主と共にシオンの山の上に立つ人々  

(黙示録14章の講解)

14章では、イエスの流された血を受け入れない人々に対する子羊自身の怒りが引き続きヨハネの見た幻の中で示されます。

黙示 14:1 また私は見た。見よ。小羊がシオンの山の上に立っていた。また小羊とともに十四万四千人の人たちがいて、その額には小羊の名と、小羊の父の名とがしるしてあった。
黙示 14:2 私は天からの声を聞いた。大水の音のようで、また、激しい雷鳴のようであった。また、私の聞いたその声は、立琴をひく人々が立琴をかき鳴らしている音のようでもあった。
黙示 14:3 彼らは、御座の前と、四つの生き物および長老たちの前とで、新しい歌を歌った。しかし地上から贖われた十四万四千人のほかには、だれもこの歌を学ぶことができなかった。

ヨハネは、ここで、シオンの山にサタンの反抗を制圧し、勝利されている神の子羊、イエス・キリストと共に立っている十四万四千人の人々の幻を見ました。

大患難の時代の只中で龍であるサタン、獣の反キリスト、別の獣である偽預言者が、全世界を惑わし多くの人が滅びの罠の虜となっていく状況にあって、神の子羊が完全に勝利し、その額に子羊の名と、子羊の父の名がしるされたイスラエルの選ばれた十四万四千人の人々が、主なる神の圧倒的な力に支えられて共にシオンの山の上に立ちます。
この十四万四千人の人々は7章で見たように、イスラエルの十二部族から選ばれたそれぞれ一万二千人の人々です。
彼らは、キリストの花嫁である教会が携挙された後に、イエス・キリストがメシアであり、イスラエルの油注がれた方であることに気付き、イエス・キリストに対する忠節を失うことなく大患難の時代、反キリストによる迫害と試練をくぐり抜ける人々です。

彼らが天の御座の前で歌う新しい歌は大患難のなかでキリストへの忠節を失うことなく迫害と試練をくぐり抜けた者だけが歌うことのできる歌なのです。
わたしたちも、この世の安易な同情や誘惑に妥協せず神の真実、神の子羊に純潔な者、神の子羊にどこまでも従う者であるとき状況やわたしたちの理解を超えた心に新しい喜びの歌がわきあふれるのです。
どのような試練や迫害の中にあってもイエスキリストの救いに信頼し、イエスを主とするとき、すべてが共にはたらいて益となることは、神の約束です。

黙示 14:4 彼らは女によって汚されたことのない人々である。彼らは童貞なのである。彼らは、小羊が行く所には、どこにでもついて行く。彼らは、神および小羊にささげられる初穂として、人々の中から贖われたのである。
黙示 14:5 彼らの口には偽りがなかった。彼らは傷のない者である。

この十四万四千人の人々は純潔であり、子羊の行くところへどこへでも従う人々です。神の御座の前に出る彼らの口には偽りがなく、傷のない者とされることが宣言されています。

イエス・キリストの流された血、神の愛に信頼し、イエスを主として人生を歩む人々には、使徒パウロが「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。」(ピリピ人への手紙1章6)と述べているように、神がわたしたちを御前に完全な者として立たせてくださいます。

神の御座の前に立つとき、イエス・キリストは確実に、「 あなたがたを、つまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びをもって栄光の御前に立たせることのできる方」(ユダ書24)です。

イエス・キリストへの純潔を失わず、小羊のゆくところへどこでも従う人々は傷のない者、口に偽りのない者として、必ず大きな喜びをもって栄光の御前に立つことができると約束されています。

黙示 14:6 また私は、もうひとりの御使いが中天を飛ぶのを見た。彼は、地上に住む人々、すなわち、あらゆる国民、部族、国語、民族に宣べ伝えるために、永遠の福音を携えていた。
黙示 14:7 彼は大声で言った。「神を恐れ、神をあがめよ。神のさばきの時が来たからである。天と地と海と水の源を創造した方を拝め。」

神は超自然的な存在、天使を使われて福音を全世界に宣べ伝え、7節に述べられているように、この天使は全世界の人々に「神を恐れ、神をあがめよ。神のさばきの時が来たからである。天と地と海と水の源を創造した方を拝め。」という最後の警告を与えます。

