完全な堕落

(ロマ書3章9-18)


パウロは、神の律法を持っているイスラエルの民も、神の律法の知識を持っていない異邦人も、人は誰一人として神が求めている規準に自分の力で到底達することが不可能で、ことごとく罪の下にあると宣言しています。
 
自然のままのわたしたちは、真理に従うことよりも、自分中心の欲求に従い、神の基準からは完全に堕落した状態にあります。
それは罪の法則によって、わたしたちは罪の虜になっている存在だからだとパウロは述べています。

通常この宣言は、人間を中心としたこの世の考え方、人間中心の哲学と真っ向から対立する宣言です。 

人が、神の基準から完全に堕落した存在だという宣言はどういう意味なのでしょうか。

この箇所でパウロは、幾つかの旧約聖書に述べられている箇所を引用して、「神を求める人はいない」ことを宣べています。
詩篇には、人々の心には霊的な善が宿っていないために、心の思いは自分中心で占められ、創造者である神が、人に求めているような心の状態にはないことが様々な箇所で詠まれています。

「 あなたは悪しき事を喜ばれる神ではない。悪人はあなたのもとに身を寄せることはできない。  
高ぶる者はあなたの目の前に立つことはできない。あなたはすべて悪を行う者を憎まれる。
あなたは偽りを言う者を滅ぼされる。主は血を流す者と、人をだます者を忌みきらわれる。 」(詩篇5篇4-6)

「 悪しき者は高ぶって貧しい者を激しく責めます。どうぞ彼らがその企てたはかりごとにみずから捕えられますように。悪しき者は自分の心の願いを誇り、むさぼる者は主をのろい、かつ捨てる。
悪しき者は誇り顔をして、神を求めない。その思いに、すべて『神はない』という。」(詩篇10篇2-4)

「愚かな者は心のうちに『神はない』と言う。彼らは腐れはて、憎むべき事をなし、善を行う者はない。 主は天から人の子らを見おろして、賢い者、神をたずね求める者があるかないかを見られた。
彼らはみな迷い、みなひとしく腐れた。善を行う者はない、ひとりもない。」(詩篇14篇1-3)

「とがは悪しき者にむかい、その心のうちに言う。その目の前に神を恐れる恐れはない。
彼は自分の不義があらわされないため、また憎まれないために、みずからその目でおもねる。
その口の言葉はよこしまと欺きである。彼は知恵を得ることと、善を行う事とをやめた。
彼はその床の上でよこしまな事をたくらみ、よからぬ道に身をおいて、悪をきらわない。」(詩篇36編1-4)

「 彼らは心のうちに悪い事をはかり、絶えず戦いを起します。 彼らはへびのようにおのが舌を鋭くし、そのくちびるの下にはまむしの毒があります。」(詩篇140篇2-3)

イザヤも人が生ける創造者である神を見出すことができないのは、自分の義を主張し 真実に向き合うことをしないからだ、と述べています。

「見よ、主の手が短くて、救い得ないのではない。その耳が鈍くて聞き得ないのでもない。
ただ、あなたがたの不義があなたがたと、あなたがたの神との間を隔てたのだ。またあなたがたの罪が主の顔をおおったために、お聞きにならないのだ。
あなたがたの手は血で汚れ、あなたがたの指は不義で汚れ、あなたがたのくちびるは偽りを語り、あなたがたの舌は悪をささやき、ひとりも正義をもって訴え、真実をもって論争する者がない。彼らはむなしきことを頼み、偽りを語り、害悪をはらみ、不義を産む。」(イザヤ書59章1-4)

エレミアも人の心が耐え難く病んでいることについて、

「心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。だれがこれを、よく知ることができようか。
『主であるわたしは心を探り、思いを試みる。おのおのに、その道にしたがい、その行いの実によって報いをするためである』」(エレミア書17章9-10)と、述べています。

