永遠のいのち、いのちの木の実   

(黙示録22章の講解)

黙示 22:1 御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、
黙示 22:2 都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。  

ヨハネは、新しい天と新しい地が創造された後で天使によって見せられた新しいエルサレムの都に流れるいのちの川について述べています。
この川は神と小羊との御座から流れる川ですが、わたしたちが知っているどのような川とも異なっています。

すでに19章でイエス・キリストの再臨の様子を見てきました。      

キリストは再臨されるとき復活されて昇天されたオリブ山に再臨されます。  そのとき、オリブ山が真っ二つに分かれ、これによって山と山のあいだに渓谷が出現し、エルサレムの聖所から川が流れ、この川は二つに分かれ、一つの流れは現在の死海に流れ込み、死海が生きた川の流れとなり、あらゆる種類の魚が住むようになり、もう一つの流れは地中海に流れ込むという預言が実現します。(ゼカリヤ書14章4,8参照)
そして、この川の両側の岸には月々に異なった実を結ぶ木があり、この実は食用にもなり葉が薬ともなります。(エゼキエル書47章12参照)

20章ではすべての人々が想像を超えた栄光ある豊かさのなかに、解放と喜びと完全な義の宿る光の千年の神の国がこの世に実現することを見てきました。
この栄光の千年の神の国が地上に実現するとき人々はエルサレムに来て、この川の両側の岸に月々に異なった実を結ぶ木から実をとって食べ、木の葉は人々をいやします。

新しい天と新しい地を神が創造されるとき、天空に浮かぶ新しい都には水晶のように光るいのちの川が流れています。                この川の両岸にも千年王国のときに人々をいやした木と似通った木があり、この木からは十二種の異なった実がなり、毎月、実ができ、その木の葉は諸国の民をいやします。

黙示 22:3 もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、
黙示 22:4 神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。
黙示 22:5 もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。
黙示 22:6 御使いはまた私に、「これらのことばは、信ずべきものであり、真実なのです。」と言った。預言者たちのたましいの神である主は、その御使いを遣わし、すぐに起こるべき事を、そのしもべたちに示そうとされたのである。
黙示 22:7 「見よ。わたしはすぐに来る。この書の預言のことばを堅く守る者は、幸いである。」

新しい地にはもうすでに罪ののろいが存在しません。
わたしたちの知っている現在の地上は罪によってのろわれ、「土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。」(創世記3章18,19)という状態にあります。
罪ののろいがもはや完全に取り去られた新しい天と新しい地では、心の清い人々が神に仕え、直接に神の御顔を仰ぎ見るのです。(マタイ福音書5章8参照) 

はじめに神が天と地を創造され、はじめの人アダムとエバを神ご自身に似せて造られ、完全な楽園であるエデンの園に彼らを置かれたとき、神は人がその実からとって食べることのできる木々を与えられ、そのなかに二つの特別な木を置かれました。一つは善悪を知る木であり、もう一つはいのちの木でした。
善悪を知る木の実を取って食べることを神は禁じられましたが、人は誘惑者がやって来たとき神の警告のことばよりも誘惑者のことばを選び、いのちの木の実から取って食べることなく、神の警告どおり誘惑者に従い、神との交わりから絶たれ滅びるものとなってしまいました。

新しい天と新しい地が創造され、栄光の滅びることのない身体に変貌した人々は、ふんだんに、いのちの木の実から取って食べ、永遠に神の御顔を仰ぎ、主なる神の栄光の光に照らされ生きるものとされるのです。

このような、想像を超えた素晴らしい栄光に満ちたことがすべて現実に起こる神の約束であり、すぐに起こるべきことを知らせるために、神は天使をとおしてヨハネに、この幻を示され「これらのことばは、信ずべきものであり、真実なのです。」「見よ。わたしはすぐに来る。この書の預言のことばを堅く守る者は、幸いである。」と、念を押されました。

黙示 22:8 これらのことを聞き、また見たのは私ヨハネである。私が聞き、また見たとき、それらのことを示してくれた御使いの足もとに、ひれ伏して拝もうとした。
黙示 22:9 すると、彼は私に言った。「やめなさい。私は、あなたや、あなたの兄弟である預言者たちや、この書のことばを堅く守る人々と同じしもべです。神を拝みなさい。」

ヨハネは、この約束の幻、それを伝える天使のことばの素晴らしさに圧倒されて、それらのことを示してくれた御使いの足もとに、ひれ伏して拝もうとしました。
すると、天使はヨハネに、「やめなさい。私は、あなたや、あなたの兄弟である預言者たちや、この書のことばを堅く守る人々と同じしもべです。神を拝みなさい。」 と、注意をしています。

ヨハネはこの黙示録のなかでも一度ならず栄光の幻を天使をとおして見せられたとき、天使を拝もうとする誤りを犯しています。どんなに栄光に満ちた神のメッセージを伝えられても、神の栄光を伝える道具として神に仕える天使を拝むことは誤りであり、わたしたちの拝む本当の対象は唯一の全能にして栄光の神のみでなければなりません。

