二人の証人

(黙示録11章の講解)

11章は引き続き、七つ目の封印が解かれると同時にラッパの裁きが始まり、第六のラッパの裁きから第七のラッパの間に地上で起こる出来事についての挿入部分、神が送られるイスラエルの二人の証人について述べられています。

黙示 11:1 それから、私に杖のような測りざおが与えられた。すると、こう言う者があった。「立って、神の聖所と祭壇と、また、そこで礼拝している人を測れ。
黙示 11:2 聖所の外の庭は、異邦人に与えられているゆえ、そのままに差し置きなさい。測ってはいけない。彼らは聖なる都を四十二か月の間踏みにじる。

ヨハネは杖のような測り竿を与えられ、神殿を測ることを命じられました。
ヨハネがこの幻をパトモス島で見たのは、すでにエルサレムの神殿がローマ軍団によって崩壊された紀元70年、それから20年を過ぎた紀元90年代であったと推定されています。
したがって、この箇所で述べられているヨハネの見た神殿の聖所と祭壇は、患難の時代になって反キリストによって中東の和平の象徴として再建される神殿に違いありません。
六章には、封印が開かれると同時に白い馬に乗った反キリストが出現する様子が描かれていましたが、この人物は、患難の時代が始まると同時に世界の混沌とした政治、社会状況のなかであたかも世界に平和をもたらし、中東問題に解決を与え、世界の政治、軍事、経済を統合する強力な世界的指導者として登場することでしょう。
彼は、中東和平の契約成立の象徴として、現在わたしたちが見ることのできる岩のドームと並んでイスラエルの民が待望するソロモンの時代の神殿の再建についてアラブ、イスラム諸国の同意を取り付けると思われます。
この人物については十三章で「反キリスト」について述べている箇所でより詳しく見てゆきたいと思います。
最近のユダヤ人考古学者アッシャーカウフマン教授を中心とする調査によれば、ソロモンやヘロデによって建てられた神殿の至聖所の位置、神殿の奥の部分が建っていたのは現在イスラム教の岩のドームの建っている北側、約100メートルに位置する霊のドームのあった場所であったのではないかと推定されています。
現在、正統派のユダヤ教の人々は神殿の丘に行くことはありませんが、この推定が当たっていれば岩のドームはソロモンの神殿の外庭に位置していることになります。
このことは、ヨハネが見た神殿の聖所の外の庭は、「異邦人に与えられているゆえ、そのままに差し置きなさい。測ってはいけない。」と言うのを聞いたことからも、興味深いことです。
この11章では、反キリストによって人々が欺かれ、イスラエルに平和がもたらされたように思ったユダヤ人たちが、患難の時代の7年間の後半の期間、四十二ヶ月、千二百六十日の間、今までにない迫害の期間を迎えることが述べられています。

黙示 11:3 それから、わたしがわたしのふたりの証人に許すと、彼らは荒布を着て千二百六十日の間預言する。」

20世紀に入り、第二次世界大戦中ヒトラ-のナチスドイツによってユダヤ人が迫害を受け、六百万人以上ものユダヤ人が強制収容所で虐殺されたことは人々の記憶にまだ新しいものとして残っています。
患難の時代の後半、三年半の期間に反キリストをはじめ世界中の人々は、再びユダヤ人への迫害の手を伸ばし、このときのユダヤ人たちへの迫害はヒトラーのナチスがおこなった迫害を上回る今までに歴史上なかったような大規模な迫害が行われることが預言されています。
このような時代のなかで神はユダヤ人のために神ご自身を証する二人の証人を立てられます。
後の14章でもみることが出来るるように、神は世界中の人々に永遠の福音を宣べ伝える天使を証人として送られます。
神は、わたしたちがどのような状況に置かれるときでも神ご自身を証しされ、福音を伝え、証しする者を用意されています。
ここで述べられている二人の証人は、ユダヤ人のために立てられ、すさまじい迫害の只中にあって、今までイエスがメシアであることを否定してきた人々も最終的にイエスが自分たちの救い、メシアであることを受け入れる機会が与えられます。
証人が二人立てられるのは、「すべての事実は、ふたりか三人の証人の口によって確認されるのです。」(第二コリント人への手紙13章1参照)と、言われるように聖書全体をとおして、二人以上の証しによって正しさが確認されるためです。
この二人の神の証人は、荒布を着て千二百六十日の間預言するというのですが、世界のほとんどの人々が彼らの証を歓迎せず、この二人の証人を滅ぼそうと試みます。
荒布は、国家の状態を嘆くときに多くの預言者たちがしばしば身にまといました。
神に特別な力を与えられたこの二人の預言者は、イスラエルの国家の状態を憂い、荒布を身にまといイエスがメシアであり罪の贖いを完成され、この世に再臨されるイエスによって神の国がもたらされる日の間近いことを三年半の間預言し続けます。

