなくて、うそを言っている者たちに、わたしはこうする。見よ。彼らをあなたの足もとに来てひれ伏させ、わたしがあなたを愛していることを知らせる。

ヨハネが栄光のイエスの黙示を見た頃には、エルサレムの神殿は焼失し、ユダヤ人たちは世界中に散在し、旧約時代にバビロニアに捕囚となったときにもそうであったように、イスラエルの伝統を守り、神の律法やモーセの掟、戒めを伝え、解釈するシナゴーグ、会堂を建てて、そこに集まりました。成人したユダヤ人男性が十人以上住んでいる地域には必ず会堂がありました。  使徒パウロも伝道の旅で福音を伝えるとき、最初にその地域のユダヤ人の会堂に行き、そこから福音を伝えようとしました。
しかし、イエスが旧約聖書に約束されたメシアであり、イエスが十字架に架かられたのはユダヤ人のためばかりではなく、異邦人を含むすべての人々が救われるためであることを聞いた伝統と慣習に固執する多くのユダヤ人たちは、イエスの十字架上の罪の贖い、死と復活、イエスが約束されたメシアであることを受け入れませんでした。彼らは福音を受け入れず、パウロの行く先々で暴動を起こしパウロが使徒であることを認めませんでした。
パウロはこのために、異邦人たち、世界中の人々に福音を宣べ伝えましたが、ユダヤ人たちの妨害と迫害に会いました。このことは、使徒書にもパウロの書簡、手紙にも記録されています。これと同様に現代クリスチャンと自称する人々にもキリスト教の伝統や慣習に固執し、実は福音の本当の素晴らしさ、イエスが救い主であることを否定し、十字架に架かられたイエスのわざが、わたしたちの罪の贖いのためであったことを心から受け入れない人々が存在します。     

伝統に固執するユダヤ人が初期のクリスチャンたちを妨害し、迫害したように、イエスの贖いのわざがすべての人々のためであることを忘れ、あたかも宗教的に教会に属する人々だけのもの、福音が宗教的伝統に当てはまる人々だけにもたらされているかのように考える人々が、福音を自分の救いとして受け入れ心からイエスが主であることを信じる人々を迫害することが起こります。
栄光のイエスは、自分たちだけが救いの特権を得ていると自称していながらその実、イエスを主として歩むことをせずに、イエスの名を否まないで聖霊の導きに人生を委ねて歩む者を迫害するような人々が足元にきて平伏するようにする。と、言われています。イエスは、イエスの名を否まない忠実な人々を愛しておられることを知らせよう、といわれています。

黙示 3:10 あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。

栄光のイエス・キリストがヒラデルヒヤの教会に、イエスのことばに忠実な人々が患難から守られるという約束以上に確実な約束はありません。

イエスは、これから今までになくこれからもない地上で起こる患難の時が来ることを預言されておられますが、「これから起ころうとしているすべての事から逃れて、人の子の前に立つことができるように、絶えず目を覚まして祈っていなさい。」(ルカ福音書21章36参照)と述べられています。

この地球上で、人の神に対する背き、罪に対する神の怒りの時、人類の試練の時が現実となる日が近い将来必ず到来します。
そのような、地上に住む者たちを試すために、全世界に臨もうとしている試練から、忍耐についての神のことばを守る人々が守られるという約束がされています。

聖書が述べている二つの異なった試練について

聖書は、二つの異なった試練について述べています。一つは、この世の神に対する背き、人々の罪にたいする神の怒りについて述べている場合。もう一つは、罪を贖われたイエスを信じ、イエスを主として人生を歩む人々、神に従う人々にたいするサタン、サタンの支配するこの世によってもたらされる試練です。

神が背きや罪を裁かれるときの試練、

この世の神に対する背き、人々の罪にたいする神の憤りはすでにキリストの十字架の上に注がれ、イエスの死と復活によって御子イエス。キリストを信じるものには永遠のいのちが約束されていますが、イエスがわたしたちの罪の身代わりとなって罪の責めを受けて下さり、わたしたちの罪を赦されたという素晴らしい神の恵みを拒否し、この世の支配にしがみつくサタンの欺きにとどまる人々とこの世にたいして、神は今までになく、これからもない人類の試練のとき、全世界に臨む試練のときを定めておられます。わたしたちには、その日、その時が何時なのかは、わたしたちはだれも知ることができませんが、そのときが到来するときの兆候は、ちょうどノアのときのように人々は飲み、食い、めとりなどしているときに、突然訪れるという警告をイエスはされています。神がサタンの支配にとどまる人々、この世を裁かれる試練のときについては、黙示録6章から19章により詳しく述べられてゆきますが、この時のことについては旧約聖書にも詳しく預言されています。