イエスは、復活をされた後に弟子たちにガリラヤの山の上に登るよう指示され、彼らにこう言われた。
「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。
それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ福音書28章19-20)と、言われました。

この箇所から、多くの人々は、全世界に福音が伝えられないと、主の再臨は実現しないと考えてきました。

福音が宣べ伝えられることは、教会の時代の大切な使命であることは間違いありません。
しかし、伝道の目的や動機は、失われた魂が救われるためであって、必ずしも神の国の到来、キリストの再臨を早めることではありません。何故ならこの箇所で宣言されているように、神は超自然な天使を使われても福音を世界の人々に伝えることがお出来になるからです。

イエスが十字架に架かられる直前、オリブ山の上でイエスの再臨と世の終わりについての弟子たちの質問に答えられたとき、「そしてこの御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである。」(マタイ福音書24章14)と、言われていますが、これは、明らかにこの箇所で述べられている大患難の時代のことについて言及されていることは間違いありません。
福音は、全世界に必ず宣べ伝えられます。

多くの人々が愚かにも、創造された被造物、天や地や海や水の源などの自然の素晴らしさを見てそれらを創造された方を拝むかわりに創造されたものを拝みます。

「それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。」(ロマ書1章25)
天地の被造物の素晴らしさをとおして、わたしたちはそれらを創造された神の素晴らしさを知ることができます。しかし、人がその神をあがめず、感謝もしないとき、人の思いはかえってむなしくなり、無知な心は暗くなってしまうのです。

「彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えた。」(ロマ書1章22,23)

天使は、最後の警告として全世界の人々に「神を恐れ、神をあがめよ。神のさばきの時が来たからである。天と地と海と水の源を創造した方を拝め。」と、大声で宣告します。

黙示 14:8 また、第二の、別の御使いが続いてやって来て、言った。「大バビロンは倒れた。倒れた。激しい御怒りを引き起こすその不品行のぶどう酒を、すべての国々の民に飲ませた者。」

また、第二、第三の御使いも第一の御使いに続いてやって来て最後の警告を与えます。さらに、天からも、「書きしるせ。『今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。』」御霊も言われる。「しかり。彼らはその労苦から解き放されて休むことができる。彼らの行ないは彼らについて行くからである。」と言っている声が聞こえました。

御使いは大いなるバビロンが倒れるという宣告をします。大バビロンが倒れることについては、17章でより詳しく見てゆくことになりますが、最後まで天地を創造された神を否定し、神の贖いを受け入れない人々は、結局、反キリストを拝み、そのイメージを拝み、獣の刻印を受けることになります。そして、それらの人々の行き着くところが永遠の滅びであるという警告が与えられます。

多くの人が、罪に対する神の裁き、肉の思いの行き着くところが滅びであることをあまり真剣に考えません。

完全な愛の方であり、完全な義の方である神は、罪と妥協される方ではないことを忘れている人々は、黙示録6章から19章特に後半の3年半に描かれている罪に対する裁きが文字通り起こることを見落としています。

大患難の時代に天使の警告や、二人の預言者の力強い証や、選ばれた十四万四千人のイスラエルの民をとおしてイエスをメシアであることを信じる人には、サタン、反キリスト、偽預言者や神を否定する人々からの容赦ない迫害が加えられます。
そのようなこの世からの迫害に対して聖徒たちがイエスに対する信仰を持ち続ける忍耐の励ましが与えられています。

黙示 14:9 また、第三の、別の御使いも、彼らに続いてやって来て、大声で言った。「もし、だれでも、獣とその像を拝み、自分の額か手かに刻印を受けるなら、
黙示 14:10 そのような者は、神の怒りの杯に混ぜ物なしに注がれた神の怒りのぶどう酒を飲む。また、聖なる御使いたちと小羊との前で、火と硫黄とで苦しめられる。
黙示 14:11 そして、彼らの苦しみの煙は、永遠にまでも立ち上る。獣とその像とを拝む者、まただれでも獣の名の刻印を受ける者は、昼も夜も休みを得ない。