黙示 11:4 彼らは全地の主の御前にある二本のオリーブの木、また二つの燭台である。

この二人の預言者に与えられる特別な力が、神の霊であることがこの箇所に示されています。

旧約聖書ゼカリア書4章にはゼカリヤの見た幻をとおして神に信頼する者に、絶えることのない神の霊が注がれ、この世の力や権勢に優って栄光に満ちた神の力が与えられることが述べられています。
ゼカリヤが見たのは、七本の管の上部の鉢からともしび皿に生きたオリーブの木から直接に油が注がれるように、金の燭台のそばに二本のオリ-ブの木があり、一本は鉢の右に、他の一本は鉢の左にあるという幻でした。
燭台は、闇を照らす光としての重要な象徴でした。神殿の聖所のなかで祭司たちは、明かりが消えないように、燭台のともしび皿に油を絶やさずに、ミノーラの七本の管の上部の鉢に油を満たすことが日常の重要な役割でした。
油は聖書全体をとおして聖霊をあらわす象徴となっています。
従って祭司が毎日ともしび皿に油を切らさないように鉢にある油を点検し、あらたに油を注ぐ作業をしなくとも、火が燃え続け、神殿の聖所の明かりが灯されているという興味深い幻をゼカリヤは見たのでした。
神が注がれる聖霊によって自分たちの能力や力を越えた大きな山も平らにすることができることをゼカリヤに示されました。
この二本のオリーブの木、二つの燭台は、神の証のために立てられた二人の預言者であり、彼らに栄光に満ちた神の霊の力が与えられていることを示しています。
神の霊に満ちたこの二人の預言者に与えられている力がどのようなものなのかが次の節に述べられています。

黙示 11:5 彼らに害を加えようとする者があれば、火が彼らの口から出て、敵を滅ぼし尽くす。彼らに害を加えようとする者があれば、必ずこのように殺される。
黙示 11:6 この人たちは、預言をしている期間は雨が降らないように天を閉じる力を持っており、また、水を血に変え、そのうえ、思うままに、何度でも、あらゆる災害をもって地を打つ力を持っている。