サタン、この世がイエスを信仰する者を試すときの試練
            
イエスは、十字架の死と復活によって、すでにこの世を支配するサタンの縄目を解放され、サタンのわざを無力なものとされ、滅ぼされていますが、まだこの世はイエスが完全な所有権を宣言し、あらゆる被造物がはじめに神が創造された栄光の自由を享受するのを見ていません。   キリストは、やがて地上の所有権を宣言し、再臨されて、サタンを完全に追放し、サタンは地獄に落とされます。しかし、現在サタンは牙を抜かれたししが吠え猛けるように、未だに地上の所有権を手放そうとしていません。従って、サタンとサタンが支配する闇の世は、イエスに従う人々に対して、より激しい攻撃と迫害を加えます。このゆな試練、迫害についてイエスは、「これらのことをあなたがたに話たのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。」と、言われています。                                      

神のことばに信頼し、イエスを主なるキリストと告白し、栄光のイエスの再臨を待ち望む忠実なヒラデルヒアの教会にたいして、栄光のキリストは、神に背き、神の恵みを拒否するこの世の罪に対する神の怒りのとき、主の日、裁きのときの患難から免れると約束されています。

黙示 3:11 わたしは、すぐに来る。あなたの冠をだれにも奪われないように、あなたの持っているものをしっかりと持っていなさい。
黙示 3:12 勝利を得る者を、わたしの神の聖所の柱としよう。彼はもはや決して外に出て行くことはない。わたしは彼の上にわたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、わたしの神のもとを出て天から下って来る新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを書きしるす。
黙示 3:13 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」』

栄光のイエスは、ヒラデルヒアの教会に対して、すぐに来られる約束をされています。
イエスを救い、主キリストと信じ生きることは、現実には自分のこの世の欲望や、貪欲さ、わたしたちが生まれながらに持っている罪の性質がキリストの十字架と共に十字架上に貼り付けられ、キリストの死とともに葬られ、キリストが復活されたように、罪の自分を死んだものと見做して新しいいのちに生きることです。このような生き方は、わたしたちがキリストにあって神に生きていることを認め、神に従って義に至る霊の実を結ぶ生き方です。
神の愛、神の恵みをわたしたちと共におられる神の霊によって受け入れないかぎり、自分の思いや決心だけで本当に自分を捨てて他の人を愛することは不可能です。
「愛さない者は、神を知らない。神は愛である。」(第一ヨハネの手紙4章8)

イエスを救い主、主として生きるかぎり、この世では、わたしたちは試練を受けます。しかし、キリストにあって新しくされた人々には永遠の重い栄光を神から受ける確実な希望を与えられています。(第二コリント人への手紙4章16-18参照)

栄光のイエスがここで言われている、すぐに来るという約束は、直接的にはヒラデルヒヤの教会に対して言われている約束です。しかし同時に、この約束は全世界に臨もうとしている患難の時代の始まる前にヒラデルヒヤの教会ばかりでなく、イエスに従うイエスのからだ、イエスの花嫁である教会が携挙されることを意味しています。                                    

神の怒りの日、患難の時がこの地上に始まる前にイエスの花嫁、イエスのからだである教会が携挙されるのは「神は、わたしたちを怒りにあわせるように定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによって救を得るように定められた。」(第一テサロニケ5章9)のです。
「わたしたちは、キリストの血によって今は義とされているのだから、なおさら、彼によって神の怒りから救われる。」(ローマ人への手紙5章9)のです。イエスは、「純潔で真実な信仰、イエスの名を否まず神の言葉に従順で生き生きとした愛に溢れる証しによって増し加えられたヒラデルヒャの教会の人々に冠りを誰にも奪われないように、持っている信仰、イエスの名、純潔と真実、生き生きとした愛を堅く守っていなさい。」と、言われています。(聖書の預言、パワ‐・ポイントの解説「イエス・キリストの再臨と携挙」参照)