第三の、別の御使いも、彼らに続いてやって来て、「もし、だれでも、獣とその像を拝み、自分の額か手かに刻印を受けるなら、そのような者は、神の怒りの杯に混ぜ物なしに注がれた神の怒りのぶどう酒を飲む。また、聖なる御使いたちと小羊との前で、火と硫黄とで苦しめられる。」という警告を大声で告げます。

神は、どんな時代でもすべての人に公平に福音と悔い改めの機会を与えられます。

神からの再三の警告にもかかわらず神を否定し、神の贖いを受け入れない人々、反キリストを拝み、そのイメージを拝み、獣の刻印を受ける人々は、神の怒りの杯に混ぜ物なしに注がれた神の怒りのぶどう酒を飲み、また、聖なる御使いたちと小羊との前で、火と硫黄とで苦しめられます。そして、彼らの苦しみの煙は、永遠にまでも立ち上り、獣とその像とを拝む者、まただれでも獣の名の刻印を受ける者は、昼も夜も休みを得ることがなく永遠に苦しみ続けるのです。

黙示 14:12 神の戒めを守り、イエスに対する信仰を持ち続ける聖徒たちの忍耐はここにある。」
黙示 14:13 また私は、天からこう言っている声を聞いた。「書きしるせ。『今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。』」御霊も言われる。「しかり。彼らはその労苦から解き放されて休むことができる。彼らの行ないは彼らについて行くからである。」

神の戒めを守り、イエスに対する信仰を持ち続ける聖徒たちには、神のこのような怒りと裁きが確実に起こることを覚えてどのような迫害にも忍耐することが求められています。

神は超自然的な存在、御使いによって全世界に福音と警告を伝えますが、この他にも天から「書きしるせ。『今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。』」御霊も言われる。「しかり。彼らはその労苦から解き放されて休むことができる。彼らの行ないは彼らについて行くからである。」という声を聞くことになります。
この時代には神を否定し、神に反逆するサタン、反キリスト、イエスの贖い、神の愛を否定する多くの人々によって、イエスの贖いを信じる人々は迫害を受けこの世で生きるより殉教すること、死ぬことがより好ましい状態となります。
それらの人々はイエスを救い主と信じる信仰によって行った忍耐と労苦が天において報われます。

黙示 14:14 また、私は見た。見よ。白い雲が起こり、その雲に人の子のような方が乗っておられた。頭には金の冠をかぶり、手には鋭いかまを持っておられた。   

さらに、ヨハネは白い雲があって、その雲の上に人の子のような者が座しており、頭には金の冠をいただき、手には鋭いかまを持っている幻を見ます。

聖書全体を通して、雲が神ご自身の臨在を示すことが幾つかの箇所に述べられています。

「三日目の朝になると、山の上に雷といなずまと密雲があり、角笛の音が非常に高く鳴り響いたので、宿営の中の民はみな震え上がった。」(出エジプト記19章16)

「主は雲の中にあって降りて来られ、彼とともにそこに立って、主の名によって宣言された。」(出エジプト記34章5)

「そのとき、雲は会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。」(出エジプト記40章34)
「雲が天幕を離れて上ると、すぐそのあとで、イスラエル人はいつも旅立った。そして、雲がとどまるその場所で、イスラエル人は宿営していた。」(民数記9章17)

「祭司たちが聖所から出て来たとき、雲が主の宮に満ちた。」(列王記上8章10)

「そのとき、ケルブの上にあったイスラエルの神の栄光が、ケルブから立ち上り、神殿の敷居へ向かった。」(エゼキエル書9章3)

彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲がその人々を包み、そして、雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。」という声がした。(マタイ福音書17章5)

「こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。」(使徒書1章3)

この箇所でヨハネは、神の臨在と共に、栄光のイエスキリストが裁き主として現れる姿を見るのです。
この時点を境にして神の恵みの御手を受けることは手遅れとなります。イエスの救いに預かる人々と、永遠の滅びに至る人々がはっきりと分けられます。

黙示 14:15 すると、もうひとりの御使いが聖所から出て来て、雲に乗っておられる方に向かって大声で叫んだ。「かまを入れて刈り取ってください。地の穀物は実ったので、取り入れる時が来ましたから。」
黙示 14:16 そこで、雲に乗っておられる方が、地にかまを入れると地は刈り取られた。
黙示 14:17 また、もうひとりの御使いが、天の聖所から出て来たが、この御使いも、鋭いかまを持っていた。