あらゆる宗教が、神々を求める人の思いによって成り立っており、真剣に求めさえすれば天国に行けることができると主張します。

それは、山に登るのに幾つかの登山道があり、どの登山道から登っても目指す頂上が一つであるように、それぞれが真剣に神を求めれば、神は人の誠実さ、真剣さを認められるという主張です。

このような主張に対して、聖書は、どんなに人が宗教的であったとしても、それは唯一の生ける創造者である神を求めていない、人が宗教的に神を求めているように見えても、それは宗教的な冥想や行事をとおして自分の求めている自己中心な願いや、自分自身の心の静寂や平安を求めているのであって神の聖と義の基準を人の基準にまで引き下げているだけで本当の頂上である神の聖、神の義に自分の力で辿り着くことはない、と宣言しています。

宗教的に神を求めること、人の側から神に届こうとする努力には結果的に神が不完全であることを求める危険が潜んでいます。

人が神の基準から完全に堕落しているということは、人がすべての創造者である神の存在を認めないということでも、完全に不道徳であり何が正しく何が正しくないということを見分ける能力がない、ということでもありません。
    
さらに、善意の人が存在しない、人が他の人に対する善い行いをすることが出来ない、人が社会的な善を求めないということでもありません。

人が堕落した状態にあるということは、自然の人は生ける創造者である神を求めることも、その御旨に従うことも、従う力もない、人の努力や宗教的探究によって神の聖、神の義に届くことはないということを意味しています。


神の裁きは公平で正しく、えこひいきがありません。

パウロは、神が一人一人の心の動機と行いに応じて報われることを述べて、人が神の律法を与えられ、道徳の規準を知っている場合も、神の律法を知らない場合も律法なしに罪を犯した者は、律法なしに滅び、律法のもとで罪を犯した者は、律法によって裁かれると述べ、神の裁きが公平なことについて述べています。

道徳的な規準、神の律法を知っているだけでは十分ではありません。
人は道徳的な規準をより知っていれば、その度合いに応じてより完全な行いが求められているのです。

イエスは、神の律法の知識を持っている人々に「 偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは、やもめたちの家を食い倒し、見えのために長い祈をする。だから、もっときびしいさばきを受けるに違いない。」(マタイ福音書23章14) 「 主人のこころを知っていながら、それに従って用意もせず勤めもしなかった僕は、多くむち打たれるであろう。
しかし、知らずに打たれるようなことをした者は、打たれ方が少ないだろう。多く与えられた者からは多く求められ、多く任せられた者からは更に多く要求されるのである。 」(ルカ福音書12章47,48)と言われて律法学者やパリサイ人たちの偽善を厳しく戒められました。   

神の律法を持っていない異邦人であっても、すべての人に何が正しいか、正しくない行いなのかを知る思いが心に刻まれています。わたしたちは、それを良心と呼んでいます。
その人の良心が神の律法の基準と合致し、人が良心に従って行動しているのであれば、たとえ神の律法を持っていなくとも、その人の良心が彼にとって律法となる、とパウロは述べています。      

しかし、人は必ずしも常に良心にしたがって行動をしません。
もし、人が良心の思いよりも自己中心的な欲求の思いを優先させる場合には良心は歪められ、良心に焼印を押され、良心は麻痺してゆきます。
人は、他人の目には正しい行いに見えても自分の良心を偽って行動し、その行いについて心のなかで葛藤を覚えながら行動し、誰一人として神が求められている規準には自分の力で到底達することが出来ません。

人の心の思いに刻まれる良心は、正しいこと、正しくないことの基準が人の心の思いであるために、正しいことと正しくないことを判断する心の思いよりも、自分がしたいという自己中心な欲求の思いが心のなかで生じ互いにせめぎ合い、あるいは自分の行いが良心に恥じるものではないことを心のなかで弁明し合うのです。


