最後の警告  

(黙示録15章の講解)

「主の日」は創造主である神の怒りの時、定められた裁きの時、神の報復の時です。
第7の最後の封印が解かれると、7つのラッパの裁きが繰り広げられ、7つ目のラッパが吹き鳴らされると、さらに7つの鉢の神の怒りが地上に下されます。

神は7つの鉢の裁きによって神に反逆し、イエスを拒否し、神の愛と恵みを受け取ろうとしないこの世に最終的な裁きを下されます。15章は、そのときの天上の様子が描かれます。 
人類にとって、罪にたいする神の怒りの日が必ず到来すること、そして、その日は近いということが再三にわたって警告されてきました。(エゼキエル30:3、ヨエル2:1,3:14、オバデヤ15章、ゼファニア1:7、ゼカリア14:1、)
患難の7年の後半の三年半は大患難とよばれる時代であり、イエス・キリストが地上に再臨され千年の期間この地上に御国が来たらされる直前の三年半に該当します。

聖書全体の記述に共通しているのは、ある事柄の全体像が描写され、その後でその全体像についてのより詳細な説明がされるという方法が採られています。

15章では、創造者である神を否定し、キリストの福音を受け入れないこの世に対する最終的な怒りと裁きの行われる背景が描かれ、天においておこることについて述べられ、続いて16章からキリストが地上に再臨される直前まで地上に呼応して起こる詳細な説明が述べられてゆきます。

黙示 15:1 また私は、天にもう一つの巨大な驚くべきしるしを見た。七人の御使いが、最後の七つの災害を携えていた。神の激しい怒りはここに窮まるのである。
黙示 15:2 私は、火の混じった、ガラスの海のようなものを見た。獣と、その像と、その名を示す数字とに打ち勝った人々が、神の立琴を手にして、このガラスの海のほとりに立っていた。

ヨハネは巨大な驚くべきしるしが天にあらわれるのを見ました。それは、七人の御使いが。最後の七つの災害を携えてあらわれ、神の激しい怒りが頂点に達することが示されていました。     

神の怒りはどのようにして窮まるのでしょうか。創世記には神がアブラハムと契約を結ばれるときの様子が述べられています。

日が沈みかかったころ、深い眠りがアブラムを襲った。そして見よ。ひどい暗黒の恐怖が彼(アブラハム)を襲った。そこで、アブラムに仰せがあった。「あなたはこの事をよく知っていなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない国で寄留者となり、彼らは奴隷とされ、四百年の間、苦しめられよう。
しかし、彼らの仕えるその国民を、わたしがさばき、その後、彼らは多くの財産を持って、そこから出て来るようになる。
あなた自身は、平安のうちに、あなたの先祖のもとに行き、長寿を全うして葬られよう。
そして、四代目の者たちが、ここに戻って来る。それはエモリ人の咎が、そのときまでに満ちることはないからである。」(創世記15章10-16)

これは、アブラハムとサラに子孫が与えられ、約束の子孫が神に約束されたカナンの地を所有することを約束された箇所ですが、神はアブラハムに約束の子孫、イサク、ヤコブの子供たちが異国の地エジプトに寄留し、奴隷とされて四百年の間、苦しめられ、カナンの地でエモリ人の悪が満ちるとき、神のエモリ人に対する怒りが頂点に達することが預言されています。

カナンの地に住むエモリ人たちは、イスラエルの民がエジプトに四百年のあいだ寄留している間に、創造者である神に立ち返る機会が与えられたにも拘わらず、悪と暴力と淫らな性行為に満ち、そのために、神はエモリ人たちが滅ぼされることを許されました。
神の忍耐を無視し、神の愛を否定し続けるとき、神の怒りがエモリ人にたいして窮まったように、裁きが必ず下されます。

神は忍耐と寛容に富んだ方ですが、神の忍耐は罪や悪を見過ごしたり、妥協されたり、まして容認される方ではありません。最後の鉢の災害によってキリストを拒否し続けるこの世にたいする裁きが完成されます。