この二人の預言者 が本当に誰なのかについては、あくまでも推測の域をでることができません。多くの神学者たちは二人のうち一人は、ほぼ確実に旧約聖書のエリヤであるという意見で一致しています。
旧約聖書のマラキ書には「見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。」(マラキ書4章5)と、主の大いなる恐ろしい日、患難の時代の後半が訪れる前に預言者エリヤがイスラエルの民に神によって送られることが預言されています。
イエスは、バプテスマのヨハネのことを「この人こそ、『見よ、わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を、あなたの前に備えさせよう。』と書かれているその人です。 」(マタイ福音書11章10)と言われ、「あなたがたが進んで受け入れるなら、実はこの人こそ、きたるべきエリヤなのです。」(マタイ福音書11章14)と、言われています。
イエスはバプテスマのヨハネはメシアを待望する人々にとってメシアが現れる前に道を整える預言者エリヤのような者として現れたのだ、と言われました。
しかし、ヨハネがマラキ書の完全な成就であると言われたのではありません。
マタイ福音書17章には、イエスが弟子のペテロとヤコブ、その兄弟ヨハネを連れて高い山に登られ、彼らの目の前で変貌されたときのことが述べられています。
このとき、ペテロとヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネは、栄光のイエスの姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣が光のように白く輝くのを見ただけではなく、モーセとエリヤが現れてイエスと話し合っているのを目の当たりにしました。
彼らが山を降りるとき、イエスは彼らに「エリヤが来て、すべてのことを立て直す」ことを話され、主の日にはマラキ書の預言が文字通り成就し、エリヤが遣わされることを述べられました。 
ダビデ、ソロモンが王の時代に繁栄を誇ったイスラエルは、ソロモンの晩年の背信によって分裂、衰退、そして王国の滅亡を招く歴史を辿ってゆきます。
分裂をした北イスラエルの王国は、天地を創造された全能の主なる神から他の神々に心を移す王たちによって様々な問題を引き起こしてゆきます。そのなかでも、イスラエルのアハブは、民を不道徳と退廃に引き込んだ最悪の王でした。
このような時代に、あらわれたのが、預言者エリヤでした。
エリヤは突如、イスラエルの王と民にあらわれ、「私の仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私のことばによらなければ、ここ二、三年の間は露も雨も降らないであろう。」
と宣言し、人々の前から姿を消してしまいました。
3年半が過ぎるころ、エリヤは、突如あらわれカルメル山に、全イスラエルとイゼベルの食卓につく四百五十人のバアルの預言者と四百人のアシェラの預言者とを集めたった一人で四百五十人のバアルの預言者と、四百人のアシェラの預言者たちと対決をしました。

この箇所に、この二人が預言をしている期間は雨が降らないように天を閉じる力を持っていることが述べられていますが、このことからも、ラッパの裁きによって地上に主の日、神の怒りのときにあらわれる預言者のうち一人は、ほぼ疑う余地なくエリヤであろうとおもわれます。

もう一人の神が立てられる預言者については、旧約のエノク、ゼルバベル、または新約のバプテスマのヨハネなど、神学者によって様々な推測とその理由付けがされていますが、いづれも推測の域を出ることはできません。
しかし、一人が預言を代表するエリヤだとすればもう一人は、律法を代表するモーセであろうという推測が多くの聖書学者たちの一致するところのようです。
この箇所で水を血に変え、思うままに、何度でも、あらゆる災害をもって地を打つ力を持っている、ということからもモーセがエジプトの王パロとエジプトの地で行った数々の奇跡を思い起こさせますし、イスラエルの民にとってモーセが偉大な神の証人であること、ペテロとヤコブ、ヨハネの三人が、イエスと共に高い山に登り、そこでイエスが御国の栄光に満ちた姿に変貌されるのを目撃したときにもモーセとエリヤが現れてイエスと話し合っているのを目の当たりにしていることからも神を証しする二人の証人がエリヤとモーセであろうという推量は裏づけのあるものと言えるでしょう。
神を証する二人の証人に害を加えようとするものには、天から火が降り彼らは滅ぼされるというのです。

黙示 11:7 そして彼らがあかしを終えると、底知れぬ所から上って来る獣が、彼らと戦って勝ち、彼らを殺す。
黙示 11:8 彼らの死体は、霊的な理解ではソドムやエジプトと呼ばれる大きな都の大通りにさらされる。彼らの主もその都で十字架につけられたのである。