聖書にはイエスに従う人々に与えられる冠りについて、幾つかの箇所で述べられています。
信仰を守り、走るべき行程を走りつくした者に与えられる義の冠り(第二テモテ4章8参照)
試練に耐える者に与えられるいのちの冠り(ヤコブ書1章12、黙示2章10、)
神の羊の群れを牧する者に与えられる栄光の冠り(第一ペテロ5章4参照)
イエスに似る者へと変えられる目標に向かって一心に最後まで人生を全うする者に与えられる朽ちない冠り(第一コリント9章25参照)
栄光のイエスは、イエスの名を否まず、従う者に与えられるこれらの冠りをだれにも奪われないようにとヒラデルヒヤの教会を励まされています。                    

神から新しい名を与えられることについては、たとえばヤコブ(יעקב yah-ak-obe'足を掴む者という意味)という名は、ヤコブが兄エソウから相続権と長子権を奪い、パダン・アラムの叔父ラバンのもとへ逃げ、レアとラケルの嫁、レアのつかえめジルハ、ラケルのつかえめビルハを妾として十二人の息子たちを連れて故郷に戻ったとき、マハナイムの地で兄エソウが送った屈強な家僕と出会い、その晩あらわれた神の人と一晩中争い、ヤコブのもものつがいが、組打ちするあいだにはずれ、祝福を泣いて願ったヤコブが、名をヤコブからイスラエル(ישׂראל yis-raw-ale'神に支配される者という意味)と変えられたように、聖書には神によって名を変えられ新しい名を与えられた人々の歴史物語が数多く記録されています。
これと同じように神から名を与えられ、新しい名によって神の聖所における柱となり、神のみもとから下ってくる新しい都エルサレムを都とする神の国の重要な一部となって、キリストと共に新しい神の国を治め、仕える特権が与えられるという約束が、このヒラデルヒヤの教会に与えられています。

ヒラデルヒヤの教会は、歴史的には十八世紀の最後半頃から現代に至るまでの時代の聖書のみことばに文字通り忠実な教会に該当します。
十八世紀の最後半には、西ヨーロッパ大陸において人文主義、ヒュ-マニズムが台頭し、人民が国家の主体であるとする思想によって、王権政治にたいする革命が各国に起こりました。
このようななかで、宗教と政治が必ずしも一体化されたものではなく、信仰が個人の問題なのだという意識が人々の間に浸透してゆきました。しかし、このために信仰を人間の理性によって理解しようとすることが強調され、天と地を創造された神の存在、イエス・キリストの神性、聖霊のはたらき、聖書のみことばの絶対的権威といった基本的な規準にたいして疑問が投げかけられるということが起こり、極端な人文主義の立場に立つ人々から聖書にたいする伝統的な神のみ言葉の絶対性を否定するということが起こりました。こうした改革の流れのなかでも、聖書のみ言葉の絶対性、イエスの贖いと人類の罪からの解放、聖霊の導きの福音を個人的に受け入れる人々によって国家のあり方が変えられてゆくという影響が与えられました。福音を受け入れ、イエスの名を否まず、聖書のみ言葉に忠実な愛に溢れたヒラデルヒアの教会に該当する人々を栄光のキリストは誉めておられます。

ラオデキアの教会へ

黙示 3:14 ラオデキヤにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『アァメンたる者、忠実な、まことの証人、神に造られたものの根源であるかたが、次のように言われる。

ラオデキアは、紀元前250年頃、シリアのアンティオコス二世のとき、ヒラデルヒアの西南約40マイルの場所に建てられ、アンティオコスの妻ラオデケにちなんでラオデキアと名付けられたと言われています。                                 