最後の七つの鉢の災害は、神のご計画が完成し、この世に神の国がもたらされるための過程であり、この災害によってこの世は一掃され、浄化されます。

天上の場面に出てくる火の混じったガラスの海のようなほとりに立つ人々は、患難の時代にイエスが栄光のキリストであることを信じた人々です。                    この人々は、獣と、その像と、その名を示す数字とに打ち勝った患難の時代、反キリストによって地上で迫害を受け殺されることになる人々です。                    彼らはキリストの身体、教会の人々ではありません。彼らは、地上では敗者であり迫害の対象となる人々です。しかし、天上では勝者としてイエスがガリラヤの湖の上を歩まれたように、天上でガラスの海の上に立ち、竪琴を手にして神の驚くべき業を褒め称えるのです。

黙示 15:3 彼らは、神のしもべモーセの歌と小羊の歌とを歌って言った。「あなたのみわざは偉大であり、驚くべきものです。主よ。万物の支配者である神よ。あなたの道は正しく、真実です。もろもろの民の王よ。

彼らはモーセの歌と子羊の歌を歌います。
モーセの歌は、イスラエルの民がエジプトで奴隷の状態から解放され、敵の手から逃れて紅海の向こう側に渡り、海の水がエジプトの軍勢を飲み込み全滅させられるのを目の当たりにして、神の驚くべきわざを褒め称え、勝利と解放を喜び、共に歌った歌です。(出エジプト記15章1-21参照)
子羊の歌は5章で見たように、ほふられた子羊のように見えたイエスが、生き物と二十四人の長老たちの賛美のなかで、流された血によってこの世をご自身に買い戻され、贖いが完成することを喜び歌う歌です。

黙示 15:4 主よ。だれかあなたを恐れず、御名をほめたたえない者があるでしょうか。ただあなただけが、聖なる方です。すべての国々の民は来て、あなたの御前にひれ伏します。あなたの正しいさばきが、明らかにされたからです。」
黙示 15:5 その後、また私は見た。天にある、あかしの幕屋の聖所が開いた。
黙示15:6 そしてその聖所から、七つの災害を携えた七人の御使いが出て来た。彼らは、きよい光り輝く亜麻布を着て、胸には金の帯を締めていた。

ヨハネは、ここで神のわざが真実で正しいことを宣言しています。

わたしたちは、状況に捉われ、自分たちの理解の範囲で「神が本当に公平なら何故そのようなことが許されるのだろうか。」と、神への疑問を投げかけます。しかし、神は常に、わたしたちの思いや判断を超えてはるかに正しく公平な方です。

サタンはつねに背後で、神にたいする疑問と挑戦をするように、わたしたちの思いを仕向けています。
人がサタンの誘惑に陥ったときの最初の問いかけは、神の公平さ、正しさに対する疑問と挑戦であったことを思いおこしてください。(創世記3章 参照)

獣と、その像と、その名を示す数字とに打ち勝った人々が「 主よ。だれかあなたを恐れず、御名をほめたたえない者があるでしょうか。ただあなただけが、聖なる方です。」と宣言しています。

イエスキリストが再臨されるとき、すべての被造物はキリストを伏し拝みます。

イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。(ピリピ書2章10、11)ということばが実現します。

神のこの世にたいする最後の裁きがはじまる直前に、汚れない光輝く亜麻布を身にまとい、金の帯を胸に締めて、七人の御使いが七つの災害を携えて天にある証の幕屋からでてくるのをヨハネは幻に見ました。

黙示 15:7 また、四つの生き物の一つが、永遠に生きておられる神の御怒りの満ちた七つの金の鉢を、七人の御使いに渡した。
黙示 15:8 聖所は神の栄光と神の大能から立ち上る煙で満たされ、七人の御使いたちの七つの災害が終わるまでは、だれもその聖所に、はいることができなかった。

御座に仕える四つのケルビムの一つのケルブが、神の愛を拒否し、背き、真理に従わず、神を冒涜するこの世のすべての者にたいする神の御怒りの満ちた金の鉢を、七人の御使いに渡します。
この七人の御使いが怒りの鉢を地上に注ぎ、栄光のイエスが地上に再臨される前の最終的な裁きが下され、その最後の災害が終わるまで聖所は神の栄光から立ち上る煙で満たされ、だれも聖所に入ることができませんでした。



 
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