実現する神の御国-キリストの千年王国、白い御座の裁き   

(黙示録20章の講解)

王の王、主の主であるイエス・キリストが再臨し、ハルマゲドンの戦いのクライマックスもあっけない結末を迎え、イエスの栄光の輝きと、その口から出る絶対的なことばによって、サタンの化身ともいうべき反キリスト、偽預言者をはじめ神に反逆し、イエスの救いを受け入れなかった者たちが完全に滅ぼされるのを19章で見ました。

20章は、神の御国がこの世に到来し、御国が千年の期間続くことが述べられています。 

黙示 20:1 また私は、御使いが底知れぬ所のかぎと大きな鎖とを手に持って、天から下って来るのを見た
黙示 20:2 彼は、悪魔でありサタンである竜、あの古い蛇を捕え、これを千年の間縛って、
黙示 20:3 底知れぬ所に投げ込んで、そこを閉じ、その上に封印して、千年の終わるまでは、それが諸国の民を惑わすことのないようにした。サタンは、そのあとでしばらくの間、解き放されなければならない。

神の御国がこの世に到来するとき、サタンが千年の期間底知れない地獄に閉じ込められます。ここには、そのときの様子が最初に描かれています。

ヨハネは御使いが底知れぬ所のかぎと大きな鎖とを持って、天から下って来るのを見ています。
この御使いは、サタンと悪霊となった天使たちを、底知れぬ所の地獄へ閉じ込めるために鍵と大きな鎖を持って天から下ってきました。
底知れぬ所という言葉は、ギリシア語でアブソἄβυσσος(ab'-us-sos)という言語が使われ、軸という意味をもっています。

わたしたちは、時にサタンが神に対抗する者のように思いますが、サタンは神の神聖さ、栄光、絶対的な力を侵すことはできないということを覚えておく必要があります。
サタンは、天において大天使ガブリエルやミカエルに対抗する力を与えられていたかもしれません。しかし、この箇所を見るときサタンの力が取るに足らないものであることがわかります。
サタンはゲヘナと呼ばれる最終的な裁きの場所、硫黄の燃えている火の池に投げ込まれる前に、天から下って来た御使いによって一瞬の間に捕らえられ、千年の期間鎖につながれて底知れぬ所地獄に封をされて閉じ込められます。

サタンは現在、使徒パウロが「罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って歩む」(エペソ書2章2)と述べているように人々を支配しています。
そして、ときには、光の天使のように現れ、人々を欺き、誘惑し、神に背くように人々を仕向け、偽りによって罪に陥った人々を絶えず非難し、欠点を指摘し、罪に定め滅びに至らせています。

イエスは、悪魔の業を打ち破り、この世を買い戻すために来られました。

イエスが最初に来られた時、サタンは高い山の上にイエスを連れて、この世の栄華を見せ、「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」(マタイ4章9)また、もしイエスが、十字架などに架かることを止めてサタンを拝むのなら、一瞬のうちにこの世の栄華をあげましょう。と、申し出たのです。

これに対してイエスは「御言葉に書いてあるとおり---。」と言われ、サタンの巧みな誘惑に乗らず、『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』「さがれサタン」と言われました。 しかし、このときイエスはこの世がサタンの支配下にあることを否定されませんでした。
サタンは、最初の人を誘惑した時と同じように今もあらゆる手で、わたしたちを誘惑し、偽りの囁きかけをし、欺き、束縛しようとしてい るのです。

わたしたちは、キリストが来られこの世の所有宣言をされ、この地上に神の国を建てられることを切に祈っています。
そのことを切望するからこそ、「あなたの御国がきたりますように。御心が天でおこなわれるように、この地上でも御心がおこなわれますように。」と常に祈ります。

イエスは十字架に架かられ、贖いを完成されこの世を買い戻されました。         

黙示録4章から19章までのあいだにキリストを信じる人々が引き出され天でキリストが地球の所有権を宣言され、キリストを拒む人々が地上で起こる患難のときを過ごす様子を見てきました。     
そして、キリストが再臨するときに、いよいよわたしたちは神の国がこの世にもたらされるのを見ることになります。 