ラオデキアと言う意味は、ギリシア語のラオス、λαός lah-os'人々という意味と、デキア、δικαστήςdik-as-tace'決めるという意味を組合わせた言葉となっています。この地域では実際に人々がこの都市の重要事項をみんなで決めるというやり方をとっていました。
ラオデキアは、産業と金融商業によって栄え、特に平原で飼育される羊から採れる羊毛の衣類を生産し、各地にこれを売って富を増した都市でした。ラオデキアで生産される黒い羊の衣は、当時の古代世界で珍重されたファッションとなっていたようです。さらに、劇場や競技場が建てられ、市民はそこでの娯楽に興じ、ローマ時代となっても娯楽の盛んな土地として人々が集まりました。
このように、ラオデキアの地域は、人々が娯楽に興じる余裕のある富裕で繁栄した地域でしたが、古代の都市としては軍事的な防備のない平原の真ん中に位置していたために近隣都市や国家との政治的妥協を常に計ることで存続を保ってきました。
このラオデキアからすぐ近く(約5,6マイル)に離れたヒエラポリスには温泉が湧き、水路を通って温泉の水がラオデキアを経てコロサイの地まで送られました。この温泉は当時のローマ世界にも有名で、この温泉をもとにラオデキアには医学校がつくられ、ことに粉末の目薬は古代世界に広く知られていたようです。この温泉は飲料水としても使われましたが嫌な味となまぬるさで吐き気を催すものであったと言われています。
栄光のイエスは、ラオデキアの教会に対してアァメンたる者、忠実なまことの証人、神の創造の根源としてあらわれています。
神の御子イエスは、その十字架の血によって平和をつくり、万物、すなわち、地にあるもの、天にあるものを、ことごとく、彼によってご自分と和解させて下さいました。(コロサイ人への手紙1章20参照)
神の約束はイエスにあって現実なものであり、イエスは十字架の上で血を流され、ご自身の肉体の死を賭して忠実なまことの神の証しとなって下さり、わたしたちに対して神の恵みの約束がアァメンとなる方となってくださいました。イエスこそがすべての創造の源となっておられる方です。

ラオデキアの教会の人々は、表面的、主観的な幸福によって神の祝福を浅いものとしてしまい、相対的で目に見えるものに重きを置くようになってしまいました。彼らの信仰は、神のイエスにある絶対的なご計画、恵みの深さから程遠いものでした。
「万物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、位も主権も、支配も権威も、みな御子にあって造られたからである。これらいっさいのものは、御子によって造られ、御子のために造られたのである。彼は万物よりも先にあり、万物は彼にあって成り立っている。」(コロサイ人への手紙1章16,17参照) 

黙示 3:15 わたしはあなたのわざを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。
黙示 3:16 このように、熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう。

栄光のイエスは、ラオデキアの教会の人々の信仰とそのわざが、なまぬるい中途半端なものであると言われています。イエスは、ラオデキアの人々の信仰がなまぬるくなった理由を、

黙示 3:17 あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、なんの不自由もないと言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない。

ことだ、と言われています。                          

ラオデキアの人々は物理的には恵まれ目に見えるものによれば富んでいるように見えましたが、目に見えるものに頼り、物理的なものに信頼しているために神の愛に心を燃やすことがなく信仰的にはなまぬるい状態に陥っている、と言われています。
彼らは神の恵みを信じても日々の歩みのなかでイエスを主として心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くした歩みよりこの世の目に見える事柄に心を奪われ、イエスを主とし第一として歩んではいませんでした。
イエスに対して熱くもなく、神の救いということに反対する冷たい状態でもなく、二つの状態が混ぜ合わさったなまぬるい状態だったのです。

わたしたちも、しばしば、まわりの状況や他人との比較で自分がより正しいとか、物質的な豊かさを誇り、自分が大丈夫であるという評価をします。
しかし、栄光のイエスがわたしたちを評価されるときの基準は、廻りの状況や他との比較ではなく、わたしたちがどれだけイエスに信頼し、神の御計画に忠実であるか、どのような状況のなかでも、人として来られた完全なイエスを基準としているか、神のみ心にかなう人となられたイエスを規準として人生を歩んでいるか、ということなのだと言われています。
「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。これに聞け」。 (マタイ福音書17章5参照)
ラオデキアの教会の人々に対する栄光のイエスの警告には、自分を他人に比べて義人とする錯覚に対する警告が含まれています。(取税人とパリサイ人の挿話、ルカ福音書18章9-19参照、「わたしは言っておく。あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない。」マタイ福音書5章20のイエスの宣言、参照)

黙示 3:18 そこで、あなたに勧める。富む者となるために、わたしから火で精錬された金を買い、また、あなたの裸の恥をさらさないため身に着けるように、白い衣を買いなさい。また、見えるようになるため、目にぬる目薬を買いなさい。
黙示 3:19 すべてわたしの愛している者を、わたしはしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって悔い改めなさい。