神はモーセをとおしてイスラエルの民に、神が人に求められている正しいこと、正しくないことの基準、律法を与えられました。

イエスも大切な戒めとは何かについて、律法学者の問いに答えておられます。
エルサレムの神殿で祭司長、律法学者、長老たちが、みもとに集まって イエスの権威について尋ねた後、律法学者が彼らが互に論じ合っているのを聞き、またイエスが巧みに答えられたのを認めて、イエスに、「すべてのいましめの中で、どれが第一のものですか」と質問したとき「第一のいましめはこれである、『イスラエルよ、聞け。主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である。心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。

第二はこれである、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これより大事ないましめは、ほかにない」(マルコ福音書12章28-31)と答えられ、神が人々に求めている規準がどのようなものなのかを示されました。

神は人が心をつくし、唯一の神に精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、神を愛すことを望まれています。

しかし、自然の人は人を創造された神よりも、人がつくり上げた神に心を寄せ、自分の心を偽り迷い出て道徳的であることや、宗教的になることで神の義からは程遠い人の善を行うことに心を向け、人創られた創造者である神を愛するよりも人造った偶像に心を寄せ自分自身を欺いていることに気付いていません。

さらに、神は人が「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛する」ことを望まれています。

聖書は、いまだかつて自分自身を憎んだものはないと宣言していますが、自分を愛するほどには他人を愛することをしません。
人は、他を批判する苦い言葉、自分の正しさを主張して他を傷つけ、結果的には他を愛するより、怒りと暴力によって他に報復し、他の人と敵対し、平和の道を知りません。

自然の人は、自分たちの堕落した状態にも拘らず自分たちの努力によって互いに愛し合うことが出来るという偽善に気付いていません。

イスラエルの民が神からモーセによって律法を与えられた後も、神が人に求めてている大切な戒めについてイエスに尋ね、イエスが答えられた大切な戒めを知っているわたしたちクリスチャンも、人は、神との関係でも他人との関係でも神が求めている戒め、律法を自分の力で全うし、神が喜ばれる規準を完全には満たすことができません。

多くの人が他の人に比較して自分が律法を守ったり、道徳的であることで自分が神の前で義とされるような錯覚に陥っています。

しかし、もし人が神の戒めや律法を神が望んでおられるように守ることが出来、神の前で義とされるならイエスの十字架はわたしたちの救いのために必要なかったということになります。

神が律法や戒めを与えられたのは、神の与えられている規準からわたしたちが如何に外れているか、また神が望んでおられる義の基準から遠く離れていることをわたしたちが知るためです。

律法が与えられたのは、 すべての人が自分の力では神の霊的な秩序を守ることができないことを認め、信仰によって義とされるためです。
パウロは、律法はわたしたちをキリストに連れて行くための養育掛だと述べています。(ガラテヤ人への手紙3章24参照)


イエスは、律法を知っているとして、自分は他人に比べて神の律法、戒めを守っていると思い、律法を人に比べて守っている、人に比べて自分は正しいと言うパリサイ人や律法学者たちの偽善をより厳しく非難されています。

神の戒めや律法が霊的なものであり、神が心の動機を見られるということを知るとき、どんなに他人の目から見てわたしたちの行いが神の戒めを守っているように見えても、心の動機は神の意図されていることからかけ離れていることを知り、わたしたちは神の前では正しいものとされないという罪責の念にかられます。 
 
わたしたちが自分の力や努力では到底神が義とされる規準に到達することが出来ないことを知るとき、わたしたちには、神に心を砕いて救いを求める他には天国に入る方法がないということになります。 

イエスが、「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。」(マタイ福音書5章3)と、言われたように、わたしたちが自分で自分を救うことができないこと、堕落した状態であることを知り、心の貧しい絶望的な状況で救いを求めるときに、わたしたちの絶望的な状態を救うために神が御子イエスを送られ、天国をわたしたちのものとし、十字架の上でわたしたちの罪を贖ってくださったという神の恵みを心から受け入れることができます。

すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのです。(ロマ書3章24)

「しかし、あわれみ豊かな神は、わたしたちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過によって死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし――あなたがたの救われたのは、恵みによるのである――キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのです。』(エペソ人への手紙2章4-5)リ
  



 
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