キリストが再臨され、天から下ってきた御使いがサタンと悪霊となった天使たちを鎖に縛り、底知れぬ所の地獄で鎖につなぎ封をして千年の期間閉じ込めてしまうときに、御国がきたり、御心が天でおこなわれるように、この地上でも御心がおこなわれるということが現実のものとなります。

そして、イエスに信頼し天に引き上げられたわたしたちも、そのときにキリストと共に栄光のうちに御国に仕え、治める者として地上に現れます。

黙示 20:4 また私は、多くの座を見た。彼らはその上にすわった。そしてさばきを行なう権威が彼らに与えられた。また私は、イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましいと、獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た。彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。
黙示 20:5 そのほかの死者は、千年の終わるまでは、生き返らなかった。これが第一の復活である。

ヨハネが見た多くの座があって、その上に座り裁きの権能をあたえられた人々は、患難の時代にイエスが栄光のキリストであることを信じた人々です。この人々は、患難の時代、反キリストによって地上で迫害を受け殺された人々です。彼らは生き返ってキリストとキリストの花嫁である教会とともに神の国を千年の期間治めます。
こうして、神の国がこの地上に到来する時は、神の栄光がすべてのものに及び、人々は病気から癒され、イエス・キリストの千年の支配の間、全てが義となる世界が出現します。    

この理想的な環境の中で、贖われた人々は栄光の体を持ってこの神の国でキリストと共に治めるものとして、そのすばらしい状態を体験するのです。

恵みと救いのときにイエスの贖いを受け入れ、イエスを主として人生を歩み携挙されたキリストの花嫁である教会と、患難の時代にイエスが栄光のキリストであることを信じ反キリストによって地上で迫害を受け殺された人々は、キリストが再臨され神の国を治められるとき生き返って第一の復活にあづかる者となります。そして、そのほかの死者は千年の終わるまでは生き返りません。

黙示 20:6 この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対しては、第二の死は、なんの力も持っていない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる。

神の国がこの地上に到来する時には、嫉み、妬み、奢り高ぶり、争いなどの存在しない全くの平和のなかで、心の傷や悲しみを持つ者のない、すべての人々が想像を超えた栄光ある豊かさのなかに、解放と喜びと完全な義の宿る光の世界が訪れます。

素晴らしい神の国が現実のものとなるとき、状況を超えてイエスを主としてキリストに信頼して人生を歩んだ人々は、神の国において大きな責任と役割を与えられ、滅びることのない栄光の身体をもってともに治めるものとなります。
そのとき、人々はこの人生において神に信頼したその度合いに応じて役割を与えられます。
イエスを主として人生を歩み、その信頼の度合い、神がわたしたちの手にそれぞれ預けられ、与えられるすべてのことに忠実であり、勤勉であればあるだけ、神の国でも大きな役割が与えられます。

キリストは千年の間、神の国を支配され、第一の復活にあづかった人々は主と共に地上の王国の祭司として治める事になります。そして、彼らは主に会いに年に一度エルサレムへ行く、と聖書に述べられています。

人々は病気から癒され、罪の性質に従う事から制限されます。イエス・キリストの千年の支配の間、人々は正しく義なる生活を送る以外の選択はありません。この理想的な環境の中では、悪に心を向ける機会はありません。第一の復活にあづかった人々は特別な力と栄光の体を持って正義が全人類に執行されるようにキリストと共に仕え、治めます。そして人々はその千年間、義なる人生を送り、そのすばらしさを目の当たりにします。

黙示 20:7 しかし千年の終わりに、サタンはその牢から解き放され、
黙示 20:8 地の四方にある諸国の民、すなわち、ゴグとマゴグを惑わすために出て行き、戦いのために彼らを召集する。彼らの数は海べの砂のようである。
黙示 20:9 彼らは、地上の広い平地に上って来て、聖徒たちの陣営と愛された都とを取り囲んだ。すると、天から火が降って来て、彼らを焼き尽くした。
黙示 20:10 そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。