栄光のイエスは、ラオデキアの教会の人々に、本当に富む者となるためにイエスから火で精錬された金を買いなさい。より純化されたものとなるために試練をとおして神の愛のなかに身をおく精錬された尊い金よりも素晴らしい信仰の実を結ぶ者となりなさい。そして、裸の恥をさらさないため身に着ける白い衣を買いなさい。と、言われています。
イエスは、愛する者が、試練をとおしてより純化された信仰を成長させ、実を結ぶ者へと変えられ、わたしたちが心を尽くしてイエスを求め、イエスを主として人生を歩むことを求めておられます。                          
教会に日曜に一度礼拝に行くだけで、もし毎日の生活が、すべてこの世のもの、この世の事柄だけに捉われ、みことばに関心のないことがあります。
イエスは、御言を聞くが、世の心づかいと富の惑わしとが御言をふさぐので、実を結ばなくなる人のことについて警告されておられます。(マタイ福音書13章22参照) イエスは、わたしたちが成長し、実を結ぶ者となるために、安楽なところに留まるだけではなく、一歩を踏み出しなさい、と言われています。わたしたちは一歩を踏み出すときに常に肉の思いと霊の思いのせめぎ合いの中に置かれていることに気付かされますが、同時にそのようなとき、主が共におられ決して弱り果てることのない力を与えられ、試練をとおして神の愛のなかに身をおき身を結ぶものへと変えられます。       
イエスは、裸の恥をさらさないため身に着ける白い衣を買いなさい。と、言われていますが、白い衣は、イエス・キリストにある義の衣、神がわたしたちに着せて下さるイエスの福音による義の衣のことを指しています。ラオデキアの人々の自慢であった黒い羊毛で作られる衣ではなく神の恵みの白い衣を着なさい。と、言われています。そして、ラオデキアの人々が使っていたように、一時的な痛みを伴ってもよく効く粉末の目薬を目に摩り込んで目のみえる者となりなさい。と言われています。

黙示 3:20 見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。

栄光のイエスが、「戸の外に立って、たたいている。」というこの箇所は、しばしば人々に福音の招きを受け入れる勧めとして使われます。しかし、栄光のイエスがラオデキアの教会の人々に向かって言われているのは、彼らが自分たちには信仰がある、大丈夫と思っているときにイエスが中にはおられないで外に出て、戸の外からたたいておられることに注意する必要があります。

イエスはわたしたちの意志を尊重され心の戸をこじ開けるようなことはされません。しかし、心を尽くしてイエスに信頼し、日々の歩みを歩んでいないとき、内に住まわれるイエスの霊を心のうちからわたしたちが閉め出してしまうことがあるということをこの箇所は示しています。
イエスはどのようなときにもわたしたちの心の内に住まわれて共にわたしたちの人生を導かれようとされています。わたしたちが心を開いて、最も親密なイエスとの交わりを持ちたいと願われているのです。イエスと共に食事をし、同じものを食べ、お互いの部分となろう、とイエスは言われています。

黙示 3:21 勝利を得る者には、わたしと共にわたしの座につかせよう。それはちょうど、わたしが勝利を得てわたしの父と共にその御座についたのと同様である。

栄光ノイエスと共に神の御国の座を得るものとなるよう、勝利を得る者となりなさい。復活の勝利を得られたイエスを主として歩む人々に勝利の約束が述べられています。

黙示 3:22 耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい』」。

ラオデキアの教会は、明らかに終末の時代の教会、時代的には19世紀から現代、異邦人の時が満ち(ルカの福音書21章24参照)、キリストの花嫁である教会が携挙される(マタイ福音書25章1-15参照)までの教会に該当しています。 

この時代の特徴は人々が情報を蓄積し、知識を増し、技術革新と物質的な富がもたらされ、進化論、人文主義、民主主義、の発達に伴い人々がすべてを決め、この世の妥協と罪にたいすろ寛容が一般的となっています。

この世との妥協、自分たちの目に正しいと主張し、物理的な富に甘んじているラオデキアの教会の人々に栄光のイエスは、もう一度立ち返ってイエスを主とし、心を尽くしてイエスと共に歩むように警告されています。

これまで、ヨハネの見たこと、栄光のキリスト、今あること、教会の時代について見てきました。4章からは、これからのこと、キリストの花嫁である教会が、この世の舞台から消え終末の時代の激動、この世の神にたいする背信、神の怒りの時代の到来んついて見てゆくことになります。



 
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