すべての人が人生においてイエスを救いとして受け入れる機会と、イエスが救いであることを証しする機会を与えられています。そして、人のこの世での生涯は神がよしとされるまで終わることはありません。二人の証人もその証しを終えるまで、誰も手を加えることができません。
しかし、二人の証人が証しを終えると、底知れぬ所から獣が上って来て、彼らと戦って勝ち、彼らを殺します。この獣は、「あなたの見た獣は、昔いたが、今はいません。しかし、やがて底知れぬ所から上って来ます。そして彼は、ついには滅びます。地上に住む者たちで、世の初めからいのちの書に名を書きしるされていない者は、その獣が、昔はいたが、今はおらず、やがて現われるのを見て驚きます。」(黙示録17章8)と、記されているサタンの化身、反キリストです。
神は、ご自身の業とご計画が完成してゆくときまで、この二人の証人のこの世でのいのちを大患難の時代に守られ、人々がイエスキリストの福音の証しを聞く機会を与えられますが、大患難の時代の最後に反キリストによって二人の証人は殺され、彼らの死体が都の大通りにさらされます。
ここで、霊的な理解ではソドムやエジプトと呼ばれる大きな都といわれている都は、あきらかにエルサレムの都のことを指しています。エルサレムの都がソドムやエジプトに例えられるということは、エルサレムの都の人々への神からの告発です。
神はエルサレムの都を愛され「今、わたしは、とこしえまでもそこにわたしの名を置くためにこの宮を選んで聖別した。わたしの目とわたしの心は、いつもそこにある。」(第二歴代誌7章18)と、言われた都です。
それにも拘わらず、この都で反キリストの霊に支配される人々によって、神の御子を十字架に架けて殺し、霊的にはエジプトやソドムのような都であると言われています。
二人の証人は、獣とよばれる反キリストによって殺され、死体がエルサレムの都の大通りにさらしものにされるのです。
生ける神を拒否し、否定する人の心に、残忍さと非情さが隠されていることは恐ろしいことです。

黙示 11:9 もろもろの民族、部族、国語、国民に属する人々が、三日半の間、彼らの死体をながめていて、その死体を墓に納めることを許さない。

ヨハネがこの黙示録を書きとめた時代に、もろもろの民族、部族、国語、国民に属する人々が、三日半の間、彼らの死体をながめるなどということは不可能なことでした。しかし、現代の情報技術は衛星中継によって連日のようにわたしたちの生活に影響する出来事を刻々と伝え、民族、部族、国語、国民に属する人々が、それを眺めることが可能です。テレビ、インターネット、携帯電話などの端末から衛星中継によって地球の反対側で起こっている出来事、情報を刻々と眺めることができる出来るという、半世紀前には考えられなかった世の中に現代のわたしたちは暮らしているのです。
世界中の人々が三日半の間、エルサレムの都の大通りにさらされた二人の証人の死体に暴徒と化しその死体を墓に納めることさえ許さない人々を居ながらにして眺めることになるのでしょう。

黙示 11:10 また地に住む人々は、彼らのことで喜び祝って、互いに贈り物を贈り合う。それは、このふたりの預言者が、地に住む人々を苦しめたからである。

すべての人々の心のなかに天と地とそのなかのすべてを創造された神の意志よりも、自分自身の意志肉の思いを優先させたいという罪の性質が宿っています。
神が御子をこの世に送られ、わたしたちの神への背き、肉の思いによる罪の性質とその裁きの責めを十字架という究極の責めによってわたしたちの代わりに負ってくださったことを信じず、キリストを否定し拒否する世界中の人々は、二人の証人が証しする神の素晴らしい愛、救いの証しを聞こうとしません。
人々は、語られる神の真実の証しに耳を傾けず、かえって二人の証人の証しを否定し続けることで、人々は罪の意識を思い起こし、良心の呵責を引き起こされ苦しめられることとなります。
この時期、世界中の人々は反キリストの欺きに支配され、この二人の証人が殺されることに賛同し、彼らが黙ることを喜び、二人の証人が殺され自分たちの罪を糾弾する者が居なくなることを祝い、人々が歳暮や中元の時期に互いに贈り物を贈りあうように、贈り物をしあって喜び祝うというのです。 

黙示 11:11 しかし、三日半の後、神から出たいのちの息が、彼らにはいり、彼らが足で立ち上がったので、それを見ていた人々は非常な恐怖に襲われた。
黙示 11:12 そのときふたりは、天から大きな声がして、「ここに上れ。」と言うのを聞いた。そこで、彼らは雲に乗って天に上った。彼らの敵はそれを見た。