聖所から出て来た御使いが、雲に乗っておられる方に向かって「かまを入れて刈り取ってください。地の穀物は実ったので、取り入れる時が来ましたから。」と、大声で叫んぶと、雲に乗っておられる方が、地にかまを入れ、地が刈り取られる幻が出てきます。

すべての人に、イエス・キリストの贖いと恵みを受け入れ、神の子羊に従って生きるか、御子の贖いを受け入れず被造物を拝み、肉の思いによって生きるか、という二つに一つの選択が与えられています。
そして、この箇所が述べているように神が与えられた恵みと贖いを受け入れる限界点のような境があります。
神の恵み、救いを拒否し続けるとき、神の忍耐を超えてしまい、神の愛、神の恵みをうけとることのできない、取り返しのつかない領域の虜となり、主の刈り取りのとき永遠の滅びに至ることがあることを知るべきです。

マタイの福音書13章24-30には、農夫が自分の畑に良い種を蒔いたにも拘わらず人々の眠っている間に敵が来て麦の中に毒麦を蒔き、麦が芽生え、やがて実ったとき、毒麦も現われ、主人が収穫の時期に刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にし、麦のほうは、集めて倉に納めるという天の御国の譬えが語られています。
この譬えからもわかるように、神の御国がこの地上に到来する前に最後の刈り入れのときがやってきます。

黙示 14:18 すると、火を支配する権威を持ったもうひとりの御使いが、祭壇から出て来て、鋭いかまを持つ御使いに大声で叫んで言った。「その鋭いかまを入れ、地のぶどうのふさを刈り集めよ。ぶどうはすでに熟しているのだから。」
黙示 14:19 そこで御使いは地にかまを入れ、地のぶどうを刈り集めて、神の激しい怒りの大きな酒ぶねに投げ入れた。
黙示 14:20 その酒ぶねは都の外で踏まれたが、血は、その酒ぶねから流れ出て、馬のくつわに届くほどになり、千六百スタディオンに広がった。

そして、火を支配する権威を持った祭壇から出て来たもうひとりの御使いが、天の聖所から出て来た、鋭いかまを持つもうひとりの御使いに「その鋭いかまを入れ、地のぶどうのふさを刈り集めよ。ぶどうはすでに熟しているのだから。」と、大声で叫び、この声とともに地のぶどうが刈り集められ、神の激しい怒りの大きな酒ぶねに投げ入れられ、酒ぶねが都の外で踏まれ、その酒ぶねから血が流れ出て、馬のくつわに届くほどになり、千六百スタディオンに広がるという幻を見ます。

刈り集められた熟したぶどうの実は酒ぶねに投げ入れられ、都の外の酒ぶねで踏まれ皮や種、実を選り分け、精選された赤いぶどうの汁が搾り出され、この搾られたぶどうの汁が流れ出るようにエルサレムの都の外で血が流され、馬のくつわにとどくほどになります。

都の外で流される血は、メギドからエドムまでの距離、約180マイルにも広がるというのです。

このヨハネの見た幻は、イザヤ書の預言のなかにも次のように、述べられています。

「エドムから来る者、ボツラから深紅の衣を着て来るこの者は、だれか。その着物には威光があり、大いなる力をもって進んで来るこの者は。」「正義を語り、救うに力強い者、それがわたしだ。」「なぜ、あなたの着物は赤く、あなたの衣は酒ぶねを踏む者のようなのか。」
「わたしはひとりで酒ぶねを踏んだ。国々の民のうちに、わたしと事を共にする者はいなかった。わたしは怒って彼らを踏み、憤って彼らを踏みにじった。それで、彼らの血のしたたりが、わたしの衣にふりかかり、わたしの着物を、すっかり汚してしまった。わたしの心のうちに復讐の日があり、わたしの贖いの年が来たからだ。」(イザヤ書63章1-3参照)

この箇所の預言は、16章でもより詳しく述べるハルマゲドンの戦いです。このとき、メギドの平野一帯が血に染まり、戦いで流された人々の血が馬のくつわにとどくほどになり、ヨルダン渓谷を経てボズラ(ペトラ)にまで流れ出るというのです。



 
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