この地上で栄光に満ちた千年の期間の神の国の終わりに、底知れぬ所の地獄で鎖につながれ封をされて閉じ込められていたサタンはその牢から一時解き放たれます。
折角、素晴らしい神の国がこの世に来て、キリストが直接治められる悪の存在しない理想的な社会が出現した後に、たとえ一時的であっても、何故サタンが解き放たれることを許されるのだろう、という疑問を抱きます。

この千年の期間に生まれ、サタンの誘惑や悪の存在しない、惑わしの虜となるような選択肢のない多くの人々は、自発的に神の愛を選び取るという選択を経験していません。
神がエデンの園に善悪の知識の木を置かれてアダムの神に対する愛と献身を試されたように、千年王国の終わりに地上に住む人々が自発的に神の愛に信頼するのか、サタンの誘惑を選ぶのかという選択を与えられます。

神はしばしば私達が本当にどれだけ神を愛しているのか、限界まで私達をテストなさいます。
そして、時々サタンはその神のテストの道具となります。 

神との愛の関係を結び、愛が本物であるためには、神からの祝福や、神からの富ではなく神ご自身との交わり、神を選択することによって、そのことが証しされます。
わたしたちの神にたいする愛は、欺きや誘惑、試練をとおして神に信頼するとき、本物であるかがわかるのです。
 
罪の問題が引き起こされるのは、人々の周りの環境や状況ではなく人々の心の内側、意志的な選び取りによって起こされるのであって、神に従うのか、神に背くのかを主体的に選ぶことがなければ人は神との本当の愛の関係を築くことはできません。

神は人々が選び取りによって神の素晴らしいご計画に従い、愛の関係を持つことを望んでおられますが、人が主体的に選び取りをするためにあえて、サタンを解き放たれ、その欺きを許されます。

ここでゴグ、マゴグという名は、神に反抗する者という意味と同義語として使われています。 
エゼキエル書38章、39章には終わりの時代に突如イスラエルを襲うゴグ、マゴグの名が出てきますが、この箇所のゴグ、マゴグと混同しないよう気を付ける必要があります。
サタンは大した努力もせずに大軍勢を召集し、正しい者達を滅ぼす為に彼らの回りを取り囲むように説得します。「彼らは、地上の広い平地に上って来て、聖徒たちの陣営と愛された都とを取り囲んだ。」(黙示録20章9節前半)
しかし、神はその反抗がほとんど始まる前にサタンとその軍勢を踏みつぶします。「すると、天から火が降って来て、彼らを焼き尽くした。」(黙示録20章9節後半) 

こうして、千年の期間の神の国の終わりに鎖につながれて底知れぬ所に封をされて閉じ込められていたサタンが一時的に解き放たれ、サタンに従った人々は天から降ってくる火によって焼き尽くされ、彼らを惑わしたサタンの空しい短い抵抗が砕かれ、彼らは聖なる御使いたちと子羊との前で、火と硫黄との池に投げ込まれ永遠に昼も夜も苦しみを受けます。

黙示 20:11 また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。
黙示 20:12 また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。
黙示 20:13 海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。
黙示 20:14 それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。
黙示 20:15 いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。

イエスの贖いを受け取らなかった人々が神の白い御座の前にひきだされ、人類すべてにたいする歴史的な神の最終的な裁きが行われます。 
それが、この箇所に描かれている白い御座の裁きです。この神の大きな白い御座の裁きは第二の復活のときにおこなわれます。
ダニエルは死者の復活について、「 地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者が目をさます。ある者は永遠のいのちに、ある者はそしりと永遠の忌みに。」(ダニエル書12章2)と、述べていますが、すべての人が復活します。