世界中の人々がテレビ、インターネット、携帯電話などの端末から衛星中継によって、暴徒と化した群衆がエルサレムの都の大通りにさらされた二人の証人の死体を見ている三日半の後「ここに上れ。」という声とともに、突然神から出たいのちの息が、彼らにはいり、彼らが生き返ったので、それを見ていた人々は非常な恐怖に襲われました。
二人の証人が殺されることに賛同し、彼らが黙ることを喜んでいた世界中の人々が、二人の証人の死体に突然神から出たいのちの息がはいり、起き上がって天に昇ってゆくのを目の当たりにして電撃のような衝撃が伝わるでしょう。

黙示 11:13 そのとき、大地震が起こって、都の十分の一が倒れた。この地震のため七千人が死に、生き残った人々は、恐怖に満たされ、天の神をあがめた。
黙示 11:14 第二のわざわいは過ぎ去った。見よ。第三のわざわいがすぐに来る。

人々が衝撃に襲われているとき、エルサレムの都は大きな地震に襲われ、この地震によってエルサレムの十分の一が陥没し、よく知られたユダヤ人の七千人の人々が死に、生き残った人々が驚き恐れているあいだに、天使の吹き鳴らすラッパの最後の裁きと災いがやって来るのです。

黙示 11:15 第七の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、天に大きな声々が起こって言った。「この世の国は私たちの主およびそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される。」

この天使が吹き鳴らす裁きの合図のラッパと、4章で見た教会の時代、異邦人の時が終わって、教会がキリストの花嫁として引き上げられるときに吹き鳴らされる合図の神のラッパとは異なるラッパであることに注意してください。
この裁きの合図のラッパは、天使によって吹き鳴らされますが、教会がキリストの花嫁として引き上げられる携挙のときのラッパは神のラッパであり、神のラッパと天使の吹き鳴らす裁きのラッパとを混同することは、黙示録のみならず聖書全体を貫いて述べられているイスラエルと異邦人を含む教会にたいする神のご計画にたいする理解を混同させることになります。
第七の御使いのラッパが鳴ると、神の約束された御国を相続する約束がすべての信仰者に成就されます。
アブラハムをはじめ多くの信仰を抱いて死んだ人々は、死んだときに約束のものを手に入れることはありませんでした。彼らは、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白しました。多くの信仰者たちが、約束のものを手に入れるために忍耐強く神の国を待ち望み、「もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない。」(「 この幻は、なお、定めの時のためである。それは終わりについて告げ、まやかしを言ってはいない。もしおそくなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない。」(ハバクク書2章3参照))という約束の成就を待ち望みました。
第七の御使いのラッパが鳴ると、天に大きな声々が起こって「この世の国は私たちの主およびそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される。」という宣言をヨハネは聞き、神の国の預言の成就が間近いことを知らされます。
これは、神の国の成就の間近いことを知らせる喜ばしい知らせであると同時に、神のすべての裁きが行われるまでこの世の国々が未だにキリストの完全な支配下にはないことを示唆しています。
この世は、未だにサタンの支配下にありますが、キリストの贖いを信じるものにとっては罪の裁きの清算がすでにキリストによって成され、わたしたちの罪が帳消しにされ、わたしたちを束縛する罪の力から解放され、勝利の列に加えられていることを聖霊の証によって知ることができます。
わたしたちが「この世の国は私たちの主およびそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される。」という宣言を聞き、栄光のイエスが神のもとへ買い戻されたこの世の所有権を取り戻されるときは間近に迫っています。

黙示 11:16 それから、神の御前で自分たちの座に着いている二十四人の長老たちも、地にひれ伏し、神を礼拝して、
黙示 11:17 言った。「万物の支配者、常にいまし、昔います神である主。あなたが、その偉大な力を働かせて、王となられたことを感謝します。