黙示 22:10 また、彼は私に言った。「この書の預言のことばを封じてはいけない。時が近づいているからである。
黙示 22:11 不正を行なう者はますます不正を行ない、汚れた者はますます汚れを行ないなさい。正しい者はいよいよ正しいことを行ない、聖徒はいよいよ聖なるものとされなさい。」

多くの人たちが黙示録は難しい、封じられた書だといって黙示録を読もうとしません。しかし、天使はヨハネに「この書の預言のことばを封じてはいけない。」と言っています。1章19節に示されている概要に従えば、黙示録に記されていることは大変はっきりとしています。この黙示録は、封じられた書ではなく封じられてはならない書なのです。

もしこの黙示録の預言を読んだ後も、あなたが神の恵み神の小羊が完成され約束された神の国の栄光を拒否し続け、神に背を向け不義のうちにとどまり続けたいのなら、不正を行なう者はますます不正を行ない、汚れた者はますます汚れを行ない滅びに至る他ありません。

黙示録を読み、その預言の確実さを理解したうえでわたしたちが確信をもって言えることは、「イエスを主として人生を歩み、神の国を待望し、自分の生涯をそれに賭けよう。」ということ以外にはありません。

黙示 22:12 「見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。
黙示 22:13 わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」
黙示 22:14 自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都にはいれるようになる者は、幸いである。

人々はイエスに従うということを複雑にしようとします。しかし、「神のわざを行うために何をしたらよいのでしょうか。」という人々の質問にイエスは「神がつかわされたものを信じることが神のわざである。」(ヨハネ福音書6書28、29)と答えられています。

イエスに従うことは複雑でもなく難しいことでもありません。神の愛によって、イエスキリストとの交わりを持ち続け、状況に拘わらず一瞬一瞬をイエスに信頼することは幼子にでも出来ることなのです。

心からイエスに信頼するとき、神は必ずわたしたちの叫びを聞いていてくださいます。
ペテロはイエスへの信頼のことばを「主よ。お助けください。」(マタイ14章30)と簡単に表現しています。もっと簡単な表現は「主よ。」と心からイエスを告白し、自分の心で神が死人のなかからイエスをよみがえらせたことを信じるなら救われるのです。(ロマ書10章9)

黙示 22:15 犬ども、魔術を行なう者、不品行の者、人殺し、偶像を拝む者、好んで偽りを行なう者はみな、外に出される。
黙示 22:16 「わたし、イエスは御使いを遣わして、諸教会について、これらのことをあなたがたにあかしした。わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。」
黙示 22:17 御霊も花嫁も言う。「来てください。」これを聞く者は、「来てください。」と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。

犬ども、とこの箇所で言われている人々は、律法的に自分を義とする者のことです。(ピリピ書3章2)そして、まじないをするもの、原語のギリシャ語ではファーマキアとは、文字通り麻薬や薬物に依存する者のことを指しています。

イエスは、「わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。」と言われています。

「来たりませ」という招きのことばは、失われた人々、罪ののろいに捕らえられている人々に向けて言われていることばです。神は常にこの世の罪に捉われている人々に対し招きのことばを投げかけ、同時にイエス・キリストの救いによって罪の裁きと滅びから解放されキリストの花嫁とされた人々にも「来たりませ。」という招きを人々に呼びかける特権を与えられています。

聖書全体をとおして、人々は常に神からの「来たりませ。」という招きを受けています。

「さあ、来たれ。論じ合おう。」と主は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」(イザヤ書1章18)
「 ああ。渇いている者はみな、水を求めて出て来い。金のない者も。さあ、穀物を買って食べよ。さあ、金を払わないで、穀物を買い、代価を払わないで、ぶどう酒と乳を買え。」(イザヤ書55章1)
「 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ福音書11章28)
イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。(マルコ福音書10章14)
イエスは彼らに言われた。「来なさい。そうすればわかります。」そこで、彼らはついて行って、イエスの泊まっておられる所を知った。(ヨハネ福音書1章38) 

黙示 22:18 私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。
黙示 22:19 また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。

このような、はっきりとした警告が与えられているのに、黙示録に書いてあることに余計なことを付け加えたり、勝手に記されていることばを削ったりすることが愚かなことであることがわかります。しかし、人々はこの箇所の警告にもかかわらず余分なことを付け加えたり、勝手に言葉を削ったりしようとしてきました。

黙示 22:20 これらのことをあかしする方がこう言われる。「しかり。わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。
黙示 22:21 主イエスの恵みがすべての者とともにあるように。アーメン。

旧約聖書の最後のことばは、マラキ書4章6節の箇所「それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」ということばで終わっています。これは、罪ののろいによって滅びが来ることにたいする警告の律法のことばです。しかし、新約聖書の最後のことばは、「主イエスの恵みがすべての者とともにあるように。アーメン。」という恵みと祝福のことばで終わっています。



 
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