第一の復活にあづかった人々はすでに神の国で仕え、治める者として栄光のキリストと共に栄光のからだを与えられています。そして、第二の復活にあづかる者は、千年の神の国の終わりに最後の裁きを受けるために復活します。

第一の復活にあづかる者は幸いなるもの、聖なるものであることを見てきましたが、第一の復活と第二の復活は、時間的に千年の期間が離れています。

復活をしたすべての者、天上のもの、地上のもの地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、イエス・キリストは主であることを告白せざるを得ない裁きの大きな白い御座の前に立つことになります。
キリストは十字架に架かり、罪の贖いを完成され、黄泉に下り、そのときにアブラハムの懐にいてメシアを信じて死んだ旧約の時代の人々を解放されました。しかし、黄泉において大きな淵に隔てられている火の燃える場所に葬られていた人々は、千年王国の終わりの神の白い御座の裁きのときにそこから出だされます。
「海はその中にいる死人を出だし」とここで述べられていることは、そのことを意味しているようです。
神の大きな白い御座の前で裁かれる人々は、そのしわざによって裁かれます。神の裁きの基準は完全であり、人としてこの世に来られたキリストの義と比べて一人一人が裁かれるのです。

栄光の神と一つであられた方イエスが、わたしたちと同じ人となられ、人の神にたいする背きの罪の責めと裁きを帳消しにされ、贖いを完成してくださったということは、人間の理解の範囲をはるかに超えた素晴らしい恵みです。わたしたちは、その恵みを信仰によって受け取るときに、神の大きな白い御座の裁きの前で自分の罪を負わなくても済むのです。

もし自分自身の努力や善行、自分の功績によって神の前にたつことが出来ると思う人々は、神の大きな白い御座の前で、その行いが本当に完全であるかどうかを試され、裁かれます。それは、その行いが神の御子キリストの義と比較して完全でないことについての裁きを受けるのです。

人々は、この世での行いや、思いや、動機をすべて知られる宇宙の創造者である神の前でいのちの書に記録された人生のすべてを記録した書物が開かれ、人生において神のわざをおこなったかどうかが裁かれます。

いのちの書については、聖書全体をとおして言及されています。(出エジプト記32章32、詩篇69篇28、ダニエル書7章10、ピリピ書4章3、黙示録3章5、黙示録13章8、黙示録21章27 参照)

ダニエル書の預言にはそのときの裁きといのちの書が開かれる様子が次のように描かれています。

「 わたしが見ていると、もろもろのみ座が設けられて、日の老いたる者が座しておられた。その衣は雪のように白く、頭の毛は混じりもののない羊の毛のようであった。そのみ座は火の炎であり、その車輪は燃える火であった。
彼の前から、ひと筋の火の流れが出てきた。彼に仕える者は千々、彼の前にはべる者は万々、審判を行う者はその席に着き、かずかずの書き物が開かれた。」(ダニエル書7章9、10)

神の国に入るために必要なことは、イエスをキリストと信じることをおいて他にはありません。
この白い御座の裁きとは別に、イエスをキリストと信じる者たちが受ける唯一の裁きは、千年王国が始まる前に行われると思われます。
         
この裁きは、キリストの座の裁きと呼ばれ、ちょうどオリンピック競技の審判のように競技で表彰者を決める判定のような裁きです。
それは、イエスをキリストと信じる者たちは、キリストに似た者へと変えられるという目標に向かって競技者が人生をどのようにキリストに信頼して走ったのかが問われ評価されるからです。
使徒パウロはこのことについて、次のように述べています。
「競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。
また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。」(第一コリント人への手紙9章24,25、)

千年の神の国の終わりに、大きな白い御座の前で裁かれる者は残念ながらすべての人が有罪となります。
それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。
いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれ、永遠の火の燃える暗闇の彼方、ゲヘナへ投げ込まれます。

21章からは神が新しい天と新しい地を創造され、サタンも罪もない、想像を超えた永遠の世界が展開されてゆく様子が描かれます。



 
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