この二十四人の長老たちについては4章で詳細を述べてきましたが、彼らは栄光に満ちた神のご計画の素晴らしさに御座の前にひれ伏して、神を礼拝し、賛美して、「万物の支配者、常にいまし、昔います神である主。あなたが、その偉大な力を働かせて、王となられたことを感謝します。」と、言っているというのです。
天と地とそのなかにあるすべてを創造され、ご自身に似せて人を創造された神は、常に最終的で絶対的な御力と権威を持っておられます。
イエスが十字架の上で罪の贖いを完成され、復活された直後にでも神の国を建てることは容易なことだったはずです。
それだからこそ、イエスが復活され弟子たちに度々現れ、神の国のことを語られたとき、弟子たちは一緒に集まったとき、イエスに、「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」と尋ねたのです。そして、彼らの問いに対して、「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。」(使徒書1章6、7参照)と答えられました。しかし、そうイエスが言われてからすでに約二千年の時が流れようとしています。
現代に暮すわたしたちにとって、われわれが耳にし、目で見るニュースのほとんどが、この世の不公平と不正、不品行と不義、殺人と偶像崇拝の事柄に満ちています。
わたしたちは、神が御子イエスによって罪を赦し、復活と永遠のいのちの希望を与えられていることを知っているにも拘わらず、この世で人生を歩むなかに問題や解決不能に思えるいろいろな状況に取り囲まれています。
わたしたちも、クリスチャンとしてこの世の状況に直面するとき、弟子たちとともに、「主よ。今こそ神の国をお建てになるのですか。」という性急な思いに駆られます。
神がわたしたちの思うように直ぐに神の御国を建てられず、長すぎると思えるような時が流れているのは、わたしたちがより精錬され、より純度の高い信仰によって神の栄光をほめたたえ、実を実らせることができる機会を与えられ、一人でも多くの魂がイエスキリストにある永遠のいのちにあずかることを神は望まれているからでしょう。
「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」(第二ペテロの手紙3章9)
神は愛と恵みに満ち、忍耐と寛容に富んだ方ですが、罪とは妥協されない完全な義の方であり、恵みのときを無期限に伸ばされ、不義をそのままに決して見過ごされる方ではありません。
神は永遠のご計画をすすめられ、この箇所で二十四人の長老たちがひれ伏して、「万物の支配者、常にいまし、昔います神である主。あなたが、その偉大な力を働かせて、王となられたことを感謝します。」と賛美しているように、「この世の国は私たちの主およびそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される。」ということがあたかもすでに成就したこととして宣言されます。

黙示 11:18 諸国の民は怒りました。しかし、あなたの御怒りの日が来ました。死者のさばかれる時、あなたのしもべである預言者たち、聖徒たち、また小さい者も大きい者もすべてあなたの御名を恐れかしこむ者たちに報いの与えられる時、地を滅ぼす者どもの滅ぼされる時です。」

イスラエルの指導者たちがイエスを拒否したのは、イエスに対する群衆の人気への妬みと自分たちの地位が脅かされることへの恐れでした。
すべての人の救いであるイエスの権威を拒否する人々は、イエスが治められることに自分たちの既得権が脅かされると思って恐れ、怒るのです。
しかし、再び来られる栄光のイエスは鉄の杖で彼らを打ち砕き、地を滅ぼそうとする者を焼き物の器のように粉々にし、滅ぼされ、すべてのものを御名の権威に服させるのです。
「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。
キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。
それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。
それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である。』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」(ピリピ書2章6-11)

黙示 11:19 それから、天にある、神の神殿が開かれた。神殿の中に、契約の箱が見えた。また、いなずま、声、雷鳴、地震が起こり、大きな雹が降った。

モーセによって神からイスラエルの民に授けられた律法の契約の書が入った箱は、天の御座を模して造られた幕屋の至聖所、ソロモンがイスラエルの王となったときには神殿の至聖所に置かれました。
しかし、この箱はバビロニア帝国にイスラエルが侵攻され、神殿が滅びた頃からその行方は謎とされました。
ヨハネは、天使の吹き鳴らす裁きの最後のラッパとともに、天にある、神の神殿が開かれた。神殿の中に、いなずま、声、雷鳴、地震が起こり、大きな雹が降ってくるなかで、契約の箱を見ました。



 
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